法の神
神とは完全なる存在を指すとしよう。それが法を司るのは酷く滑稽である。
法とは、不完全な人がつくった不完全な産物である。
賢君の法も暴君の法も、法には違いない。
善き法の方を司るのだ、と言ってもまだ足りぬ教義である。
殺人犯を裁くとしよう。
被害者遺族にとって善き法とは死刑である。
殺人犯にとって善き法とは生きながらに償い更正を促す刑である。
殺人犯の目的が間接的自殺であったり、被害者遺族の思想が死を解放と捉えていたりすれば、逆なこともあろうが、どちらにせよ、立場が変われば善き法も変わるということだ。
万人への正答となる法は存在しない。
理想に近づく努力を怠ることはあってはならないが、法は不完全であるのは覆ることはないだろう。
不完全を司る完全など、矛盾である。そのような神はあってはならない。
法ではなく、秩序でもなく、その本質に迫るならば、理想なり、思いやりなり、互いを尊重する社会、すなわち、互恵の神とでもした方がマシである。
神に法を司らせたい人というのは、安心、安全、安定を求めているのである。完璧な法など求めていない。
殺されず、奪われず、他者から害されない社会を欲するならば、信ずるべき神とは法の神などではなく、善意なり、互恵なり、希望なり、慈愛なり、の神を信奉した方がマシである。
間違っても正義の神など信ずるな。
勇ましく猛り、浅ましく叫ぶ。
正義はこの世で最も多くを殺人した曖昧である。
寛容と忍耐に美徳を見よ、勤勉と清貧に驕りを見よ。
羨望ではなく憧憬の瞳を欲しなさい。
譲れぬモノは正義などではなく我欲であることを自覚しなさい。
自覚したならば、譲るのではなく対話によって理解と納得を得なさい。
次は、相手の言葉を聞きなさい。
最後は、握手をして、抱擁なり、離別なりで決着としなさい。
汝は、友を得ることもあれば、敵と知ることもあるだろう。
しかし、嘆くことはない。敵であっても汝は対話を果たした。ならば、去ればよい。その程度には世界は広大である。