表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

追放聖女の薬草工房

※AIを使用しての作品となります。

 王都中央神殿の大聖堂に、熱狂した民衆の歓声がうねりとなって満ちていた。

 金糸の刺繍が施された豪奢な純白の聖女服をまとったリリアンナが、両手を掲げると、その指先から放たれた眩い「太陽の奇跡」が、祈りを捧げる人々を遍く照らし出す。誰もがその神々しい光に魅入られていた。


 その華やかな光景とは隔絶された、神殿の薄暗く埃っぽい一室で、私、アニエスはセヴェルス神官長から無慈悲な宣告を受けていた。


「――よって、聖女アニエス。お前を辺境の『忘れられた谷』へ遣わす。神殿の権威を貶めた罪、その身で償うがよい!」


 目の前で神官長が政治的な言葉を弄して私を断罪しているが、その内容はほとんど右から左へ抜けていく。彼の関心は信仰ではなく、神殿という組織の維持と権力構造にしかない。そのために、古臭く、彼の理解を超えた知識を持つ私は邪魔なのだろう。どうでもいいことだ。私の頭の中は、これから向かうことになる未知の大地――辺境の地のことでいっぱいだった。


(忘れられた谷…王都とは生態系が全く異なるはず。亜寒帯に近い気候なら、古代文献に記されていた幻の『星涙草』が見つかるかもしれない。ああ、でもまずは耐寒性のある薬草のリストアップを…。それに、ローブのポケットの干し杏も補充しないと)


「聞いているのか、アニエス!」


 苛立ちを隠さない声に、私は思考の海から引き戻される。


「はい。謹んで拝命いたします」


 私の素っ気ない返事に、神官長は忌々しげに顔を歪めた。彼には、私の心が歓喜に打ち震えていることなど、想像もつくまい。


 数週間後、ガタガタと轍に揺られる馬車の窓から見える景色が、整然とした王都の石畳から、緑やかな田園、そして鬱蒼とした森へと変わっていく。土と草いきれの匂いが濃くなるにつれ、私の胸の高鳴りは大きくなっていった。


 谷にたどり着いた時、その名の通り、まるで時が止まったかのような静寂に息をのんだ。よそよそしく、しかし好奇の目を隠さない村人たちの視線を浴びながらも、私は教会の裏に広がる、どこまでも深く、濃い緑を湛えた手つかずの森を見つめていた。湿った土の匂い、鳥の声、木々の葉が風に揺れる音。そのすべてが、私の五感を刺激する。


「素晴らしい…! まるで巨大な標本箱じゃないですか!」


 研究者の血が騒ぎ、森へ一歩踏み出した瞬間、地を這うような鋭い声が飛んできた。


「おい、よそ者は森に近寄るな」


 振り返ると、鹿革のジャケットを着こなした、いかにも猟師といった風情の青年が、深い緑色の瞳で私を睨みつけていた。腰のナイフに手をかけ、全身で警戒心を露わにしている。だが、私の視線は彼の威圧的な態度を通り越し、その肩から下げた獲物の兎に付着した、見慣れない植物に釘付けになった。


「それ! 『月影シダ』の変異種では!? 葉脈の走り方が通常種と明らかに違います! 待って、動かないでください! 胞子の付き方を記録しないと…!」


「はあ!?」


 呆気に取られる彼――エリオットと名乗った――をその場に残し、私は興奮冷めやらぬまま、この谷での素晴らしい研究生活の始まりを確信したのだった。


 ◇

 谷での生活は、期待通り研究の喜びに満ちていたが、村人たちとの間には依然として分厚い氷の壁が存在した。

 彼らにとって私は「王都から来た得体の知れない女」であり、私が教会の裏庭に薬草園を作り始めると、その疑念はさらに深まったようだった。「魔女のまじないでも始める気か」と、ひそひそ話す声が風に乗って耳に届く。


 私は気にせず、黙々と土を耕し、森で採集した薬草を系統別に植え付けていった。案内役としてしぶしぶ付き合ってくれるエリオットだけが、私の唯一の話し相手だった。彼は口数こそ少ないが、森の知識は確かで、私が古文書の記述を元に「陽当たりの良い、水はけの悪い崖の中腹にあるはずです」などと抽象的な要求をしても、驚くほど正確にその場所へ導いてくれた。


