むげんものがたり
初投稿になります。
使い方が良く分かっていません
読みにくいと、思いますが、お付き合い下さい。
今までは、全て大学ノートに書いていましたが、紙媒体よりも書きやすいかと思い、こちらに書かせていただきました。
大学ノートにある作品も、順次こちらに移していけたら…と、思います。
それでは、宜しくお願いします。
『あぁ、またか…』
僕には、今、目の前に居る人が何を言おうとしているのか大体分かってしまう。
超能力ではないので、100%ではないが、そんなに大きく外れた覚えもない。
とにかく、人に集中すれば、何となく分かってしまうのだ。同じ様な事で、その人が、嘘をついているのかも分かってしまう。
後、数ページ後にこの編集長が言う言葉は、無難だ。
そして、その後、少しだけ褒めた後で、ダメ出しをするだろう…
それは、本心であって嘘ではない。
彼は、彼の為、僕の為に本当の事を言うのだろう。
すると、彼は、原稿を机に置き、タバコに火をつけ大きく吸ってフーッとため息の様に煙を吐き出し、目を閉じた。
その煙はあっと言う間に霧散していく、まるで僕の半年間の様に…
彼が僕の言葉を待っている。だが、分かっている結果を認めたくなくて言葉が出てこない。
しかし、僕と違って、彼は黙っているわけには行かないだろう。
『悪くない…悪くはないけど、毎回毎回、無難なんだよね~ここから面白くなりそうって時に、無難に終わってるんだよね~まぁ、先が分かりやすいと言うか何と言うか…君が、売れている小説家なら、これはこれで、売れると思うんだよ。だから、ボツって事はないんだけど、何と言うか…ドキドキ感がないんだよね~この先どうなるの!って感じが。これでは、小説を読んでいると言うより、文字を追っているって感じがするな~。この前持ってきた作品よりも、細かな描写は伝わって来るんだけど、余計な描写も多いんだよね~例えば、この女性が料理をするシーンで、塩を三回振って…ってあるじゃない、これ、三回である事の意味があるのかな?二回や四回じゃ駄目?細かい描写には、それ自身に意味が無いと…それから…』
今作品のダメ出しは、いつもより多い…予想外だった。
やはり僕には小説家になる才能が無いのだろうか、いっそ、定職に着いて、趣味におさめている方が良いのだろう…そのほうが苦しまずに済む。
そんな事を考えて居ても、まだ、編集長の言葉は続いていた。
『でも、岸本君の様な人は、今では貴重だよ。今や、小説さえもAIで書く時代だ。だから、同じ様な物ばかりが出来上がり、それを良しとする風潮さえ出てきている。岸本君には、それを塗り替える力があると、私は思っているんだよ』
そう、まさにこの言葉だ。この言葉に嘘を感じない、実際、編集長自ら僕の作品を評価してくれているのだ。
だから、諦めきれず僕は何度も何度も作品を書き続けている。しかし、きっかけが掴めない、一体、何が足りないのか分からないのだ。
僕が唇を噛み締めて俯いていると、編集長は、僕の気持ちを察したかのように話しだした。
『岸本君、小説には、嘘が入っても良いんだ。綿密に調べた現実じゃなくても良いんだ。要は、ドキドキ、ワクワク、ヒヤヒヤ、ムカムカ…読者の感情を動かせれば、嘘が混じって居ても、愚作に思えても、それが名作へと、評価されて行くんだよ。頑張って、また、出来たら、読ませてよ』
編集長は、立ち上がり、僕の肩にポンっと手を乗せ、次の仕事に向かって行った。
ありがとうございました…編集長は、とくっに聞こえない距離だったろう。
僕は原稿を封筒にしまい、編集社ビルを後にした。
外に出てみると、日は傾き、少し冷たい風が吹き抜けた。
もうすぐ、冬の到来を感じさせる。
今日は夜間警備のアルバイトがあるので、妻には直接仕事に向かうと言って来たのだが、何とも中途半端な時間になってしまった。
仕方がないので、乗り継ぎの駅で降り、広場に出てみる。自動販売機で缶コーヒーを買い、石段に腰掛け、今作の反省と、次回作のネタを考える事にしてみた。
しかし、編集長が言った様な、他人の心を揺さぶるってのが、どうも分からない。
僕の前を歩くカップル…女性は楽しそうに男性に話しかけているが、男性の表情は曇っている。あれは、疲れたと言うよりも、別れ話をするきっかけを待っている顔だろう…その時、彼女は、どう思うだろうか。
男性のこれまでの態度で、気がついているのかも知れないし、全く予期していなかったかも知れない。
その時、どんな風に心が動くのか…
僕の隣で座っている初老の男性…
休んでいると言うよりも、誰かを待っていると言った表情に見える。
その、待ち人が現れた時、彼はどんな態度に出るのだろうか…
やはり、僕には分からない。
でも、これがわからないことには、面白いと言われる作品は書けないのだろう。
何とかして、それが分かる術は無いのだろうか…
そして、この場に置いて、間違いなく異彩を放っている彼…占い師か何かだろうか。
この場に来た時に、一番最初に気がついたが、あえて気付かないふりをした。
今も、彼の方を見ないように意識している僕をはっきりと感じている。
なぜなら、彼は、僕がこの場所に来た時から、ずっと僕の事を見ているからだ。
占い師にじっと見つめられるという経験は初めてだが、何とも気分が良いものじゃない。
何か顔に悪い事でも起きる相でも、出ているのだろうか…
何とも居心地が悪いので、僕は場所を変えようと立ち上がった。
その時、占い師に呼ばれた。
『そこな人』
僕は、僕が呼び止められた事が分かっているが、あえて僕?と、不思議そうな顔をして自分を指さしてみた。
『そう、おぬしじゃ、おぬし。ちょっとこっちへいらしゃい』
僕は時間がない振りをして、やり過ごそうかとも思ったが、ずっと見られていた事が気になり、誘いに乗って見ることにした。
でも、普段僕は、占いを信じていない。
席に付く前に、僕は占って貰うお金は無いと告げると、占い師は、お金など、いらないから、良く見させてくれと言う。
『ほほ〜面白い人相をしておる。どれ、手相も見せてくれ』
僕は黙って両手を差し出した。
しかし、この占い師。年は幾つなのだろう。
僕は三十半ばも過ぎたが、この人は、せいぜい三十歳位だろう。その割に、随分と年老いた話し方をする。
もしかしたら、僕より年上なのだろうか…
いや、それでも、この話し方は…
『ん~悩みがあるね』
ほら来た。
大体多かれ少なかれ皆悩みを抱えて生きている。
どうせ、当たり障りない事を言って、ちょっと良い事を言って、おしまいに違いない。
一つ違和感があるとするなら、こんな状況になっている事が初めてだからかも知れないが、この人が言おうとしていることが見えない。
ちょっと、不思議な感覚だ。
『お仕事は何をなさっているのかな?』
僕は、正直に、売れない小説家だと告げた。
『では、売れない事が悩み…いや違う。ヌシの悩みは…他人の気持ちを測れない、どうじゃ?』
驚いた!僕の驚いた顔が占い師に伝わるほど驚いた!
『図星のようじゃな』
驚いた事に対しての信頼なのか、感情が昂ぶったのか、僕は今の状況を占い師に話してみた。
『そうか、それは不思議な話じゃ。何故、儂がヌシを珍しいと言ったかと言うと、ヌシは、2つの人生を生きているような人相をしていたからじゃ。そしてそれは、手相にも出ておる。じゃから、そんな悩みだとは思わなんだが…』
何だ?何だか、意味のわからない事を言い出した。
2つの人生?
そんな事は、あり得ない。
『ん~きっと、ヌシの職業柄、そう見えるのかも知れんな』
たしかに、僕は経験したことのない人生を物語として作品としている。そうか、そういう事か。
占い師の言葉に変に納得していると、占い師はヒントをくれると言った。
『夢に出てきた話でも書いてみたらどうじゃ?』
寝ている時の夢?
そんなの、起きたときにはほとんど覚えていないし、見ているのかもわからない。
『しかし、それが一番の近道じゃよ。さ、儂が言えるのはここまでじゃ。また、縁があったらの』
あの、あなたは…
『あ~儂は坊主じゃ。たまに、人を見て、功徳を施しておる』
お坊様…宗教の事などろくに知らないので、功徳なのかどうかは知らないが……嘘を言っている気配はない。
それだけは、分かることができた。
夢の話ねぇ~僕はボーッとしていたらしい。
いつの間にか、職場に着いていた。昼から何も食べていなかったので、コンビニでおにぎりを買い、仕事の合間に食べることにした。
夜間警備の仕事は、デパートの中で朝まで見回る事だった。今時珍しい仕事ではあるが、人付き合いが苦手である僕には、うってつけの仕事だ。
その上、小説のネタを考える時間も沢山ある。
いつものように、一通り見渡し、カギのチェック、人のチェックをしたら、モニターのある部屋へと移動する。
そこまでやったら、後はニ時間おきに見回りをし、報告書に、異常なしと記録する。
こんな仕事を10年も続けているが、幸いなことに、異常があった事はない。
何故、雇ってくれているのか、不思議に思うこともあるのだが、ラッキーだと思っておこう。
普段はそれの繰り返しなのだが、今日は、占い師に言われた夢の話が気になり、五階にある本屋で、夢の事が書かれている本をいくつか軽く読んだ。
他愛もない事ばかりの話が書いてあるのだが、いまいちピンとこない。
一つ分かった事は、皆、結構夢を見て、覚えているものなのだなぁと思ったくらいだ。
自分で思うよりも熱中していたらしく、結構時間が経っていた。部屋に戻り、異常なしと2つ書いて、朝、店長が来るのを待ち、引き継ぎをして、僕は帰路についた。
家に着くと、妻は出勤の準備をしていた。
ただいま…と呟いたが、返事はない。
僕の姿を見ると、今日は遅くなるかもしれないから、ご飯は適当に食べて。
じゃ、行ってくる。
妻は、僕の小説など読んだことは無いが、最近では、結果がどうだったかすら、聞かれなくなった。
妻と結婚したのは、彼女からの猛烈なアタックがきっかけで…どうやら、小説家の妻ってのが、珍しくて良かったらしい。ただ、10年も売れない小説家は、ただのフリーターだ。
妻からもいつまでこんな事を続けるのかと、呆れられているが、僕にはこれ以外能がない。
いや、この能すらないのだが、これ以外、考えた事はない。多分、僕が売れるのが先か、離婚されるのが先か…
特に、子供が居なくて良かった。
とてもじゃないが、立派な父親にはなれなかっただろう。
こんな自分にウンザリする事もあるが、少し慣れてきたようだ。
今日は、夢の話が気になるから、インスタントラーメンをすすり、シャワーを浴びて早めに寝る事にした。
幸い、今日は夜間警備の仕事はない。
長く、夢を見て、なるべく覚えておくつもりだ。
疲れていたのか、意外と早く眠りに落ちた。しかし、今日は、不思議な事に、眠りに落ちてゆく、自分をリアルに実感していた。
どれくらい寝ていたのだろう。
目が覚めると…そこは病院だった。
僕が、病院にいる事には、すぐに分かった。
目を覚まし、第一声が、『先生、患者の意識が戻りました』と、女性の声が聞こえると同時に、白衣の男性が僕を覗きこんだからだ。
本当に、こんな台詞みたいなことを言うんだな。
どこかドラマみたいだ…等と思っていると、その先生と呼ばれた男が『岸本さん、ここがどこだか分かりますか?』と、僕に呼びかけてきた。
何だか、おかしく思えて、少し笑ってしまった。
『病院でしょ?何故僕はここに居るんでしょうか?』
我ながら、寝起きだと言うのに、頭ははっきりしている。
体を起こそうと、力を入れた時、激痛が走った。
あまりの痛さに、起き上がれそうに無い。
しかし、この状況は…
『岸本さん、大丈夫?』
妻の声だ。ベットの右側から、聞こえてくる声の方向に目を向けると、妻が立っていた。
しかし…妻は…こんな格好をしていただろうか…?
