第一章 警告
夏の夕暮れは、どこか時間の感覚を狂わせる。大学の講義も終わり、課題のことなど頭の片隅に追いやってしまえば、ただ暑さと暇だけが残る。扇風機の風に吹かれながらスマホをいじっていると、メッセージアプリの通知が鳴った。送ってきたのは、同じゼミの友人・篤志だった。
「今夜ヒマ? ちょっと面白いとこ行かない?」
嫌な予感がした。篤志が「面白い」と言うとき、それは大抵、心霊スポットか廃墟の話に決まっている。
彼は昔からそういうオカルトめいたものに目がなく、動画サイトや掲示板を漁っては、怖い話や怪談を共有してくる。俺自身はそういう話に特に興味があるわけじゃない。むしろ「そんなの偶然か作り話だ」と斜に構える方だった。けれど、断るのも面倒で結局付き合わされることが多い。
「で、今度はどこ?」と返すと、数秒で返信が来た。
「山の上の廃旅館! ネットでめっちゃヤバいって噂のとこ。
“絶対に行くな”って言われてる心霊スポット。」
俺は苦笑した。毎回「ヤバい」「絶対やばい」なんて言葉で煽ってくるけど、結局はただの廃屋や寂れたトンネルだ。前に行った“呪いのトンネル”も、中はただの湿っぽいコンクリートの洞窟だった。背筋が寒くなったのは、心霊のせいじゃなく湿気のせいだ。
「またそれかよ。お前ほんと好きだな。」
「だってさ、掲示板に書き込みがあってさ。マジで洒落にならんらしい。」
篤志はすぐ通話を繋いできた。受話口の向こうから興奮した声が聞こえる。
「“あの旅館に入った奴は必ず連れて帰る”とか、“一度行ったら人生終わり”とか、ガチで怖いこと書いてあるんだって!」
「……都市伝説じゃん。昔からあるパターンだろ。『見るな』『行くな』って言われると行きたくなるやつ。」
「でもな、実際に行った奴のレポが残ってんのよ。途中まで書き込んで、そっから音沙汰ないとか。写真アップしたら変なのが映ってたとか。」
俺はふと、背筋に冷たい感覚を覚えた。だが、すぐに笑い飛ばした。
「要するにそういうノリで盛り上がってるだけだろ。掲示板なんて嘘の温床じゃん。」
「……じゃあ、一緒に確かめに行こうぜ。」
やっぱりそう来たか。俺は大きくため息をついた。
心霊現象を信じてはいない。けれど、子どもの頃に一度だけ、説明のつかない体験をしたことがある。真夏の夜、祖父の家の廊下で“誰か”とすれ違った。振り向いても誰もいなかった。それを人に話すと、「夢だろう」「気のせいだ」と言われたし、自分でもそうだと思い込むことにした。以来、オカルトに深入りしないようにしてきたのだ。
しかし篤志のしつこさは筋金入りだ。数分間、半ば押し問答を繰り返した末、結局「わかった、行くよ」と口にしていた。
「よし! さすが! じゃ、夜八時に駅前集合な!」
通話が切れる。俺はスマホを握りしめたまま、思わず天井を見上げた。
夜になり、駅前に集まったのは俺と篤志、そしてもう二人の友人だった。裕太と美咲。裕太は無鉄砲で、面白ければなんでも首を突っ込むタイプ。美咲はその逆で、怖がりなくせに「行ってみたい」とついて来てしまう好奇心旺盛な子だ。
「で、例の廃旅館ってどんなとこ?」裕太が缶ジュースを片手に聞いた。
篤志は得意げにスマホを掲げ、掲示板のスレッドを見せる。画面には黒背景に白文字で、不気味な書き込みが並んでいた。
《絶対に行くな》
《行った奴は全員不幸になる》
《“あの女”に会ったら最後》
《家までついてくる》
「なにこれ……」美咲が顔をしかめる。
「ガチっぽいだろ? 場所は○○峠の上の廃旅館。昔は温泉宿だったらしいけど、火事で営業できなくなって、そのまま放置されてるって。」
「でもさ、こんなんただの怪談好きの遊びだろ?」裕太は笑い飛ばした。「よし、行こうぜ!」
俺は少しだけ胸がざわついていた。掲示板に羅列された“警告”の文面は、どこかただ事ではない雰囲気を帯びていたのだ。単なる悪ふざけにしては、異様に切迫感がある。
「……まあ、行って確かめればいいか。」
自分に言い聞かせるように呟いた。
深夜、車で山道を走る。窓の外は真っ暗で、街灯ひとつない。遠くでセミの声が途切れ、代わりに夜の虫がかすかに鳴いていた。
「この辺だな。」篤志がナビを見ながら車を止めた。
フロントライトに照らし出されたのは、木々に覆われた古びた鳥居のような門だった。色は剥げ落ち、木材は腐食し、ところどころに真っ黒な焦げ跡が残っている。門の下には「立入禁止」の錆びた看板が傾いていた。
俺は息を呑んだ。予想以上に“不気味”だったのだ。
「うわ……マジで雰囲気出てるじゃん。」裕太が笑いながらも声を潜める。
「ここが、例の……」美咲は震える声で呟いた。
篤志は懐中電灯を取り出し、俺たちを振り返った。
「じゃあ、行こうぜ。掲示板の“警告”が本当かどうか、確かめに。」
その一言で、俺たちは門をくぐった。
背後で、鈴の音のような音が微かに響いた気がした。