 最初の変化は、ある農夫の畑から始まった。作物の葉が黄色く変色し、枯れていくという。彼は困り果て、最後の望みとして私の元へやってきた。


「聖女様なら、光の奇跡で何とか…」


「奇跡は起こせませんが、土を調べることはできます」


 私は畑の土を少量持ち帰り、分析した。結果は単純な鉄分の欠乏だった。私は彼に、錆びた鉄釘を数本、作物の根元に埋めるように指示した。村人たちが半信半疑で見守る中、数週間後、作物の葉は鮮やかな緑色を取り戻した。


 次に、夏の夜になると現れる羽虫に、村の子供たちが悩まされていると聞いた。私は「静寂草」という、虫が嫌う独特の匂いを持つ植物をすり潰し、軟膏を作って配った。すると、子供たちの安らかな寝息が村に戻ってきた。


 一つ、また一つと、私の知識が谷の小さな問題を解決していく。それはリリアンナの放つ「太陽の奇跡」のような派手さはない。だが、日々の暮らしに根ざした、地味で、しかし確かな変化だった。


 エリオットの態度も、少しずつ変わっていった。初めのうちは私の要求に応えるだけだったが、いつしか彼は、森で奇妙な形のキノコや、見たことのない色の花を見つけると、私のもとへ持ってくるようになった。


「おい、これは何だ。気味が悪い」


 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その緑の瞳は好奇心に輝いている。それが、彼なりのコミュニケーションなのだと気づいた時、私の心に温かいものが広がった。


 村人たちが、私のことを「聖女様」ではなく、「薬草のアニエスさん」と呼び始めたのは、そんな日々がしばらく続いた頃だった。氷の壁が、春の陽光を浴びて、少しずつ溶け始めているのを感じていた。


 ◇

 そんなある日、村の空気が張り詰めていることに気づいた。エリオットの祖母が、この谷の風土病である「月光病」で倒れたというのだ。なすすべもなく、誰もが死の影が覆いかぶさるのをただ待っているかのような、重苦しい諦念が漂っていた。


「アニエス、何とかならないのか…」


 初めて見るエリオットの弱々しい声。いつもは自信に満ちたその緑の瞳が、今は助けを求めるように揺れていた。その瞳に突き動かされるように、私は教会の自室に駆け込むと、古文書の山をひっくり返した。記憶が正しければ、対処法が一つだけあるはずだ。


「ありました。『月の光を浴びた夜にしか咲かない”月光草”』。これがあれば、きっと…!」


 その夜、私たちは二人で森の奥深くへと足を踏み入れた。月明かりが木々の隙間から差し込み、森の輪郭を青白く浮かび上がらせる。梟の鳴き声と、風が草木を揺らす音だけが響く静寂の中、私は夢中で薬草の知識を語った。エリオットは黙って耳を傾けていたが、その眼差しに宿る警戒の色が、いつしか深い信頼へと変わっていくのを感じていた。


 崖の中腹に、まるで夜空からこぼれ落ちた星屑のように、青白い光を放つ一輪の花を見つけた時の安堵感は、今でも忘れられない。持ち帰った月光草から作った薬で祖母が回復すると、エリオットは深々と頭を下げた。村人たちも、ようやく私を「谷の聖女」として心から認めてくれたようだった。


 その数日後、エリオットがどこか落ち着かない様子で、一輪の美しい花を差し出してきた。夜の雫を閉じ込めたかのように、淡い青色の花弁が瑞々しく輝く、『月雫の花』だ。


「こ、これを、やる。いつも、その…世話になってるから」


 顔を真っ赤にして口ごもる彼を見て、私の研究心に火が付いた。


「ありがとうございます、エリオットさん! なんて素晴らしいサンプルでしょう! 見てください、この花弁の吸湿性! 夜間の結露を効率的に集めるための構造ですね! あなたのその顔面の紅潮…脈拍も上がっている。もしかして、この花の花粉に対するアレルギー反応では? 非常に興味深い症例です。少し、脈を計らせてもらえませんか?」


「……もう、いい」


 そっぽを向いてしまったエリオットの背中を見送りながら、私は手に入れた貴重なサンプルを手に、心ゆくまでその構造を分析したのだった。


 ◇

 月光病の一件以来、エリオットは以前にも増して教会へ顔を出すようになった。薬草園の手伝いをしたり、私が調合で使う薪を割ってくれたり。その日の夕暮れも、彼は私が整理している薬草棚の隣で、買ってきたという釘を使い、新しい棚を器用に作り付けてくれていた。