『晴子さん、僕は何故病院に?』
『晴子さん?僕?』
妻は不思議そうな顔をしている。
あぁ、そう言えば、妻の名前を呼んだのはいつ以来の事だろう。
『僕は家で寝ていたはずだけど…』
妻の顔が、不思議から、不安に変わった。
『先生…』
妻の不安は、医師にぶつけられた。
医師は、妻に向かって、ドラマの定型文を話しだす。
峠は越えたので、もう大丈夫ですよ、体の方の痛みも徐々に回復してくるでしょう。
ただ、頭を強く打っているので、一時的な記憶の混乱があるかもしれませんが…まぁ、問題ないでしょう。
念の為、いくつか検査をしますが、一週間もすれば、退院出来ると思います。安心して下さい。
さぁ、岸本さんももう少し寝て下さい。今、鎮静剤を打ちますからね。
『いや、先生!何故僕はここに居るんですか!?』
医師は注射器を構えながら、僕に言った。
また、明日、話しましょう…
僕は、何が起こったか分からないまま、再び眠りに付いた。
あくる日、薬が切れたのか、自然と目が覚めた、外はまだ暗い、何時頃なのだろうか。
相変わらず、僕には沢山の包帯が巻かれ、点滴まで付けている。
仰々しいにも、程があるが、体の方は確かに仰々しい。
体に力を入れようとするたび、どこかしらが痛む。
その痛みのせいもあるが、頭はしっかりと働いている様に思える。
状況を整理しよう。
僕は、寝ている間に、何らかの大事故が起こって、体を痛め、入院を余儀なくされた…以上。
状況を整理しようにも、情報が少な過ぎる。
大地震でも起こったのか?
いや、それなら病院自体がもっと大騒ぎしているはずだな…それよりも小規模な…
ガス爆発!
これなら…寝る前にインスタントラーメンを食べたな…
あの後、ガスが漏れていたのか?
そんな事ってあるのか?
待て待て…大体、僕は、何日位ここに居るんだ?
あっ!仕事は!?
無断欠勤で、クビになってはないだろうか…
それは、困るな…なにせ、あんなに、僕に向いている仕事は、なかなかないのだが…
そう言えば、この病室は個室だな。
家にそんなお金があったのだろうか…
これは、妻に感謝しなくては。
そんな事を考えていると、病室のドアが静かに開いた。
外はまだ暗い。
ゆっくりとこちらに近寄ってくる影は、妻のものだった。どうやら、泊まり込みで、看病をしていてくれたらしい。
僕は、妻に『ありがとう』と、声を掛けた。
何だか少し、照れくさい。
『あ、起こしちゃった?気分はどう?』
『あちこち痛いけど、大丈夫だと思う…それより、何があったんだ?何故、僕は入院しているんだ?』
妻は、少しがっかりした顔になったが、すぐに表情を戻し、覚えてないの?
と、聞き直してきた。
『僕は、家で寝ていたと思ったんだけど、ガス爆発とか?』
『まぁ、爆発は、爆発ね』
やはりそうだった。寝ている間に、そんな大事になっていたなんて…他の住民は大丈夫だったのだろうか…
『あ、仕事は…連絡してくれた?』
妻は笑って答えた。
『大丈夫、心配しないで、予約は全てキャンセルしてあるから、体調が良くなったら、また、頑張りましょうよ』
キャンセルって。仕事のシフトをキャンセルとは、あまり言わないと思うが、まぁ、連絡が行っているのなら、それで良い。
やっと一つ、良い知らせが聞けた気分だ。
僕の表情が和らいだのが見えたのか、今度は妻からの質問が出てきた。
『まだ、無理しなくて良いんだけど、どこまで覚えてる?』
『…インスタントラーメンを食べて、寝た事しか…』
『そうじゃなくて、岸本さんの事、私の事、仕事の事…その他、何でも良いから』
…何でも良いが、その呼び方は止めて欲しい。
何とも、他人行儀の言い方で、冷たく感じる。
病院に居る時位、優しくしてほしいものだ…
でも、泊まり込みで看病してくれているわけだし…優しいか。
『ねぇ、何か覚えてる?』
そう言われても、爆発したことも、覚えていない。
『自分の名前分かる』
その質問にゾッした。
僕はそんなに悪い状態なのか?
僕は神妙な気持ちになり、妻の質問に答えて行った。
『名前は、岸本篤史』
妻は頷いて言った。
『じゃあ、私は?』
『晴子さんは、僕の妻で、僕の仕事は小説家。でも、小説で食べている訳では無いので、夜間警備員かな』
僕は、僕なりに、結構はっきりしていると思って安心したのだが、妻は、複雑な表情をしている…
この表情から、読み取れるのは、答えを間違っている時の表情だ。
『違うのかい?』
違わないと確信しつつも、妻の答えを聞きたかった。
『あなたの名前は、合っている、でも、私はあなたと結婚してはいないし…まぁ、確かに何年か前にそんな関係になりそうな時もあったといえば、あったけど、結婚には至らなかったわ』
頭がこんがらがってきた。
晴子さんが妻ではない?
僕の考えがまとまるより先に、晴子さんは、言葉を続けた。
『私の名前は、田代晴子、あなたの助手よ、まぁ、やっていることは、助手ってより、秘書に近いかな。そしてあなたの職業は、探偵よ』
『探偵!僕が?』
『どう、何か思い出してきた?』
思い出すも何も、僕が探偵?
そんな仕事出来るわけもない。
そして、結婚していないとか…じゃあ、ここに居るのは、秘書として?
あ、そう言えば、田代は、妻の旧姓だったな…
我ながら、混乱している。それは見て取れる程だったのだろう。
『まだ、早かったかな。大丈夫、ゆっくり思い出しましょ。不幸中の幸いか、今回の仕事のお金が入ったばかりだから、しばらくは事務所も、大丈夫だから。さ、まだ、早いから、もう少し休んで。私も一度家に帰るから。』
『あ、あぁ。』
そう言うと、晴子さんは、僕の布団を掛け直し、病室の外へと、出て行った。
な、何だこの状況は…一体、何がどうなって居るんだ?
この僕が探偵?
あり得ない。探偵の事など、何も知りはしない。
あれか?名推理でいくつもの事件を解決していく探偵の事か?シャーロック・ホームズ?
そんな訳はない、人を観察して、何が言いたいのか、考える事はあっても、推理など、したこともない…
……あ、もしかして、これは夢なのか?
僕は夢の中にいるんじゃないか?
夢の中なら、何でも好きに出来るんじゃ…
しかし、夢の中なのに、こんな現実味のある痛みを伴うのか?
しかし、それ以外考えられない。
夢の事ばかり調べていたから…
あ、夢の話か。
夢の話を小説にするんだった。
そうだ、そうだ。何とかしてこの記憶が起きても続く様にしなければ…
どうすれば、覚えてられる…
どうすれば…
僕の体はよっぽど疲れていたのか、起きたばかりだと言うのに、考え事をしている内に、眠ってしまったようだ。
次に目が覚めた時、妻…ではなく、晴子さんと医師が何やら話をしている途中だった。
どうやら、僕の今後の事を話している様だが良く聞き取れないうちに、医師は、僕が目覚めた事に気がついたようだ。
『岸本さん、目が覚めましたね、気分はどうですか?』
気分は悪くない。体の痛みは、はっきりと残っているが、寝る前に晴子さんと話した事もしっかりと覚えている。そして、何とかこの事を記録に残せないものかと考えていた事も。
『悪くはないですよ』
…何だ、昨日より、喋りやすいじゃないか。
『良かった。私と話したの覚えてる?あれから丸2日も寝ていたから、心配しちゃったわよ』
また、そんなに寝ていたのか。
それより、夢の中で、日を跨ぐと言う経験は初めてだ。
まぁ、こんなにリアリティのある夢を見るのも初めてだから、何が起こってもおかしくはないか。
まさに、何でもありの世界だな。
僕が、考え事をしているのを見て、医師が、話しだした。
『心配無いですよ。良く眠っているのは、体が回復したがっているって事ですよ。』
『あ、ありがとうございます。』
僕はとっさにお礼を言ってしまった。僕が考え事をしているのを見て、この医師は、僕が、不安に、なっていると勘違いしたのだろう。
『ただ…うん、岸本さんには、身寄りが無いとの事なんで、正直に話しますね。』
え?僕には身寄りがないのか、また、新しい情報が出てきたが、医師の話を止めないように、頷くだけにした。
どうせ、夢の中の世界なのだ。何を言われても怖くはない。
『体の方は、もう心配ないので、時間と共に治ります。さすが、普段から、体を鍛えている方の回復力は素晴らしいですね、ただ、頭の方を強く打たれていて、記憶障害が起こっているようです。こればかりは、私達の力では何とも言えません。突然思い出される方もいらっしゃいますし、徐々に回復される方もいらっしゃいますし、全く、思い出さない方もいらっしゃいます。』
これも、病院ドラマ等でよく聞く台詞だ。
まぁ、それくらいなら問題ない。
今の僕にとって、何より重要なのは、記憶の引き継ぎだから。
『後、少し検査をして、ま~一週間もすれば、退院していただいても構いませんよ』
医師の笑った顔を見て、晴子さんの方に目をやると、一安心した表情が見て取れた。
一週間…僕は夢の中で、何度寝起きを繰り返せるのだろう。早く何か考えないと…
『分かりました、ありがとうございます』
僕が、お世話になったお礼を言うと、医師から変な返事が返って来た。
『いえいえ、これが私の仕事ですし、あなたは我々のヒーローですから、出来る限りの事はさせてもらいます。あ、でも、医師の立場から言わせてもらうと、もう、無理はしないで下さいね。それではまた、検査の時に』
そう言うと、医師は、晴子さんに軽く会釈をして、病室を出て行った。
それにしても…僕が、ヒーローとは、何であろう。
また、分からない事が出てきた。
『良かったね、一週間我慢すれば、退院出来るって』
晴子さんは、笑顔で話しかけていたが、僕の顔付きは暗かったのか、心配をかけたようだ。
『どうしたの?嬉しくないの?』
そんな晴子さんの表情に気が付き、ハッとはって僕は答えた。
『あ、ごめん、そうじゃないんだ…どうすれば、ちゃんと覚えていられるのかを考えていたんだ。』
『そんなに焦らなくても、大丈夫よ、少しづつ思い出しましょ』
晴子さんは、優しくそう言ってくれたが、そうじゃない。そうじゃないのだが、言っても理解されないであろう…
『ん~、そんなに心配なら、書いとけば?忘れないように。』
そ、それだ!昔、学校の先生に教わった事を思い出した。記憶は頭と手でする!
『あ、あの、晴子さんにお願いがあるんだ。』
『良いわよ、何?何か欲しいの?』
晴子さんは、即答してくれた。
『大学ノート10冊に、小さい手帳を二冊と、ボールペンが2本欲しいんだ』
『ホントに書くの!?しかも、10冊って』
晴子さんは、ビックリしていたが、何せ書くのは得意だ。
『それから…』
『まだ、あるの?』
晴子さんは、少し呆れた顔をして、ハイハイ何なりとと、答えた。
『少しでも、僕のそばに居て、僕の事を教えて欲しい。どうやら、晴子さんが、僕に一番近い存在みたいだから』
そう言うと、晴子さんは、照れくさそうに笑った。
『…何でも教えてあげるわよ、でも、まずは、体を治してね。』
『ありがとう。色々すまないね。』
『良いのよ、岸本さんは、私の雇い主なんだから、お給与をくれているうちは、何でも言う事を聞くわよ。大学ノートね、すぐに買ってくるから、待ってて』
何だか、嫌味っぽい言われ方をしたようだが、病室を出ていく彼女は、女子大生のようだ。
どうやら僕は、まず、二人の関係性から学ばなければいけないようだ…
それから一週間が経ち、明日、退院する事になった。
夢の中で、良くもまぁ、こんなに日付けが変わるものだと、思いもしたが、僕にとっては、好都合だった。
体の痛みも、だいぶ減り、動ける様になったと思う。
いくつかノートに書留はしたが、まだ、情報は少ない。
僕はまだ、この病室からは出ていないのだ。
でも、明日の朝になれば、晴子さんが迎えに来てくれて、いよいよ外の世界を知ることが出来る。
外の世界は、どうなっているのか、探偵の仕事とは、どんなものなのか、友人と呼べる様な人はいるのか…
興味が尽きる事はない。
僕は、遠足前夜の気分で、病院最後の夜を過ごした。
次の朝、ようやくこの時が来た、信じられない位、スッキリと目覚め、良し!
