第十章 再訪の決意
夏休みの終わりが近づく頃、俺はとうとう覚悟を決めた。あの日、あの廃旅館に足を踏み入れたのは、紛れもなく俺だった。友人たちや家族に起きた異変──あの女の影──すべて、俺が呼んだものに違いない。
ならば、俺自身で解決するしかない。
深夜、俺はひとりで旅館へ向かった。月明かりもほとんどなく、街灯の光が途切れる山道は、まるで深い闇に溶け込むようだった。車のヘッドライトで照らされた森の影が、まるで生き物のようにうごめき、俺の心臓は速く打った。しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。
旅館の門は、以前訪れたときと変わらず鳥居のような形で、朽ちた「立入禁止」の看板がぶら下がっていた。かすかに風に揺れる板の音が、夜の静寂を裂く。俺は深呼吸をひとつして、門をくぐる。踏み込むたびに、砂利がかさりと音を立てた。
廃旅館の外観は、黒焦げた壁や崩れかけた瓦屋根が月光に浮かび上がり、まるで異界の門を前にしたような錯覚を覚える。ひんやりした空気が肌に張り付き、呼吸のたびに胸の奥まで冷たさが染み込む。扉を押すと、かすかな軋みと共に開いた。内部は、以前のまま埃に覆われ、廊下の焦げ跡が一層不気味さを増していた。
「……来てしまったか」
俺は独り言をつぶやきながら、足音を殺して奥へ進む。焼け残った廊下の向こうから、かすかに声が聞こえたような気がした。誰もいないはずだ。振り返ると、壁に映る俺の影が、何かに引きずられるように揺れている。息を呑み、胸を押さえる。
廊下を抜けると、かつて友人たちが怯えていた宴会場の跡地に出た。畳は一列だけ焦げ跡が深く、湿った匂いが鼻を突く。かつての宴会の笑い声が、遠くで反響するような錯覚に陥る。俺は目を凝らした。そのとき──
「……お兄ちゃん……」
かすかな声が耳元で囁いた。振り向くと、暗がりの中に、かつて失踪した友人の姿がちらりと見えたような気がした。気のせいかもしれない。だが、声は間違いなく、現実に聞こえた。
俺は無理やり気を落ち着け、旅館の奥へ進む。壁沿いに進むと、以前は見つけられなかった階段が、埃と瓦礫に半ば隠れるように存在していた。鉄製の手すりは錆びつき、踏むたびにきしむ音が地下の闇に響く。
「ここか……」
俺は息を整え、手を伸ばして階段に触れた。冷たい金属が掌に伝わる感触に、思わず身震いする。足を一段ずつ慎重に下ろし、地下への階段を降りる。暗闇が厚くなり、空気は湿り、カビと煤の混ざった匂いが鼻をつく。
階段の途中で、ふと足元を見ると、焼け焦げた紙片が散乱していた。新聞の切れ端、手書きのメモ、そして友人の写真が半ば燃えかけで落ちている。俺は手を伸ばし、写真を拾った。その瞬間、かすかな風とともに、冷たい何かが肩に触れた。振り返るが、誰もいない。ただ、地下室の闇が俺を取り囲んでいた。
「返す……んだ……」
俺は心の中で呟く。友人たち、家族、そして自分を脅かすこの影──すべてを、あの場所に戻さなければならないのだ。地下室の闇が、まるで生き物のように俺を飲み込みそうになる。
一歩、また一歩と奥へ進むたび、遠くで水滴の落ちる音や、かすかな足音が聞こえる。声の正体はまだ掴めない。