「アニエスは、なんでそんなに薬草に詳しいんだ? 王都の聖女様は、みんな光の魔法を使うもんだと思ってた」


 トントン、と小気味よい音を立てながら、彼が不意に尋ねた。


「専門だからです。私の家は代々、宮廷の文献を管理する役職でして。幼い頃から書庫が遊び場でしたから、自然と」


「ふーん。じゃあ、王都が恋しくなったりはしないのか」


 彼の問いに、私は薬草を分類する手を止め、少しだけ考えた。


「恋しい、とは少し違いますね。王都の書庫は確かに素晴らしいですが、あそこにあるのは過去の記録だけです。でも、この谷には…この森には、まだ誰も知らない発見と、未来の記録になるべきものが眠っていますから」


 私は目を輝かせ、新種の苔が付着した樹皮を彼に見せた。


「例えばこれ! この苔に含まれる未知のアルカロイドには、強力な鎮静作用がある可能性が…!」


「…そうか」


 私の熱弁を遮るように、エリオットが呟いた。その声がやけに優しいことに、私は気づかない。


「お前がここにいてくれて、良かった」


 彼は私から視線を外し、窓の外に広がる夕焼けを見つめている。その横顔が、夕日でわずかに赤く染まっていた。


「エリオットさん? どうかしましたか? もしかして、その釘の鉄錆の粉塵を吸い込んで…? 少量なら問題ありませんが、体質によってはアレルギー性の気管支炎を引き起こす可能性も…」


「…なんでもない」


 彼は気まずそうに咳払いを一つすると、最後の釘を打ち付けた。


「ほら、できたぞ。これで薬草もたくさん置けるだろ」


「ありがとうございます! 素晴らしいです! この棚の構造、安定性と収納効率を両立した見事な設計ですね!」


 私の手放しの賞賛に、エリオットはまた「もういい」と呟きながら、夕暮れの谷へと帰っていく。その後ろ姿を見送りながら、私は完成したばかりの棚の強度を確かめ、その完璧な仕上がりに研究者として深い満足感を覚えるのだった。


 ◇

 穏やかな研究生活が破られたのは、秋風が谷を吹き抜け始めたある日のことだった。谷の入り口に、場違いなほど豪奢な紋章付きの馬車が停まったのだ。土埃にまみれることを厭うかのようにゆっくりと扉が開き、現れたのは、寸分の隙もなく着こなした神官長の正装に身を包んだセヴェルスと、純白の聖女服が泥道を汚すことすら許さないといった雰囲気のリリアンナだった。


 彼らがもたらした華やかで冷たい空気は、谷の素朴な静けさを無遠慮にかき乱していく。遠巻きに見つめる村人たちの間には、畏怖と不信が混じった緊張が走った。教会から出てきた私を迎えたのは、セヴェルスの侮蔑に満ちた眼差しと、リリアンナの扇情的なため息だった。


「まあ、ひどい場所。聖女様が暮らす環境ではありませんわね」


「アニエス! お前の持つ薬を全て差し出し、王都へ戻れ! これは命令だ!」


 挨拶も前置きもなく、セヴェルスは一方的に言い放つ。

 ことの経緯はこうだ。私が谷に来てから数ヶ月後、王都では原因不明の熱病が流行りだした。当初、リリアンナの「太陽の奇跡」は絶大な効果を発揮し、彼女の名声は天頂に達した。しかし、治療を受けた者ほど、より重い症状で再発するという事態が続発。彼女の強力すぎる魔力が、人々の体内の魔力バランスを破壊する「魔法副作用」を引き起こしていることに、誰も気づかなかった。

 やがて熱病は貴族階級にまで蔓延し、王都は未曾有のパニックに陥った。そんな折、かつて谷を訪れた行商人が語った「辺境の薬草の聖女」の噂が、藁にもすがる思いの貴族たちの耳に入ったのだ。秘密裏に私の薬を取り寄せた貴族が奇跡的な回復を遂げたことで、ついにセヴェルスも動かざるを得なくなったのである。彼の権威が地に落ちる寸前だったのだ。その焦りが、彼の言葉をいっそう高圧的なものにしていた。


 しかし、彼の声に応えたのは私ではなかった。


「彼女はどこへも行かない」


 教会の入り口に、エリオットが腕を組んで立ちはだかっていた。まるで谷を守る樫の木のように、その背中は大きく、頼もしい。

 彼の背後には、一人、また一人と村人たちが集まってくる。作物の葉を蘇らせてもらった農夫が、使い慣れた鍬を固く握りしめ、羽虫から救われた子供の母親が、決意を秘めた顔で彼の隣に立つ。鍛冶屋は火傷の軟膏のお礼にと、その手に槌を携え、エリオットの祖母までもが、杖を支えにしっかりとした足取りで歩み出て、王都からの来訪者を静かに睨みつけていた。