…と、思ったのも束の間…見覚えのある天井、僕の机、ここは、明らかに病院ではない。
そう、夢から覚めてしまったのだ。
そしてやはり、あれは夢だったのだ。
体の痛みを若干引きずっているようにも思えたが、そんな事より、惜しい、勿体ない方が強かった。
もうしばらく、あの場に居たかった。
それと同時に、気になった事もあった。
僕は一体、どれほど寝ていたのだろう。
焦って飛び起き、部屋のドアを開けると、晴子さんが、朝の準備をしていた。
『何?、やっと起きたの?』
晴子さんの様子におかしい所はない、いつもの妻だ。
『あのさー、昨日も夜遅くまで、お金にならない小説を書いていたみたいだけど、返事くらいしてよね』
妻は不機嫌そうに僕に言った。
『じゃ、私、もう出るから。ご飯は自分で何とかして、夜は仕事でしょ』
妻は、自分の言いたい事だけ告げて、サッサと出掛けて行った。
僕は、ご飯を用意するより先に、カレンダーを確認し、テレビをつけた。
…どうやら、あれから一日しか経っていない…
あっ!夢の記憶!
我に返った僕は、ご飯の事よりも、覚えている事を書き起こしたかった。
どうやら、夢の中でメモを取る作戦は上手く行った様で、かなり、記憶に残っている。
僕はテレビを消し、コーヒーだけ持つと、部屋に戻った。
早速ペンを取り、少しでも多く、情報を残して置こうと机に座ると…
…書いてある…いつの間にか、夢の中での事が書いてある。まだ、小説の体はなしていないが、重要に思えていた事は、全て書き記してある…
そう言えば、さっき妻が言っていた。
遅くまで書いていたみたいだと。
僕は、夢遊病にでもなったのかと思いもしたが、今は、それどころじゃない。
夜、仕事の時間までに、とにかく小説にしたかった。
大方書き終えて、仕事に向かう。さすがに今夜は眠かったのだが、何とか乗り越え、その足で、雑誌社へと向かった。
ざっくりとが、今までに無いものが出来た。
編集長に、見せるのが、楽しみだ。
ビルの受け付けで、編集長の所在を確認し、しばらく待っていると、ちょっと疲れ気味で、面倒くさそうに編集長が、やってきた。
『岸本君、来るんだったら、前もって、連絡してよねぇ~一応、俺、編集長だし、忙しいんだからさぁ。
で、今日は何?』
僕は、まだ、大方しか書いていない事を説明し、書いて来たものを出した。
『え?もう書いたの?今回は随分と早いね~まだ、2日しか経っていないじゃない。』
そりゃそうだ。大枠とはいえ、大分書いてあったのだから。
『ファ~どれどれ…』
編集長は、欠伸をしながら、面倒くさそうに僕の原稿を手に取った。
しかし、今回はいつもと様子が違った。
編集長の表情は見る見る変わり、大した量では無いにも関わらず、目に躍動感を感じる。
『いや~、岸本君、良い!良いよ!こーゆーの待ってたよ。いつもと違って、続きが気になるもんね。あ~これだったら、うちの連載行けるんじゃないかな。ちょうどね~連載枠が切れるタイミングだったんだ。でも、良いのがなくてねぇ~上からも、せっつかれて、どうしようか悩んでたんだよ~これなら行けるんじゃないかと思うんだけど…どう?岸本君やってみない?』
これこそ夢なのではなかろうか?
確かに、今までとは違うけれど、自分でも良く出来た作品だと思う。それにしても、こんなに上手く行くものか?
だが、この話を断るって事はありえない。
ならば、素直に喜ぶべき事だろう。
『あ、でもね~、今、ある原稿で、一ヶ月分は、引っ張れるけど、連載させるには、この続きが読みたいねぇ~これと、同じだけの量を、一ヶ月で書いて持って来てくれる?それを見て、連載決めるから』
早い話が、続きが面白そうだったら、連載してくれるって事か。
でも、やっとつかんだチャンス。何とかこのチャンスを掴めれば、晴れて、念願であった小説家の仲間入りが出来る。
僕は、ぜひチャレンジさせて下さいと、言って、大きく頷いた。
『じゃ、一ヶ月以内って事で、時間がなくて申し訳ないが、こちらもちょっと、押しててね。連載枠を開けて待ってるから、楽しみにしてるよ!あ、原稿預かっておくね、上にも見せたいから』
そう言って、僕を送り出してくれた。
初めて僕の書いた原稿が、僕の手を離れた瞬間だった。
今更ながら、ドキドキしてきた。
外がいつもと違う風景に見える…事は無かったが、それでも、込み上げてくるものを感じる。
僕は、人目もはばからず、叫びたくなる衝動を抑えて、電車に乗り込んだ。
もしかしたら、少しニヤニヤしているかも知れない。
これではただの怪しいオッサンだ。
乗り換えの駅に着いた時、ハッと思い出し、ヒントをくれた占い師さんに、お礼を言いたくて、辺りを見回してみたのだが、今日は出てきていないようだ。
そう言えば、普段はお坊さんとか何とか言っていたので、そうそう、会えないのかも知れない。
でも、この駅は、何度も通るから、そのうち会える事もあるだろう。
それよりも、今は妻への報告が先だ。
帰ってきていると良いのだけれど…
足早に家に帰ってみると、妻はテレビを見ながら、夕飯を食べている。
僕が、興奮気味に編集長との話を話すが、妻はどこか冷めていて、『ふ~ん』と、一言返って来るだけだった。
僕は、妻の態度を見て、体が冷めて行くのを感じた。
嬉しくないのか?何年も頑張って来た僕の姿を一番近い所で、見ていたはずだ。なのに、こんなものなのか?
僕が、話し出すより先に、妻の二言目が飛んできた。
『それ、連載したら幾ら貰えるの?』
…それは、分からない。せいぜい一回に3000円位だろうか…
『良かったね、無いよりマシになったよ』
僕は、有名になったら、もう少し貰えるとか、書籍化したら、増えるとか、賞を取れれば、賞金が出るとか、ドラマ化したら…と、言っては見たが、現実味はない。
妻は、僕の顔を見ると『たら、れば。ね。その、3000円だって、連載されればでしょ。』と呆れ顔で呟いた。
妻の言っている事は、正しいのかも知れない。
でも、僕にしてみたら、初の快挙なんだ。
何で、こんな言い方されるんだ。僕は…
『今日、仕事でしょ、早く準備すれば?』
僕は、脱いだばかりの上着を手に取ると、家を飛び出た。絶対…絶対このチャンスをものにしてやる。
それから、一週間、まだ、続きを書いていない。
何せ、書き始めてしまった作品は、探偵物だ。
知っている事といえば、シャーロックホームズ位。
でも、あれは、夢のお話で、僕はもっと、リアルな探偵を描きたい。
僕は、探偵の仕事について、色々調べた。
探偵事務所に取材も申し込んだが、これは、全て断られた。いっそ、本物の探偵を雇って、尾行でもすればよいのだろうけど、いかんせん、意外とお高い。
少なくても、僕の財力では、雇える金額ではなかった。
なので、本やパソコンから、色々調べて、おおよその内容は掴めてきた。
金額…仕事内容…調べ方…尾行の仕方…結構色々わかるものだ。
その、得た情報を下に、続きを書き始め、それから2週間で、何とか形になった。
我ながら、良く書けていると思う。
編集長へ、連絡すると、待ってたよ~と、歓迎された。
今から行く事を伝え、原稿を手に取り、妻にそのまま仕事に行くと伝え、家を出た。
そう言えば、この3週間、妻とまともに会話していないことに、その時になって気づいたが、考えてみれば、いつもの事だった。
編集社に着き、『お願いします』と、自信満々に原稿を手渡した。
僕のいつもと違った態度に、編集長は少し笑って、『拝見』と、原稿を読み始めた。
原稿を読んで貰っている間、僕は編集長の顔をじっと見ていた。
また、目に躍動感が出て来るはず…
表情が驚きに変わっていくはず…と。
でも、違った。
あれよあれよと、編集長の表情は、いつもと同じ様に変わっていく…
『あぁ、またか』
こんなはずではなかった。
あんなに、細かく調べたのだから、非の打ちどころもないはずだ…
なのに、何故…
知らぬ間に、僕は編集長から、目をそらし、俯いていた。
編集長は、全て読み終えると話し出した。
『無難だね~岸本君らしいよ。でも、こ〜じゃないんだよな~この前の様な展開を期待してたんだけど。』
思った通りの返事が返って来た。
やはり、あれは、まぐれだったのだろうか…
編集長は、原稿に目を通しながら、話しを続けた。
『まぁ、良いでしょ。物語には、波があるからね~これは、凪の状態って事で』
ん?及第点?連載の話は?
僕は、顔を上げ、編集長を見つめると、編集長からは、嬉しい答えが返って来た。
『あぁ、連載はするよ。前の原稿も、上が気に入っててね。それは、決まった。今日、言おうと思ってたんだけどね、先に原稿を読ませて貰った。』
僕は、ホッとした。
とにもかくにも、夢のスタートが決まったのだ。
しかし、編集長の次の一言が、僕を不安な気持に引きずり込んだ。
『岸本君、次は期待してるよ』
原稿を手渡し、ビルを出ると、連載が決まった嬉しさよりも、次の不安が勝っていた。
次に同じ様な物だと、連載は、打ち切られてしまうかも知れない。
それどころか、その次からは、読んでさえもらえなくなるかも。
あっ!連載のギャラって、いくら貰えるのか聞けなかった。
でも、打ち切られたら、ギャラどころの話じゃない。
どうすれば…
…夢だ。また、あの夢を見れれば!
それからと言うもの、ずっと考えていた。
仕事中だろうが、外を歩いている時だろうが、ご飯を食べている時だろうが、寝ている時だろうが。
しかし…そもそも、夢の続きなんて、見れる物なのか?
その後も、色々調べて、分かった事全て試してみた。
しかし、良い夢を見る方法や、悪夢にうなされない方法など、色々あるのだが、夢の続きを見る方法なんて、情報は、どこにもなかった。
遂に、万策つきかけた時に、あの占い師を思い出した。
彼なら、何か知っているかも知れない。
だって彼は、お坊さんだから…
次の日から、僕は、占い師を探し始めた。
いつもの駅に居ないようなら、両隣の駅。
それでも見つからないから、電車の沿線。
きっと、この沿線のお寺の人のはずと、電話もしまくった。
しかし、巡り会えない。
そろそろ、次の原稿を書き始めなければいけない。
もはや、一人で上手く、書ける自信は、全く無いのだが、もう、やるしか無い。
そう決心して、電車を乗り換えようとした時に声をかけられた。
『そこな人、久しぶりじゃな』
救世主が現れた!
