第十二章 取り込まれる者
俺は地下の闇に立ち尽くしていた。焦げた匂い、湿った空気、そして石柱に刻まれた意味不明な文字。それらすべてが、まるで俺を嘲笑うかのように存在していた。影――いや、もう「女」と呼ぶには収まりきらない、旅館で消えた人々の集合体の気配が、俺の周囲を覆っていた。無数の目が、俺を凝視している。心臓が何度も跳ねる。冷たい汗が背筋を伝った。
「お前は、最初から……呼ばれていた」
その囁きが耳を貫く。耳鳴りのようで、声は俺の頭の中を通り抜ける。言葉の意味が理解できる前に、背後から冷たい手が俺の肩に触れた。振り返ろうとするが、体は重く、動かない。足元の畳もなく、床も消えたような感覚に陥る。暗闇が、俺を吸い込もうとしている。
「やめろ……!」声を上げるが、空気は重く、声は霧散する。影は形を変え、女の顔、男の顔、友人の顔――あの夜、廃旅館で消えたはずの顔が、俺の周りを取り囲む。皆の目が俺を訴えているようだ。「連れてきたな……」その視線に、俺は言い訳の余地を失った。
逃げようと後ずさりした瞬間、地面が冷たくざらつき、俺の足を絡め取る。腕を伸ばしても、空間はねじれ、距離感が狂う。夢の中に迷い込んだようだ。だが、これは夢ではない。俺は確かにここに立ち、確かに存在している。だが、存在している感覚が、次第に薄れていく。自分の輪郭が、影に飲み込まれていく。
「ああ……お前が……」影の中から、かすかな友人の声が聞こえた。次に妹の声、母の声、そして父の声――家族の声が一斉に響く。「やめて!」「戻って!」その声に一瞬、俺は心を取り戻しそうになる。しかし、力は及ばない。影は無数の手で俺を抱き込み、骨の髄まで冷たい感覚が走る。
「すべてを……連れてきてしまった」俺は、やっと理解した。あの廃旅館、あの神棚、あの地下……すべての怪異は、俺が呼び込んでしまったのだ。最初の夜、鈴の音、スマホに映った顔、焦げ跡、濡れた畳……すべて俺が関わったことで目覚めたものだ。俺は他人を巻き込み、知らず知らずにこの呪縛を拡大させた。
抵抗する力も失われ、体が闇に吸い込まれる。意識が遠のく中、最後に見えたのは、地下祭壇の石柱の文字が光を放つ瞬間だった。文字は俺に語りかける。「次はお前の番だ」と。俺の身体は冷たい影の中で、次第に溶けていく。声にならない叫びは、誰の耳にも届かない。闇の奥で、俺の存在は他の失踪者たちと一つになる。
意識の残滓の中で、家族や友人たちの顔が最後に浮かぶ。俺は理解する。俺の行動が、彼らの平穏も侵してしまったことを。だが、もう戻れない。影の集合体は、俺を完全に取り込み、地下の闇の一部として固定してしまう。最後の瞬間、俺の目に映るのは、あの廃旅館の門が朝日に照らされて静かに佇む姿。表向きは廃墟で、外界には何も変わらぬ日常。だが地下では、俺を含めた影たちが、永遠にそこにいるのだ。
そして静寂が訪れる。地上では誰も異変に気づかず、ただ風が廃旅館の軒先を揺らすだけだった。
そして、旅館の闇は、また静かに息を潜めた。