 彼らは訓練された兵士ではない。だが、その顔には、自分たちの手で掴んだ穏やかな日常と、それをもたらしてくれた一人の女性を、断固として守り抜くという共通の意志が燃え盛っていた。


「アニエス様は俺たちの恩人だ! あんたたちのような奴らに渡すものか!」


 エリオットの怒声に、リリアンナの美しい顔が侮辱に歪んだ。


「なんですの、この野蛮な人たちは! 神官長、わたくしの奇跡で、この者たちに神の威光を…!」


 侮辱と焦燥に顔を歪ませたリリアンナが、感情のままに魔力を高めようと両手を掲げた、その瞬間。彼女の周囲の空気がビリビリと震え、制御を失った魔力が金色の火花となってパチパチと弾け始める。彼女の足元から、眩いばかりの光が渦を巻きながら立ち上るが、それはもはや神聖な「太陽の奇跡」ではなかった。荒れ狂う奔流のように、光は不規則に明滅し、周囲の者たちの肌をピリピリと刺すほどの圧力を放つ。


「こ、れは…!」


 セヴェルスですら、その異常事態に目を見開いた。リリアンナ自身も、自らの力が制御下から離れていく恐怖に顔を引きつらせている。


「や、やめなさい…!」


 悲鳴のような声とともに、光の渦は極限まで膨張し、耳をつんざくような甲高い音を立てて爆ぜた。凄まじい衝撃波が谷を駆け抜け、村人たちは思わず顔を覆う。光が消え去った後には、燃え尽きたように力なくうなだれ、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちるリリアンナの姿だけがあった。


「り、リリアンナ!?」


 狼狽するセヴェルスは、これまでの尊大な態度も、神官長としてのプライドもかなぐり捨て、泥まみれになるのも構わずに私の足元にすがりついた。「助けてくれ…! 頼む、リリアンナを…!」と、その声は哀れなほどに震えている。


 私は冷静に彼の手を振り払うと、崩れ落ちたリリアンナのそばに膝をついた。彼女の首筋に指を当てて脈を測り、瞼を押し上げて瞳孔の反応を確かめる。脈は弱く、不規則。瞳孔は光に全く反応しない。そして、彼女の身体からは、正常な魔力とは似ても似つかぬ、歪でちぐはぐなオーラが陽炎のように立ち上っていた。

 これは病ではない。診断は明らかだ。


(強すぎる光の魔力を、本人の許容量を超えて無理やり引き出した結果、体内の魔力循環が短絡・焼灼を起こしている。いわば魔力の回路がショートした状態。これを放置すれば、彼女は二度と目を覚まさないでしょう)


「彼女を”治療”はできません。ですが、その乱れた魔力を”中和”する薬なら」


 私は月光草と、対の効能を持つ「太陽茸」を、澱みない手つきで調合していく。その場にいる誰もが固唾をのんで見守る中、できあがった薬をリリアンナに飲ませる。


「光が強すぎれば影が濃くなるのです。太陽の力も、月の力も、どちらか一つで良いということなどありません。大切なのは、調和なのですから」


 私の言葉と、古代の叡智が生み出した薬効を前に、彼らはなすすべもなく打ちのめされていた。

 薬がリリアンナの唇から喉へと落ちていくのを、セヴェルスは呆然と見つめている。彼が半生をかけて築き上げた「太陽の奇跡」という絶対の権威が、今、彼自身が「古臭い迷信」と切り捨てた知識によって救われようとしている。その耐え難い皮肉と、自らの愚かさを前に、彼の顔から血の気が引いていく。

 一方、リリアンナの荒い呼吸は、薬の効果か、少しずつ穏やかなものに変わっていた。薄く開かれた彼女の瞳が、ぼんやりと私を捉える。その瞳に宿るのは、もはやかつての傲慢さではなく、自らの力が暴走した恐怖と、それをいとも容易く鎮めてみせた未知の力への畏怖、そして深い深い屈辱の色だった。彼女のプライドは、今この瞬間、修復不可能なほどに砕け散ったのだ。


 ◇

 王都からの使者が訪れたのは、あの騒動から数週間が過ぎ、谷に冬の気配が漂い始めた頃だった。前回とは違い、王家の紋章を掲げた馬車は谷の入り口で静かに停まり、降りてきたのは壮年の文官一人だけだった。彼はセヴェルスのような威圧感もなく、ただ誠実そうな眼差しで私を見ると、深く頭を下げた。