僕は、占い師の手を取り、散々捜し回っていた事、占い師さんの助言で不思議な体験をし、上手く行った事、そして、今、ピンチに陥っている事をまくしたてるように話た。
『そんなにいっぺんに言われても、何を言っているのか分からん。もそっと落ち着いて話してみなされ。』
占い師に、連れられて、すぐそこにある、石段に腰をおろした。
『岸本さん…じゃったかの。どうやら、まだ、縁があったようじゃて…』
占い師は、懐から、カップのお酒を出し、美味しそうに、呑み始めた。
『くはぁ〜、仕事の後の般若湯は体にしみるの〜して、何の話しじゃったかの?』
占い師は落ち着いて、僕の話に耳を傾けてくれた。
『それは、良い体験をしたの。そんな夢は、滅多に無い事じゃ…しかし…同じ夢を見る方法等は、聞いたこともないわい』
僕は、色々な方法を試してみたことを、話してみた。
無理かも知れないと、自分でも思っているのだが、どうしても、見なくてはならないと。
『う~ん、諦める事じゃな。その夢のお陰で、チャンスはもらえたのじゃろ?それだけでも僥倖に思わなけりゃ…』
占い師は、カップ酒飲み干して、立ち上がり、僕の事を優しく見つめていた。
その時、僕の表情は、暗く沈んでいたのだろう。
占い師は、困った顔をして、また、僕にヒントを与えてくれた。
『ま、なんの保証もないのじゃが…その時のイメージが強いものを抱えて寝れば、その夢が、見れるかも知れんが…あまり、思い詰めない事じゃ。では、行くからの。せっかくつかんだチャンスじゃ、精一杯頑張ってみい』
占い師の助言は、余りにも儚いものだった。
何せ、もう一度、あの夢を見るために、あらゆる事を、やり尽くしてしまったのだから。
僕は、去りゆく占い師を、呆然と見送る事しか出来なかった。
占い師が去っても、僕はしばらくその場から動けずに居た。冷たい風が頭を冷やす…
冷静に、なればなるほど、次の作品に自信が持てなくなって行く自分をはっきりと感じる。
しかし、頭を抱え、ため息をついた時に、ふと頭の中に、ヒラメキを感じた。
繫がりの深いもの…
ノート…あの、次の日に、いつの間にか記録していたノートだ。
僕は立ち上がり、足早にその場を後にした。
家に着くと、妻はまだ、帰ってなかった。
僕はすぐに部屋へと向かい、ノートを探した。
そのノートは、見つけてくれと言わんばかりに、机に開いていた。
僕は、ノートを開きっぱなしにしていたのだろうか。
ノートを手に取り、藁をも掴む気持ちで、ノートを抱えたまま、風呂にも入らず、そのままの格好でベットに入った。
意識が、強すぎたのだろうか、なかなか眠りに入れず、しばらく時間が掛かったが、いつの間にか寝ていたらしく、目を覚ますと…夢の中だった。成功だ。
しかし、ここは、僕の寝ていた病院ではない。
どこかの部屋だろうが、どこなのだろう。
そもそも、これは、夢の続きなのだろうか。
僕は、ベットから、立ち上がり、部屋を出た。
次の部屋は、どうやら事務所っぽく、いくつもの資料らしきものが、ファイリングして、並んでいる。
その中の一つを手に取り、内容を読んでみた。
間違いない、依頼が終わった、探偵の資料だ。
僕は、これを参考にしなければと、とにかく頭に叩き込んだ。しばらくすると、玄関の鍵が開く音がして、晴子さんが入って来た。
『あ、おはよう。もう、起きて平気なの?』
その声、その表情を見た時に、帰ってきた。そんな気持ちになった。
『あぁ、大丈夫、問題ない』
僕は、もともとこの世界に居たように、なるべく平静を装った。
『あのさ…ここは、僕の事務所?』
『そうよ。』
『病院を出てから、どれくらい経つ?』
平静を装っては見たが、やはり、変な質問だった様で、少し、疑わしい顔をされてしまった。
『ホントに大丈夫?無理しないで、まだ、寝てたら?』
僕はとっさに、誤魔化さなければと思い、適当な事を口走った。
『大丈夫だよ。僕の記憶がしっかりしているか、答え合わせをしているんだ。…あぁ、この資料もね』
すると、少し安心したように笑いながら、答えてくれた
『警察病院を出て、ここに戻って来てから、ちょうど、一週間よ。』
『警察病院!』
僕はビックリして、聞き直してしまった。
『覚えてないの?』
僕は、これ以上、誤魔化すのはやめようと、素直に色々、聞き出す事にした。
『ごめん、本当は、まだ、曖昧なところがあるんだ。僕の事、色々教えてくれるかな』
晴子さんは、僕を椅子に座らせて、何でも聞いてと言ってくれた。
最初から、そうすれば、良かったのだ。
『あのさ…僕…』
僕が、最初の質問をしようとした時に、スッと手をかざされた。
『待って、ど~も調子が狂うのよね。まず初めに、岸本さんは、自分の事を、俺と呼んでいたわ。そして、私の事は、晴子と、呼び捨てだったけど、まぁ、さん付けも新鮮で良いかな。でも、自分の事は、俺にしてくれる?何か、自信がない人みたいで…』
そうか?そんな物なのか?言い方1つで、そんなに変わるものなのか?しかし、ここは、今後の為にも、従って置くべきだろう。
『…俺は…』
『うん』
『何で、警察病院何かに入院していたのかな?』
晴子さんは、スッと立ち上がり、新聞を差し出した。
一ヶ月程前の新聞らしい。
『これを読んでくれるのが、説明するより早いわよ』
僕…いや、俺は新聞を手に取り、一面に書かれた記事を追う。
麻薬組織壊滅…ビル爆発…一般人男性に、感謝状と、金一封。
『えっ?この事件を解決したのって、一般人男性って書いてあるけど…まさか…俺の仕業?』
『そうよ、一応、組織壊滅って書いてあるけど、残党が残っているかもしれないでしょ。安全性の面から、名前と写真は伏せられているけど、間違いなく岸本さんよ』
『壊滅に、爆発って…普段から、俺はこんな危ない事をしているの?』
変な事を聞いているからか、俺の喋り方が可笑しいのか、晴子さんは、笑いながら答えた。
『ハハ…まさか。そんな危ない仕事がいち探偵に巡って来るわけ無いでしょ。たまたまよ、たまたま。そうね、普段は、浮気調査とか…人探しとか…素行調査とか…まぁ、そんな所ね』
良かった。どうやら、本で調べた通りの仕事らしい。
それが何故、こんな大事件と関わったのか…
『俺は、何をして、こんな大事件に巻き込まれたんだい?』
『それがねぇ~私にも良く分からないのよ。確か、あの時は、人探しの仕事をしていたと、思うんだけど…
私は、岸本さんの仕事に付いて回る訳じゃないからね。なかなか、帰ってこないなぁ~と、思っていたら、警察から、電話があって、駆け付けたら、こうなっていたって感じかな…』
表情から見るに、本当に知らないみたいだ。
この事件を知れれば、小説のネタになりそうだが…
『他には?』
『他って言われても、私も岸本さんが何を覚えてないかが分からないから、答えようがないのよね~聞かれた事には答えられるけど、仕事の事は、良く分からないわ。岸本さん、いつも一人でやっていたし』
個人事務所の様だから、普段は一人でやっているのか。
『あ、そうそう。今回のギャラは、机の中に、入っているわよ。そこから、溜まっていた二ヶ月分の家賃と、来月の家賃と引いて、1割は、私のギャラよね。今回のギャラは多かったけど、1割は、契約だから、良いんでしょ。』
『もちろん、構わないさ。そう言う約束だからね』
また、とっさに、知ったかぶりをしてしまった。
机の引き出しを開けてみると、ザッと、300万近く入っている。探偵って、こんなに儲かるのか!?
いや、今、今回は多かったと、言われたばかりだ。
家賃もまとめて払ったと言うし、普段こんなには、無いのだろう。
『どうする?事務所開ける?動けそうならだけど』
『そうだな…やってみるか』
色々やっておかないと、いつ目が覚めてしまうか分からない。
『そう、じゃ、まずは、寺院に、行くんでしょ?』
『寺院?』
『今回は行かないの?』
『普段、行ってたっけ?』
晴子さんは、ハッと思い、普段の行動を説明してくれた。
『岸本さんは、普段。仕事が終わり、ギャラが入ると、その1割を寺院に寄付していたわ。恵まれない人や、両親の居ない子供達の為にね。それから、行きつけのバーで、お酒を飲み、頭と体をリセットしてから、次の仕事に取り掛かっていたわよ』
そうなのか。
普段の俺とは、そーゆーヤツなのか。
ここは、普段通りに動いてみるか。
『じゃあ、一緒に行かないかい?』
『私と!?』
晴子さんは、驚いていた。
『駄目かな?』
何せ、寺院の場所も、バーの場所も分からないのだ。
それどころか、この街も分からないかも知れない。
『駄目じゃないけど…普段、そんな事言った事無いから、ビックリしちゃった。』
二人は目を合わせると、事務所をあとにして、寺院へと向かった。
外に出てみれば、現実の街並みと変わらなかった。
ただ、こんな場所を知りもしないはずなのだが、どこか、懐かしい様にも感じた。
言ってみれば、昔、過ごしていた街に、20年ぶりに行ってみれば、建物や、店などが、様変わりした感じだ。
街並みを抜けて、郊外に出ると、寺院…と言うよりかは、教会に近い建物が見えてきた。
少し違う所と言えば、十字架の先端が湾曲していて、まるで風車の様な形に見えた。
寺院に近づくにつれ、子供達の元気な声が聞こえてくる。
すると、庭で遊ぶ、一人の女の子が俺に気付き駆け寄ってきた。
『あ~、岸本のおじちゃんだ!』
女の子がそう叫ぶと、他の子供達も俺に、近寄ってきた。
『岸本のおじちゃん、お土産は?』
どうやら、皆自分を知っているようだ。
しかも、毎回何らかのお土産を持って来ているらしい。
しかし、今日は何も持たずに来てしまった。
子供達が、お土産コールを始める中、おそらく、一番年長と思われる女の子が、皆を制した。
『皆、岸本さんを困らせちゃだめでしょ!お土産は、後できっとくれるから、まずは、牧師先生を呼んで来て』
…お土産は、あるんだ…。
『は~い。』
女の子の一言で、皆静かになり、一斉に走り出し、牧師さんを呼びに行った。
『さ、岸本さんどうぞ、事務所まで、ご案内いたします』
『あぁ、ありがとう』
色んな意味で、しっかりした子のようだ。
事務所まで、先導され、テーブルに座らされると、お茶を入れて来ますと、その子は離れていった。
事務所…と、言うよりは、食堂に近い。
辺りをキョロキョロしている俺に、晴子さんが話しかけて来た。
『どう?何か覚えてる?』
さっぱり分からない。俺は、首を横に振った。
しばらくすると、真っ黒な服に身を包む、牧師さんが、入って来た。
俺は、とっさに立ち上がり、牧師さんにお辞儀をした。
それを見た牧師さんは、驚いた顔をして
『どうしたんですか、岸本さん、らしくない…何かあったんですか?』
ゆっくりと、顔を上げ、牧師さんの顔を見ると、今度は俺がビックリした。
着ている服や、話し方は違うが、この人は、占い師さんだ。俺は思わず声に出してしまった。
『占い師さん…』
牧師さんは、キョトンとした顔をしている…
『私は、占い師等をしたことはありませんが…』
牧師さんも、何やらただならない気配を感じ取ったようだ。
こうなってしまったら、仕方がない。素直に俺の、夢の中の現状を話してしまおう。どうやら、幸いにも、見知った顔の様だ。
俺は、ある事件をきっかけに、記憶を無くしてしまった事を話始めた。
牧師さんは、俺の話を、目を話さず、真剣に聞き入ってくれていた…
一通り話終わると、牧師さんは…
『それは、大変な事でした。さぞかし、お辛いでしょう』
俺は、軽く頷きはしたが、辛いわけがない。
自らの意思でここに来たいと願っていたのだから。
『では、私の知っている事を話す前に…こちらの方は?』
俺は、少し驚いた。当然、知っている仲だと、思っていたからだ。
『あ、ごめんなさい、挨拶が遅れました。私は、田代晴子と、申しまして、岸本の事務所に勤めているものです』
『あぁ!あなたが晴子さんですか、お話は岸本さんから、良く聞いています。何でも、美人で有能だとか』
晴子さんと、俺は、頬を赤らめた。
『まぁ、岸本さんがそんな事を…私にはそんな事、言った事もないんですよ…そんな…美人だなんて…』
全く、言った覚えはないが、もしかしたら、言ったのかも知れない。とにかく、身に覚えはないが、晴子さんが喜んでいるなら、そうしておこう…
しかし…占い師さんもそうだったが、この人の感情も上手く読み取れない。
悪い人では、なさそうだが…何だろう…少し違和感を感じる。
『では、晴子さん。お願いがあるのですが、岸本さんとお話をしたいので、少し席を外してもらえますか?』
晴子さんが俺の目を見るので、俺は小さく頷いた。
『じゃ、私は野暮用を片付けて来るから、ここに居てね』
と、俺の目を見て、部屋の外へと出て行った。
『じゃ、まずは私の事を話しますよ』
あれ?丁寧な喋り方は変わらないが、何だか少し、砕けた物言いになった。
『私は、二条司、この寺院の牧師であり、あなたの友人でもある』
突然の告白に、ビックリしたが、俺は黙って話を聞いた。
『もちろん、ビル爆発の事件も知っています。私が散々足を突っ込むなと言っているのに、岸本さんは言う事を聞かず、足を突っ込んだ結果ですから。どこかに、入院していたんですよね。心配する私をよそに、岸本さんは、電話一本よこさない…まぁ、事情が事情だったので、仕方ないとは思いますが…無事なようで、安心しました』
どうやら、この世界には、俺の事を心配してくれる人が、二人はいるようだ。
『記憶喪失の人と話すのは、初めての事なので、どこから何を、話してよいやら…そうだ、写真がありますよ、見てみないですか?』
そう言って、牧師はPCを開いた。
PCの中には、今よりも、若い俺と、牧師さんが、写っている。どうやら、かなりの中のようだ。
『これが、10年前、ここに寺院を建てた頃の写真です。ここからですね、岸本さんとのお付き合いは。この建物を建てた時に、珍しく思ったのか、岸本さんが見に来られて、私が孤児院を開く事にしたと言うと、まだ、子供達はおらず、食べるに困っている方々に食事をお出ししていると、それを見た岸本さんは、子供達が居ないのに孤児院…?と、笑っていました。それからです。この場所を孤児院ではなく、寺院と呼ぶようになったのは』
牧師さんは、昔を懐かしむかのように、笑いながら話してくれた。
『それから、不定期に岸本さんが現れる様になり、岸本さんは、私の考えに賛同してくれて、寄付を続けてくださった』
俺は、懐のお金を思い出し、封筒を差し出した。
『これ、今回の寄付金…』
牧師さんは、封筒を手に取ると、毎回、ありがとうございますと、受け取った。
『何だか、他人行儀ですね、いつもの岸本さんは、何と言うか…もっと、大雑把な言い方をするので、何故か、緊張してしまいます』
『その…俺は…』
少し、恐縮してしまうと、牧師さんは、笑いながら話を続けてくれた。
『気になさらないで下さい。いつもと同じ生活を続けていれば、きっとその内、色々思い出して来ますよ。もしかしたら、私がお力になれるかも知れない。岸本さんの事は、あなたから色々聞いていますよ。仕事の事とか、生活の事とか…会うのは初めてでしたが、晴子さんの事とかもね』
自分が知らないことを他人が知っているとは、奇妙な話だが、今、俺が体験している事自体、奇妙な事だろう…
それに、この牧師さんと多くを語れば、この世界の自分がどんな人間なのか、知ることが出来るだろう。
二時間程、話ただろうか。
どうやら、この世界の俺は、俺の知る所のハードボイルドって感じだろうか。
牧師に送られ、外に出てみると、晴子さんは、子供達へのお土産にケーキを買ってきて、皆で食べていた。
『話は終わった?』
『あぁ』
…なるほど、有能な秘書だ。
『岸本のおじちゃん!ありがとう〜また、来てね~』
子供達と、牧師さんに手を振られながら、俺と、晴子さんは、寺院を後にした。思って見れば、子供達とはいえ、こんなに他人に感謝されたことは無かった。
なかなか、気分が良い。
『何か、嬉しそうね。どうだった?』
『そうだな…たくさん写真があったよ』
『ま〜二人は長い付き合いみたいだからね~。それで、何か思い出した?』
『思い出したってよりは、教えられたって感じかな。でも、色々と、参考にはなったよ』
『そう、良かったわね』
晴子さんの笑顔は、少しドキッとする。
まるで、若い頃に戻ったみたいだ。
そう言えば、妻が笑っている所を、もう、何年も見ていない。出会った頃は、こんなだっただろうか…
それも、記憶から、遠のいている。
『あ、子供達へのお土産…ありがとう。助かったよ』
俺がそう言うと、晴子さんはビックリしたような顔で。
『え?あ、良いのよ、別に』
と、答えた。何かまずい事でも、言ったのだろうか。
『どうした?』
俺が気になって、晴子さんに聞いてみると、晴子さんの表情は、赤らいでいた。
『どうしたって…病院の時は、そのせいかなぁ~って思ったけど、お礼なんて、水くさいわよ』
どうやら、俺は普段、お礼も言わない男のようだ。
しかし、良い事をされたのに、何も言わないのもどうかと思う。
『それよりさ、次はどうする?行きつけのバーに行ってみる?少し早いけど、歩いていれば、ちょうど開く時間になるんじゃないかな』
『バーか…そうだな、その前に腹が減ったから、どこかで、何か食べてからにしないか?』
晴子さんは、嬉しそうに頷いた。
しかし…バーか。情報収集の為、行きたい…いや、行かなければならない場所ではあるが、普段俺は、酒を飲まない…夢の中ならば、飲んでも酔わないだろうか…
適当なレストランを選び、二人で食事を楽しんだ。
高級な、店ではないが、見た感じは上々。金額も、リーズナブルだ。食事をしながら、バーについて話を聞いてみる。すると、晴子さんは、シブイ顔で答えた。
『ん~私は行かないわね。行ったことならあるわよ、岸本さんに、呼ばれてね。お金がないとか、迎えに来いとか…でも、あの店は…ガラが悪いしね、昔、岸本さんに、もっと品の良いバーで飲めばよいのにって、言ったら、このバーが一番情報があつまるから、何とかかんとか言ってたわよ』
それを聞いて、ますます行きたくなくなった。
呑む自信がないのに、ガラが悪い…
しかし、行かねばなるまい!
今回も、いつまでここにいられるのか、分からないのだから、少しでも、情報を集めないと…
俺は覚悟を決めて、バーに乗り込む決心を決めた。
バーのドアに手を掛けると、ドアの取手はとても冷たくなっていて、背筋が凍る思いがした。
『入らないの?』
晴子さんの声に、我に返って、一つ大きな息を付きながら、ドアを開けた。
想像していたバーとは違い、店内は明るく、お洒落なJAZZが流れている。
まだ、早かったせいか、俺達以外の客は、二組ほど。
いずれも、男性同士で、静かに飲んでいる。
『おっ!いらっしゃい、岸本さん。随分と早いね』
カウンター内から、マスターらしき人が、声を掛けてきた。見た感じ、ハーフだろうか。若いのに、髭が似合っている。
少しほっとしていたが、なるべく普段のここでの俺を心掛けた。
店内の客達に見られている様な気がしたが、気が付かぬ振りをして、マスターに誘われるがまま、カウンターに腰座った。
『珍しいね、女性連れなんて…あぁ~確か…同じ探偵事務所の…』
『覚えていてくれて、嬉しいわ』
『もうチョット顔を出してくれれば、すぐに覚えるぜ、好みの酒もな…で、何にする?』
マスターは、愛想よく、俺との仲も、良いようだ。
『そうね、私は、マティーニを』
『俺は、烏龍茶を…』
マスターは、晴子さんの注文には、眉毛を上げて答えたが、俺の注文には、ビックリしていた。
『烏龍茶!?、冗談だろ、それとも、まだ、どこか悪いのかい?』
つい、烏龍茶を頼んでしまったが、俺らしくを忘れていた。
『さすが、情報屋、俺が入院していたことも知っていたか』
なんとか上手く、誤魔化せたであろうか。
『当たり前よ!こちとら、情報が命だ。その上、岸本さんが、タンマリ貰ったのも、知ってるぜ〜』
『いつものを頼むよ』
さて、何が出てくるのやら…
『それは、そ~とよ』
マスターは、指招きをしている…こんな近くで内緒話も無かろうに…
でも、何か情報をくれるのかも知れない。
俺はマスターに、顔を近づけた。すると、マスターは、耳打するように、小声で、話し出した。
『タンマリ貰ったんだったらさ~そろそろ内のツケも払ってくれよ』
ツケ…普段は、ツケで飲んでいるのか。
でも、ツケがあるのなら、払った方が良いな。
『あぁ~、悪い悪い…いくらだっけ?』
マスターは、伝票を持ち出し、俺の前に差し出した。
『全部で、73000円だな、今日の分を入れて、ちょうど80000で良いよ』
た…高い。
ツケの料金じゃなく、今日の分が7000円って事だろ。
マティーニと何かで…
『80000だな』
納得出来ない顔は出来ないので、何食わぬ顔をして、80000円を渡した。
お金を、財布に入れておいて良かった。
『ありがとさん』
そう言って、俺の前に、ウイスキーを置いた。
ストレートに見える…
行けるだろうか。
そして、晴子さんの方にも、すでにマティーニが置かれていた。あれだけ話し込んでいたのに、いつの間に用意したのか…プロだな。
晴子さんと、軽くグラスを合わせ、意を決してウイスキーを飲んでみると
『あれ?行ける』
特段、美味しいとも思わなかったが、不味くはない。
夢の中なら、酒にも酔わないのであろうか。
しばらく、晴子さんと、今日、牧師さんに話された事を話し、雑談を交えながら、仕事の話をしていると、ドアから、いかにも悪そうな男が2人入って来た。
『いらっしゃい』
マスターは、何の動揺もなく、仕事をしている。
事実、話をしている間にも、酒が切れる事はない。
いつの間にか、次の酒が用意されている。
なるほど、7000円は、安いのかもしれないと思った。
2人の男は、店内を見渡し、俺と、目が合うと、軽く会釈をして、テーブル席に座った。
どうやら、あの2人も俺の顔見知りのようだ。
それからも、しばらく飲んでいた。
晴子さんの顔は赤らいでいるが、俺は意外と平気みたいだ。
そろそろ帰ろうかと、席を立とうとすると、さっき入って来た客と、もともと居た客とで、言い争いが始まった。
『おいおい…勘弁してくれよ』
マスターの表情を見るに、またかよって顔だ。
『岸本さん、頼むわ』
はっ!?何で俺?
『助けてあげれば〜』
晴子さんまで、乗ってくるしまつ。
相手はいかにも悪そうな四人。俺は一人。無理に決まっている。
…でも、俺に、頼むって事は、この世界の俺は、そんなに強いのか!?
いやいや、冷静になれ。こんなの、プロボクサーだって勝てないだろ…
『いや、ほっとけよ』
なるべく、クールに言ったつもりだった。
断るのに、クールも何もあったもんじゃないが…
『まじで、まだ、どっか悪いのかい?』
マスターは、信じられないって顔をしていたが、俺からはしてみれば、こんな状態を俺に頼むことが信じられない。
『名前、借りるぜ』
マスターは、仕方ないって顔で、その男達の間に入った。
『おいおい…喧嘩なら、他所でやってくれ、ここはバーだ。リングじゃねーんだよ』
『あぁ!!!』
どうやら、火に油を注いだようだ。
燻っていた火が、爆発寸前なのが見て取れる。
『岸本さんが、うるせーってよ。今夜は静かに飲みたいんだと』
マスターがそう言うと、四人の男達は、お互いを睨み合いながらも、椅子に座って、酒を飲みだした。
マスターは、俺達2人に酒を出し、悪い、店からの奢りだ。後、一杯付き合ってな。と、ウインクしてみせた。
このマスター、俺が帰ろうと思っていた事も分かっていたのか? 出来る…
このマスターは、若いのに、かなりの達人だ。
そして、俺は…何なんだ。
普段の俺は、四人相手に、突っ込んでいく様な、無謀な男なのか?