「聖女アニエス様。この度は、王家並びに神殿が、あなた様に対して行いました非礼の数々、心よりお詫び申し上げます」


 彼は恭しく、分厚い羊皮紙の巻物を差し出した。そこには、王の名において、私への正式な謝罪と、名誉の回復が記されていた。そして、これまでの研究を支援するための潤沢な資金と、王立研究所でも入手困難な実験器具のリストが添えられていた。私の目がリストの方に釘付けになっていると、使者は静かに続けた。


「セヴェルス前神官長は、聖女を不当に貶め、王都に混乱を招いた罪により、全ての地位を剥奪の上、修道院へ幽閉となりました。また、聖女リリアンナ様は、あなた様の薬により一命を取り留め、現在は静かに療養しております。そして…」


 使者はそこで一度言葉を切り、私をまっすぐに見つめた。


「王都の治療法は、大きな過ちを犯しました。つきましては、アニエス様の叡智をお借りし、魔法と薬草学を組み合わせた、真に民を救うための新しい医療体制を築きたく存じます。どうか、王都へお戻りいただき、我々にご指導を…」


 彼の言葉を、私は薬草園のベンチに座って聞いていた。隣では、エリオットが薪割りの斧を手に、警戒を解かないまま成り行きを見守っている。


「ご指導、ですか。王都へ戻る気はありませんが、書簡での助言や、年に数度、研究員の方をこちらへ派遣していただく形であれば、協力は惜しみません。ああ、それからこの器具のリストですが、遠心分離機は卓上型の最新式をお願いできますか? あと、ガラス器具は…」


 私の関心が完全に研究支援へと移っていることに、使者は安堵したような、少しだけ呆れたような複雑な表情を浮かべた。

 こうして、王都との奇妙な協力関係が始まった。使者は私の提示した条件をすべて受け入れ、この風変わりな聖女の扱いにどこか思案顔で谷を後にして行った。


 ある晴れた日の午後、薬草園の柔らかな土に膝をつき、新しく芽吹いた薬草の手入れをする私に、エリオットが少し不安げに尋ねてきた。彼は教会の壁に寄りかかり、腕を組んで、もうずいぶん長いこと私のことを見ていたようだった。


「本当に、ずっとここにいるのか? 王都に戻れば、もっといい暮らしができるだろうに。あんな立派な馬車が迎えに来て、偉い役人まで頭を下げてたんだぞ」


 彼の声には、彼の性格からすると珍しいほど、心配の色が滲んでいた。私がいずれ、この静かな谷よりも、華やかな王都を選ぶのではないかという、拭いきれない不安。


 私は土のついた手をローブで拭うと、彼を見上げて心からの笑顔で答えた。


「もちろんです。王都の暮らしに未練はありません。あそこには立派な建物や美味しいお菓子はたくさんありますけど、この谷には、それ以上に素晴らしいものがありますから」


「素晴らしいもの?」


「ええ。まだ私が分類しきれていない薬草が、少なくとも三十二種は確認されています。私の知識を必要としてくれる人たちもいる。それに…」


 私は立ち上がり、彼の真剣な眼差しに、ふふっと小さく笑みをこぼした。

 薬草のこと以外で、私がこれほど感情を素直に表すのは珍しい。その不意打ちの、春の陽だまりのような柔らかな微笑みに、エリオットの心臓がどきりと大きく跳ねた。いつも見ているはずの彼女の顔が、その瞬間、どうしようもなく愛おしいものに見えて、彼は思わず息をのむ。アニエスはそんな彼の内心など露知らず、ローブのポケットを探ると、一粒の干し杏を取り出して口に放り込む。甘酸っぱい香りが、土と薬草の匂いに混じって優しく広がった。


「エリオットさんが時々くれる干し杏は、糖度と酸味のバランスが絶妙で、長期的な研究活動における思考力維持に極めて有効だと、この間の比較実験で結論が出ました。このサンプルの安定供給は、私の研究生活における最優先事項の一つです」


 私の大真面目な報告に、エリオットは一瞬呆気に取られた後、こらえきれないといったように天を仰いで深いため息をついた。その顔には、いつもの呆れと、隠しきれない安堵と、そしてほんの少しの喜びが混じっているように見えた。


(やはり、疲労だろうか。心拍数の微細な変化と表情筋の動きから推察するに、精神的な負荷がかかっている可能性も否定できない。彼の健康状態については、継続的な観察が必要ですね)


 青空の下、薬草の香りに包まれながら、私の研究はまだまだ始まったばかり。愛すべき薬草たちと、興味の尽きない観察対象、そして美味しい干し杏に囲まれて。私の幸せは、間違いなくこの谷にあるのだと、私は確信している。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