確かに、あの四人は、一時かも知れないが、大人しくはなった。
今度からは、そう、振る舞って見よう。
あくまでも、今度からで、今日ではない。
今度までに、心の準備をして置こう。
そう、心に決めて、最後のグラスに手を掛けた。
バーを出ると、辺りは暗くなっていて、多少の寒さを感じた。事務所に帰るまでに酔は覚めてしまい、明日からの仕事の話をしながら、二人で飲み直した。
その日は、晴子さんが、事務所に泊まってゆき、久しぶりの、2人の夜を過ごした。
夢から覚める事を恐れつつも、いつの間にか寝てしまい、朝日が顔を出していた。
ベットから這い出ると、その足でシャワーを浴びた。
今まで気が付かなかったが、鏡に映る自分の体が、逞しい事に気がついた。
それに、良く見ると、あちこちに、古い傷もある。
新しい傷は、この前のものだろう。
シャワーから出ると、晴子さんは起きていて
『私もシャワーを借りるね』と、シャワーを浴びに入った。さて、今日から、探偵としての仕事が始まる。
その前に、昨日の出来事を、ノートに記しておこう。
俺が、ペンをとっていると、シャワーの止まる音が聞こえ、晴子さんが、出てきた。
『机に向かって仕事しているなんて、珍しいわね。私が変わろうか?』
と、声を掛けてくれた。
『あぁ、これは俺しか出来ないから、何か作ってくれないか?腹が減った』
晴子さんは、髪を拭きながら、冷蔵庫を開けた。
『何もないじゃない。何を作れば良いわけ?』
『パンと卵が入ってるだろ。それで良いよ』
冷蔵庫の中身は、昨日の夜、水を飲んだ時に、確認して置いた。
『相変わらずの食生活みたいねぇ~。後で買い足して置くわ』
『あぁ、ありがとう』
晴子さんは、今日の朝食となる、パンと卵を焼き出した。
二人で軽い朝食を済ませ、事務所を開けた。
こんな仕事だから、すぐに、仕事の依頼が来るはずもないと思っていたのだが、PCのホームページから、依頼が来ていた。依頼内容は、人探しだ。
とにかく、依頼人と会ってみないと、何もわからない。
俺は、依頼人に連絡をとり、事務所に来るように伝えた。依頼人は、男性だ。昼前には事務所に来て、依頼内容を聞いた。
『助かりました。しばらく、この探偵事務所は、お休みだったようで、どうしようか迷っていたところなんですよ。』
俺は、なるべくボロが出ないように、少し偉そうに話をした。
『それはそれは、タイミングが良かったですね。で、依頼の内容ですが、警察には…』
我ながら、上手く話せていると思う。
隣で、内容を書き留めている晴子さんの様子にも変わった所はない。
『分かりました。では、料金の話をして、宜しければ、捜査を始めます』
晴子さんに、よろしくと、それらしく席を立ち、金額について話している内容に、聞き耳を立てた。
これも、知って置かなければ、後で小説に、起こせないだろう。
…結構、良いお値段がする。
その割に、依頼者はすぐに首を縦に振った。
さて…初仕事だ!
それから、およそ、半年が過ぎた。
夢の中なのに、変な言い方になるが、順風満帆だ。
どうやら、俺には、探偵業が、合っているらしい。
小説に出てくるような、殺人事件を捜査する事などまず無い。
主な仕事は、人探しか、不倫調査だ。
中には、結婚前の素行調査や、子供の親は、本当に自分なのか調べて欲しい。なんて、依頼もあったが、難なくこなして行けている。
足を使い、沢山の話を聞いて、真実のみを追いかけていれば、何となく、解決にたどりつけるのだ。
簡単に聞こえてしまうかも知れないが、俺には、相手が言おうとしていることが、何となく分かってしまうって能力が、最大限に活かされている。
嘘を言っている奴はすぐに分かるし、自信がないのは、後回し。もちろん、話しすら聞いてくれない奴もいるが、そいつが何かを知っているのか、全くの無関係なのか。そんな事も分かるようになって来た。
なので、比較的、他の探偵達よりは、解決率が高い。
もちろん、期間内に解決出来なくて、流れてしまった事もある。あれも、依頼人が、期間延長さえしてくれていれば、解決する自信はあったのに…
この仕事を、やってみて、良いと思った事は、感謝されるって事だ。
解決した時に、料金が高すぎるやら、遅かったから、割引しろ。何て事はまず無い。
皆、ありがとうございましたと、頭を下げて感謝してくれる。
人に必要とされる事が、こんなに、嬉しいものだとは知らなかった。
もちろん、嫌な仕事もある。
1つ目は、人探しのターゲットが、他界していた時。
これは、警察の方のお世話にもなるし、何より、それを聞いた時の依頼人の落ち込み具合ったら、何と声を掛けてよいか分からない。
2つ目は、不倫調査だ。
この、依頼が来ると、ターゲットは、90%黒だ。
依頼人が欲しいのは、調査ではなく、証拠だ。
この依頼の場合、何日かターゲットに張り付いていれば、すぐに終わる。
もちろん、依頼人に感謝はされるが、他人の不幸を食べている様で、気分は悪い。
たまに、不倫の事実は確認出来ませんでしたと、報告すると
『不倫の事実を作ってもらえませんか』
と、言ってくる馬鹿までいる。
そりゃ、お門違いだ。俺は、あくまで真実のみをメシにしている。
それに、ここでの人間関係は、良い。
牧師さんの所では、2人の養子縁組が決まったが、新たに3人増えて、大変そうだ。
何でも、国からの援助金や、街の人からの寄付金で何とかしているみたいだが、本人は、タバコも吸わなきゃ、酒も飲まない。車さえ持って居ない。質素倹約を絵に描いたような聖職者だ。
俺にも、良く接していてくれる。
彼のような人が、街なかに溢れていれば、この世は何て平和に過ごせる事だろう。
そんな彼と、友人で居られる俺も誇らしい。
バーのマスターも、良い人だ。
口は悪いが、物凄く気が利く。
話したいときには、グラスを磨きながら、話し相手になってくれ、静かに飲みたい時には、他の仕事をしている。最初に来た時の様に、店内で喧嘩になる様な事もまず無い。基本、荒くれ者が集まっているが、普通の人が紛れ込んだ時にも、同じ様に、接している。
最初、入って来た時に、しまった!と、言う顔をしている客でも、帰る頃には、すっかり上機嫌になっている。
たまに、酔っ払って、悪い道に入り込みそうな客にも、そっちは、あんたの世界じゃない。
と、しっかり制してくれる。
この店内は、善と悪とが交わっているが、どちらもこの店では、平等に扱われている。
そして、何より凄いのは、情報量だ。
俺自身、何度か買った事はあるが、分からないと言われたことはない。それに応じた、金額を提示されるだけである。聞かれた事以上の話は語らない。
そして、ここで仕入れた情報は、決して、ここから出た情報だと、言ってはいけないと言う、暗黙の了解みたいな物もある。
俺は、友達に近い存在だと、思っているが、マスターは、一線引いているようで、マスターのプライベートは分からない。
たまに、冗談なのか、本気なのか、分からない事を言うのが玉に瑕だが、口が悪いせいだろう。
根本的には、良い人だ。
そして、晴子さんだ。
彼女は、現実の彼女とは、全然似ていない。
姿形は、そっくりだが、中身が全然違う。
キビキビと動き回り、用意周到だ。
必要になりそうな物は、あらかじめ用意してある。
働いている彼女は、輝いて見える。
まさに、理想の人だ。
それもこれもみんな、俺の夢の中の理想が形どっているのかも知れないが、この街、この場所、この仕事…
俺は生涯で最も充実しているのかもしれない。
確かに、不安はあった。
一ヶ月を過ぎた頃位に、このまま、夢から覚めないのではないか。
現実社会に戻り、小説を書かなくては…
そう、思っていた頃もあった。
でも、最近では、このまま、ここで、生涯を終えるのも悪くないような気さえしている。
しかし、俺の脳裏に不安が、よぎる。
こんなにも、長い間、夢の中にいたならば、現実の俺は、どうなっているのだろうか。
前に、ここに来た時も、現実社会の時間は流れていた。
それが、前回よりも、遥かに長い。
現実社会の俺が、食事も取らず、ただ寝ているだけなら、そろそろ、肉体が持たないのではないだろうか…
ともすれば、現実社会の自分の死は、夢の終わりになるのでは…と、一抹の不安を抱いている事も確かだ。
そんな事を考えながら、今日までの事を記録し、眠ることにした。
朝日が部屋に注ぎ、少し眩しいくらいの光が僕の目をこじ開けた。
目を細め、起き上がろうとすると、部屋が事務所ではない。
昨夜、あんな事を考えていたのに、現実社会に戻って来た事をすぐに実感した。
『やっと出てきた』
見た目はそっくりな晴子さんだが、身にまとう雰囲気が違う。
僕は、今回、どれくらい寝ていたのだろう。
晴子さんに日付を聞くと、あれから、11日間経っていた。
『あなたさぁ〜連載が嬉しくて、集中するのはわかるけど、返事くらいしてよね。たまに出て来て夜、ゴソゴソしているから、生きてるとは思っていたけど、たかだか、5000円くらいのために、そこまでする必要があるの?』
晴子さんが、何か言っているが、あまり、耳には入って無かった。
『それから、警備会社の社長さんから電話が掛かって来てたわよ』
はっ…やっと、頭が起きた気分だ。
『一応、インフルエンザに掛かったって言っといたけど…後は自分で何とかしてよね』
すっかり忘れれていた。
その仕事もあるのだ。
僕は、焦って社長に電話をした。
そして、連絡が出来なかった事を詫びた。
晴子さんのファインプレーで、クビにはならず、逆に少し心配されてしまったのだが、とても心苦しかった。
次のシフトからは出勤出来る事を告げ、受話器を置くと、晴子さんは、居なかった。
せめて、お礼を言いたかったのだが、帰ってきたら、言う事にしよう。
冷蔵庫から、食べれるものを探し、適当に見繕って部屋のノートを確認しに行った。
…やはり、結構な量が書かれている。
となると、僕は夢の中に居ても、記憶がないだけで、起きている事もあるようだ。
どんな周期で起きているのか分からないが、今は、原稿を起こす事が先決だ。
そこから、4時間ほどかかり、原稿をまとめた。
急いで、編集社に持って行かないと。
書き終えた原稿を、順番に、いくつかの封筒に分けてしまってみたが…重い…かなりの量になった。
しかし、そうも言ってられないと、タクシーを呼び、急いで編集社へ向かって貰った。
編集社に着くと、全く待たされず、編集長が飛んできた。
『岸本君〜この前の作品、評判良いよ~。まだ、社内だけど、皆、先を読みたがってるよ。珍しいよ、こんな事。先の話も頑張ってね』
そんな風に言われたのは、初めてだった。
嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、自分が作家だと言う事を、今、思い出した。
僕は、勢いそのままに、この前の代案と、その続きです。と、持って来た原稿を机の上に出した。
『こ、こんなに?どうしちゃったの〜無理したでしょ〜どんだけあんのよ。さすがに、今日中に読みきれないなぁ~。まぁ、とりあえずは、代案だけでも、読ませて貰うね』
そう言って、編集長は、僕の作品を読み始めた。
…原稿が読まれていく紙が擦れる音を感じる。
編集長は、終始難しい顔をしていて、何か失敗したのかと不安にさせるが、ボツにする時の表情とは、少し違う。僕には、編集長が読み終えるまで、待つしか無かった。長い…とても長く感じる。
ある程度の所まで読んだかと思うと、数枚戻ったり、を繰り返しているから、長く感じるのかな…と、思っていると、編集長は、やっと口を開き、仕事中の部下を呼んだ。
『山田ちゃ~ん』
この人も、長い事編集部に居る人だ。
話したことはないが、何度も見かけている。
『この間の、岸本君の連載部分さぁ~全部入れ替えるから』
どうやら、編集長にはお気に召して頂けた様だが、この山田君とやらは、物凄く怪訝な顔をしている。
『編集長…あれ、もう、回しちゃいましたよ』
『うん、それ止めて、全部これと、差し替えて』
『……』
『聞こえないの?』
編集長は、山田君の顔を見ることもなく、読み終わった原稿を差し出している。
『早くしてよ、時間無いよ~』
編集長の言葉に、嫌々ながら、原稿を手に取り、足早に部屋を出ていった。
編集長は、改めて僕を見て話始めた。
『ただの、山場の無い様な、日常生活でも、この前の物とは別物だよ。正直、信じられない…でも、こんな事ってあるんだよなぁ~長い事続けていて、いきなり化ける人って』
僕も、長い事、ここに出入りしているが、今までで、最大の賛美だ。
『でだ。ここからが本題なんだけど…この作品、連載だけじゃなく、書籍化もして、放送の方にも持ってく、うちの会社で、社運をかけて押してくわ。そうなると、他の編集社とかに、持ち込みとか、できなくなるけど、どう?うちと、業務提携結んでみない?』
何だ…嬉しくて、頭が回らない。
僕の作品を…社運を賭けて?
放送の方にも?それって、ドラマ化するかも知れないって事?
頭は完全にパニック状態になっているのだが、僕はひたすら頷いていたようだ。
『良いんだね、じゃ、契約書持ってくるから』
編集長が、契約書を取りに行くと、僕は顔を上げ、周りを見渡した。
すると、他の従業員も手を止め、こちらを見ている。
それは、珍しい物を見る、好奇に溢れた目だった。
編集長が戻り、僕に契約書を差し出す。
僕は、契約書の内容に目を通しながら、ふと思った。
この立場は、いつもと逆だ。
編集長が提出したものを僕が読んで、編集長が返事を待っている。
そんな事を思ったら、少し笑ってしまった。
『どうした?何か、おかしい所ある?』
それに、気が付いたらしい編集長がそう言ったが、僕は、契約書の内容など、ほとんど見ていなかった。
ただ、読んだふりをして、同意の所にサインをした。
『ありがとう。それじゃあ、この話を進めて行くね。それと、今まで書いた作品…あれも、書籍化するから。順番とか、任せといて』
僕がキョトンとしていると、編集長は、ニヤっとしながら
『言ったでしょ、一つ売れて、名前が売れれば、どんな作品でも、評価は受ける。良くも悪くもね。でも、評価を受けるって事は、本が売れるって事だから。それに、古い作品があればあるほど、うちでは、昔から岸本さんに目を掛けていましたよってアピールにもなるし、他社が入り込む余地もなくなるでしょ』
その時、初めて分かった様な気がした。
僕は、今までにも、売れそうな作品は、作っていたのだ。でも、名前が売れていない作家が突然、本を出しても、誰も手に取ってくれない。
きっと、そうゆう事なんだ。
『前の原稿は、今度、うちの山田に取りに行かせるから、あっ、さっきの奴ね。あいつが家に行ったら、原稿を渡してね。じゃ、改めて、これからもヨロシクね、岸本先生』
僕は、浮ついた。舞い上がった。帰る足取りが軽い何てもんじゃない。歩いている事さえ分からない。
この気持ちを、どう表現すれば良いのだろう。
この気持ちを表現出来ないようでは、作家失格だ。でも、合格だ。
帰りに、コンビニで、安いウイスキーを買った。
とりあえず、妻に報告だ。
何て言うだろう…おめでとうと、言ってくれるかな。
ソワソワしながら、家に着くと、妻はもう家に居た。
僕は、ウイスキーをテーブルの上に置き、今日、起きた出来事を妻に語った。
おめでとうと、言われた。でも、それは、僕の熱を下げる言い方だった。
『で、飲まないクセに、ウイスキーなんか買って来ちゃってんだ。私、聞いたことあるわよ。作家さんて、それだけで食べて行くには、4〜5作品目が売れてからなんでしょ。それなのに、そんな無駄な買い物までして…』
今まで、空を浮いていた足が地についた。
同時に、怒りまで込み上げてきた。
僕が、今まで、どんなに頑張って来たかを、一番近くで見ていたはずなのに!
なんで、素直に喜べないんだ。
僕に収入が出来たら、晴子さんだって、楽になるだろうに!
久しぶりに、喧嘩をした。
いつ以来だろう。妻は、大きな声を上げる僕に、初めは戸惑っていたが、次第に言い返してきた。
社会的地位が低いだとか、お金は実際入ってから言えとか。良く覚えていないが、妻のこの一言で、喧嘩は終わった。
『じゃあ、聞くけど、あなたは、私がどこで何の仕事をしているのか知ってるの!?』
それを捨て台詞に、妻は自室へと入って行った。
それくらい知っている。
どっかの会社の簿記の仕事だ。
その資格を取るために、勉強していたことも知っている。
フンっ絶対見返してやる。
僕は、買って来たウイスキーの蓋を開けると、そのまま一気に飲んだ。
『ゲホっ!ゲホっ!』
ゲホゲホするし、不味い…
何て安物何だ…
僕は、怒りを覚まそうと、シャワーを浴び、布団に入り込んだ。
もちろん、大切なノートを抱えて。
『…岸本さん…岸本さん、起きて』
まだ、意識がまどろむなか、晴子さんの声に起こされた。どうやら、見事、こちらの世界にこれたようだ。
『また、朝まで飲んでたの?』
『あぁ、そうみたいだ』
晴子さんは、ハァ〜しょうがないって顔をしている。
『ところで、今は何月何日だ?』
『最近、その言い方が流行ってるの?マイブームってやつ?』
何かおかしな事を聞いただろうか…
『おかしいかい?』
『寝起きに、今何時だって聞く人は多いと思うけど、何月何日だって聞く人は、いないんじゃないかな』
言われてみれば、その通り。何故、気が付かなかったのだろう…
しかし、聞いてみれば、あれから、3ヶ月経っている。
夢の中な方が、圧倒的に時間の流れが早いのか…
過ごしている時間はそんなに早く感じないが、一度、現実社会に戻ってしまうと、こちらの方が時間が、流れている。
『とにかく、ちゃんとベットで寝てよね、事務所で寝られると、仕事が出来ないから』
『すまないね…あ、それから、この3ヶ月に解決した案件の書類を出してくれないか』
『見て、どうするの?』
『なに、見直しておきたいだけさ、それと、今、抱えてる依頼はあったっけ?』
晴子さんは、不思議そうな顔をしながらも、3ヶ月分の書類を机の上に持って来た。
『今、抱えてる案件はないけど、13時に、依頼人が、来ることになってるわ…でも、本当に受けるの?』
『ん?何がだ?』
俺は、書類に目を通しながら、ノートに書き写していた。
『それ、書き写すなら、私がやりましょうか?』
『いや、いいんだ。これは、自分がどうやって調査したかを復習してるんだ。今後の為にもね。それで、本当に受けるのとは?』
晴子さんは、不安と、心配が入り混じっているかのような顔をしている。
『だって、今回の依頼人、絶対普通の人じゃないわよ』
『普通じゃないって?』
『多分、暴力団系じゃないかな…』
俺は、少し焦ったが、そんな訳はない。
そもそも、彼らは、独自のネットワークを持っているのだから、警察官より、優秀だ。
『多分、違うと思うよ。彼らは、俺に、金まで払って頼まないよ』
『だと良いけど』
晴子さんの忠告を聞きながら、メモを取り終えた。
13時までは、もう少し時間がある。
軽く何かを食べようか…と、思っていると、事務所のドアがノックされた。
どうやら、依頼人は、早く着いたようだ。
昼食を諦め、晴子さんに入ってもらうように言うと、依頼人は、お願いしますと、頭を下げて、ソファーに座った。
依頼人は、男性。45才。見た目は普通のサラリーマンっといった感じだが、少し、ただならぬ雰囲気を持っている。
俺が依頼内容を尋ねると、妻を探して欲しいと。
依頼人の妻は、京香さん。25才。年の差婚ってやつか。
5日前に喧嘩して、出て行ったっきり戻って来ないらしい。財布は持っていたらしいが、スマホは家に置きっぱなしで、連絡も取れない。
会社の事もあり、公にしたくないために、警察には、相談していないようだ。
うん、年の差婚以外は、良くある内容だ。
写真を預かると、なかなかの美人さんだ。
『費用は、言い値で良いので、どうか、お願いします』
こんな美人さんが居なくなれば、気が気じゃないだろう。45才にして、こんな人は見つからない。
逃した魚はデカいぞってか…
それに、言い値で…お金持ちか。
『よろしい、やってみましょう。うちの事務員と費用、延長料金等の話をして、そちらが宜しければ、仕事を始めます』
男は、安心したかのように、首を縦に振り、晴子さんと、費用の話に入った。
しかし…この男は、暴力団には見えないが…
事務所との契約が成立した男は、出る間際で、お願いしますと、頭を下げて行った。
どうして、晴子さんは、暴力団だと思ったのかと聞くと
『私の早とちりだったみたいね。彼の会社が、裏で暴力団と繋がっているから…ま、あの様子だと、本人は知らないみたいだけどね』
と、呟いた。
とにかく、仕事がしたい。現実社会に戻る前に、少しでも多くの情報を。
でも、その前に、飯だ。
早速街へと出掛けて、聞き込みを開始してみるが、成果は芳しく無い。
大概2、3件は引っかかるものだが、全く出てこない。
京香さんが勤めていたという、会社まで押し掛けてみたが、ここでも、京香さんは、1年前に退職しており、その後に連絡を取っている者は居なかった。
どうやら、依頼人の旦那さんから得た情報は、かなり古い。仕方がなく、その日の捜索を打ち切る事にした。
それから、3日。
考え付く所を回って見たが、唯一情報が得られたのは、一ヶ月前に、コンビニのATMで、お金をおろしていたらしい事だ。
99万を2回もおろしていたので、コンビニの定員さんも怪しく思い、覚えていたらしい。
しかし、これも、一ヶ月前だから、失踪前の話になる。
そんな大金を、一度に持って、何をする気だったのだろう。
この事を、旦那さんが知らなければ、一ヶ月前から、家出の計画を立てていた事になる。
兎にも角にも、今回の依頼は、骨が折れそうだ。
近くまで来たので、寺院に寄ってみる事にした。
今回は、しっかり、シュークリームを10個買ってある。
寺院の広場では、いつものように、子供達が遊んでいた。前に来た時と、少しメンバーは変わっているが、相変わらず、幸せそうだ。
一番年長さんの、女の子が俺に気が付いた。
『いらっしゃい、岸本さん。どうぞ』
相変わらず、しっかりした子だ。
『お邪魔するよ、牧師さんは中かな?』
『今、お客さんが来ているから、ちょっと待って居たほうが良いよ』
『そうか…』
俺は、持って来たシュークリームを食べようと、皆の前に差し出した。
シュークリームに群がる子供達に、年長の女の子は
『皆、手を洗ってからでしょ。それから、岸本さんに頂きますを言ってから食べるのよ』
子供達は、は~いと、素直に従い、手を洗いに行く。
『メンバーが、変わったみたいだね』
俺が、女の子に聞いてみると
『養子縁組が決まって、2人、卒業していったわ。幸せに暮らしていると、良いのだけれど…』
淋しいのかな…女の子は、どこか不安気な顔をしていた。それは、そうかもしれない。
見ず知らずの人に、貰われて行くのだから、不安に決まっている。
でも、子供が欲しくて、出来ない大人達が貰って行くのだから、大切にしてくれるはず…
『大丈夫…皆、幸せになるさ』
気休めかも知れないが、そう、信じたいと思う、俺自身の思い入れもあった。
女の子が頷くと、皆一斉に帰ってきて、シュークリームに手を伸ばした。
その内の一人、おそらくは最年少であろう女の子が
『岸本のおじちゃん。いつも、ありがとう』
と、言うと、皆一斉にありがとうと、繰り返した。
美味しそうにシュークリームを食べる子供達を見て、こんな物で喜んでくれるなら、今度は2個づつ食べられるよう、倍買って来よう。
そんな風に思っていた。
しばらくすると、牧師さんの案内で、一人の男性が出て来た。どうやら、外国の方らしい。
牧師さんは、流暢に英語を話している。
もちろん、何を言っているのか分からない。
最後のThanksだけは、かろうじで聞き取れた。
牧師さんは、外国の方を見送ると、俺に、気が付いた。
『あぁ、岸本さん、いらっしゃい』
俺は、軽く手を上げ、牧師さんに挨拶をする。
『英語を話せるなんて、知らなかったよ。今の人は?』
『あぁ、この前、男の子を引き取って貰った家族の執事さんだよ』
『外国人にも、子供達をお願いしているのか?』
俺がビックリして聞き直すと、牧師さんは、少し暗い顔をした。
『本当はね、私も日本で、暮らして欲しいと、思ってはいるのですが…岸本さん、これが今の日本の現状ですよ。子供を育てる余裕がないってのもありますが、そもそも、日本の未来に興味がない。日本の方に貰われて行くほうが、珍しいんです』
確かに、その通りかもしれない。
子供の為に、苦労をするよりも、現状を楽しみたい。何とかしたいって、日本人で、溢れている。
昔の人は、今よりもっと、生活も苦しかっただろうに、子供がいる事が当たり前だった…
国際社会か…聞こえは良いけど、日本を愛する人も減少していくのだろうな…
『あ、それで、英語を話せるのか』
『少しだけですがね、これも、子供達の為です』
『貰われていった子供達も、英語を話せるようになるには大変だろうに』
『大丈夫ですよ、日本人は優秀ですから、小さい頃の方が、なれるのも、早いですしね。それに、経済力のある方を選んで居るので、安心です』
『俺も、牧師さんに、英語を習おうかな』
『大した事を教えられませんが、私で良ければ…でも、岸本さんには、似合ってないですけどね』
牧師さんは、笑いながら、事務所へと案内してくれた。
そこで、さっきの執事さんが、寄付金を持って来てくれたことや、俺の捜査が行き詰まっている事等を話した。
お互いに、お互いの話をしたからといって、何かが解決するわけでもないが、不思議と気持ちが楽になった。
牧師さんも、そうであれば良いのだが。
すっかり暗くなって来たので、夕飯を皆でと誘われたが、俺は酒場に向かう事にした。
何か、情報が入っているかも知れない。
『岸本さん、いらっしゃい』
マスターは、いつもの空気感を出している。
荒くれ者が、集まる店だが、特に大きな問題になるわけでもなく、もはや、快適に過ごせる空間となっていた。
『マスター、何か情報入った?』
マスターは、首を振りながら、ウイスキーを差し出した。
『珍しいね~そんなに広くもない街で、これだけ情報が集まらないなんて…多分、もう、街を出てしまっているか、どこかにじっと隠れているか…』
ウイスキーのグラスから、カランッと氷の溶ける音がする。
『潜伏するとしたら、どこに隠れるんだろうねぇ』
自分でも、しょうもない事を聞いている自覚はあるが、全く進展のない捜索に、少し焦っていた。
『そうだなぁ~人目を忍んでいるとすると、街中ではないと思うから…海か…山か…』
キャンプ場か…それでも、女一人で居るのなら、目立ちそうだが…それとも、一人じゃないのか?
『岸本さん、上手く行かないこともあるよ。まだ、時間はあるし、ゆっくりやりなよ』
マスターは、そう言ってくれるが、戻って来て、最初の仕事だ。出来れば解決しておきたい…
俺の考え込んでいる顔を見て、マスターは、そっと仕事に戻った。
海か…山か…行くだけ行ってみるか。
目撃情報くらい、あるかもしれない。
俺は、マスターに勘定を支払って、店を出ることにした。
『これから、まだ、仕事かい?』
『あぁ、もう少しだけ…港にでも顔を出してみるか』
これから山に行くには、時間が遅すぎる。
電車で、港近くまで行って、明日の朝一で、山に行って見ることにした。
港まで、足を運んでは見たものの、辺りは真っ暗で倉庫付近と、遠くの海で、漁をしている船の光はあるが、港を歩く人は居ない。
まぁ、それもそうだろう。
聞き込みは、明日にして、今日の宿でも探すとしよう。
港は、寒かったが、頭を冷やすには、丁度良かった。
白い息が、ファっと広がり、肺の中まで冷やしていく。
これは、風邪を引きそうだ。
海沿いを歩き、港町を目指そうと思った時、一人の女が、声を掛けてきた。
『あの?探偵の岸本さんじゃありませんか?』
まさか、こんな所で、女性に声を掛けられるとも思って居なかった俺は、短く『えぇ、岸本ですが』
と、答えた瞬間に、我が目を疑った。
俺に、声を掛けてきた女性は、間違いなく、依頼人が探している京香さんだ。
こんな偶然があるのだろうか
俺は、懐の写真を取り出したい衝動を必死に抑えた。
『こんな所で、偶然お会いして…これも、何かの縁かもしれません』
それは、まさに、俺の台詞だ。
こんな形で、依頼が解決するなんて、小説にはならない。
『あの、私の依頼を受けてもらえませんか?』
これは、小説になる。
依頼人からの尋ね人からの依頼…
ものすごく、気になる。
しかし…これは、ルール違反じゃないか?
依頼内容次第では、依頼人を裏切る事になる。
でも、気になる…
『申し訳ないが…今は、依頼を受けている最中でね。
その次でも良いのなら、話だけは聞いて置きますが…』
俺は、なるべく平静を保ったまま答えた。
『次…あの、私、時間がないんです。後、一週間も待てなくて』
『いや、今の仕事が、一週間で片付くかは、分かりませんよ』
『あ、ごめんなさい。一週間って、言うのは私の事です。私、一週間後には、日本を出ようかと…』
国外か…俺の仕事は間に合ったが…
『私、もう、ギリギリで…一週間も待てないんです!お願いします。何とか、私を国外に逃がして貰えないでしょうか』
彼女の依頼は問題外だ。
『お嬢さん、どんな理由があるかは知らないが、俺は、探偵であって、逃がし屋ではない。その依頼は受けられないな』
京香さんは、俯いていた考え込んでいる様だが、無理なもんは無理だ。
そんなルートを知らないのだから。
俺は、いたたまれず、その場を去ろうとした。
『そうですよね…すいませんでした。では、依頼内容を変えて…』
俺は立ち止まり、話を聞いていると、彼女はポケットから、鍵を差し出した。
『これは、駅のコインロッカーの鍵です。一週間後、ロッカーに、鞄が入っているので、ここに持って来て貰えませんか?ちゃんとお金も払いますから』
京香さんからは、焦りも見えるが、まだ何か、隠してもいる気がする。
『鞄の中身は?』
聞いても意味のない事だと思った。
おそらく、逃亡資金だと推測はつくが、着替えだと言われても、確かめるすべはない。
『それは、言えません。でも、お願い出来ませんか?』
彼女の表情からは、逃げ出したい気持ちも見て取れるのだが、それとは別に、勝負している。
その金を持って、海外で、暮らすんだと、言うような、決意にも見える。
しかし…これで見えなくなって来た。
依頼人は、一介のサラリーマンっぽかった。
それが、海外で暮らせるだけの金を持っていたのだろうか…
やはり、裏が気になる…
『分かりました。では、一週間後に』
俺は、依頼人への報告をギリギリまで、待つことにした。
その間に、真相を調べたいと思ったからだ。
真相次第で、どちらに付くか…
または、どちらにも付かないか…
それを見定めなければならない。
鞄の中身が、金と決まったわけじゃないのだから、そのまま、警察には報告する事もあるかも知れない。
少し、後ろめたい気持ちもあるが、犯罪が絡んでいるのだとしたら、どちらの味方もしたくない。
『ありがとうございます。では』
と、彼女は、10万円を差し出した。
『これは…多すぎる。鞄を持って来るだけの仕事何だから、料金は取れませんよ。これは、依頼ではなく、お願いと言う事で』
俺には、やましさもあったのだろう。そう言って断ったが、彼女は、お金を引っ込めなかった。
仕方がないので、10万円のうち、1万円だけを取った。
『どんな事情があるか分からないけど、お金は必要でしょう。一万円で、依頼をお受けします』
彼女は、残りのお金をしまうと、深々と頭を下げ、港の倉庫街へと消えていった。
何だか、よくわからない状況になってしまったが、
明日、状況を整理して、どうするか、決める事にして、
俺は、そのまま、港町の安宿に泊まったが、明け方近くに、パトカーのサイレンやらがけたたましく鳴り響いていて、満足な睡眠を取ることが出来なかった。
俺は、シャキッとしない頭で、事務所に帰ってもう一度寝ようと、チェックアウトの時間よりも早くに出た。
朝も早いというのに、電車には、サラリーマンが続々と乗り合わせてくる。
もう少し遅ければ、満員になっていたのだろう。
それでも、目的駅に着く前に、満員となってしまった。
気分が悪くなり、2つ前の駅で降りる事にして、どこかの喫茶店ででもやり過ごそうと、店を探した。
辺りを見回していると、見慣れたいつもの服装で、牧師さんがパン屋に並んでいた。
『牧師さん』
『岸本さん、どうしたんですかこんな所で』
『野暮用で…牧師さんこそ、こんな所にまで買い物に?』
牧師さんは、照れくさそうに笑っていた。
『ここのパン屋さんは、安くて、美味しいんですよ。子供達の昼食にでもと、思って』
近所にも、パン屋くらいあるだろうに、わざわざこんな所にまで…大変そうだ。
『どうです?時間があれば、どこかでお茶でも』
『いや、パンを買うお金しか持って出なかったので、持ち合わせが…』
『え?ここまでは…?』
牧師さんが笑いながら指を差す方向には、自転車が並んでいた。
『お茶代くらい、俺が出しますよ』
『そんな…いつも寄付を頂いているのに…』
『いいのいいの、気にしない』
牧師さんは、少し考えた後、ごちそうになります。
と、応えた。
無事にパンを購入出来ると、俺達は、歩いて、そばにある公園へと向かった。
公園に着き、ベンチに腰掛ける。
『こんなんで、いいんですか』
俺は、そばにあった自動販売機から買った、紅茶を手渡した。
『十分です…』
満足そうな、牧師さんの横顔を見ながら、俺は、缶コーヒーを開けた。
フッ〜と、一息付いた時、俺も思った。
別に、喫茶店である必要は無い。
こうして、穏やかな時間が持てるならば、公園で十分だ。
『牧師さん…ちょっと、相談何ですが…』
『何でしょう…』
『仕事の話何ですが、相反する2つの依頼をされた場合、牧師さんなら、どう対処しますか?』
さっきまで、幸せそうな顔をしていた牧師さんが、難しい顔になった…が、答えは即答だった。
『私は、探偵さんの難しい事は分かりませんが、自分が正しいと思った事をします』
良かった…安心した。
自分の行動が、肯定された気がした。
『自分が正しいと思った事を…』
牧師さんを見ると、幸せそうな顔に戻っていた。
缶コーヒーも飲み終え、一緒に帰ろうかとも思ったが、歩きの俺が一緒だと、時間が掛かってしまうと思い、その場でお礼を言って、別れる事にした。
駅に着くと、人だかりも少しは緩和され、電車にも、スペースが空いていた。
これなら2駅くらい…と、電車に乗り込み、事務所へと帰った。
『ただいま…』
事務所には、晴子さんが既に出勤していて、ピリピリした表情をしている。
『お帰りなさい、昨夜はどこで?』
今更、そんな事で、怒っているのか?
俺は不思議に思いながらも、内容は伏せながら、昨日の事を答えた。
『あぁ、ちょっと仕事でな。港町まで、足を伸ばしたら、終電が無くなってしまってな…朝一で帰ってくるはずだったのだけれど、途中、牧師さんに合って話をね』
『港町に居たの?で、どうだった?』
どうだった?何の事だか分からないが、どうやら怒っている訳ではなさそうだ。
久しぶりに、予想を外したな…
『どうだったとは?』
『えっ、知らないの?』
晴子さんは、TVを付けた。ちょうど、昼のニュースがやっている。なんの気なしに、ソファーに座り、TVに目をやった。
ソファーに腰を掛けたら、眠くなり始めたのだが、ニュースの内容で、目が覚めた。
『お昼のニュースです。昨夜未明、港町で、海に車が転落する事件があり、運転席に乗っていた伊東京香さん25才が死亡しました。ブレーキ痕が無い事から、暗闇で運転を誤り、海に落ちた物だと思われます。海に落ちてしまうと、水圧でドアが開かなくなり…』
『嘘だろ…』
『依頼人の伊東さんからも、連絡があったわ。警察の事情聴取が終わったら、一度事務所に顔を出しますって』
晴子さんには話してないが、昨日会ったばかりの人が今日、亡くなっている…偶然か?
あの話の後に…
一瞬、頭が回らなくなったが、とにかく、依頼人が来るのを待つことにした。
『港町に居て、気が付かなかったの?』
『あ、あぁ。港町も広いからな…目撃情報を辿って探してみたのだが、見つからなくて』
俺は、とっさに嘘を付いた。
晴子さんは、きっと、知らない方が良い。
その後、夕方過ぎに、依頼人が事務所に顔を出したが、憔悴していること以外、特におかしな所は無かった。
悲しみの裏に、何かを隠して居るのか…
依頼料は、何だか気が咎めるが、調査費用は掛かって居るので、貰って置く事にした。
何とも、後味の悪い事件になってしまった。
『少し、出てくる』
経費の後処理を晴子さんに頼んで、バーへと足を向けた。今夜は酔わないと、眠れない気がする。
『岸本さん、いらっしゃい』
マスターのいつもの声に、導かれて、いつもの様に呑み始めた。いや、いつもより、ハイペースだったかも知れない。酔が回って来たようだ。
『どうしたの岸本さん、仕事上手く行ってないの?』
さすがマスター、鋭い所を突いてくる。
『あぁ、まぁね。上手く行かなかったと言うか…』
『そんなこともあるよ』
俺は、気を紛らわせたくて、違う話を切り出した。
『俺さぁ、昔、小説家になりたかった事があってね…』
マスターは、笑いながら聞いてくれた。
『小説家?そのゴツイ指で、ペンを握るの?似合わないなぁ~』
『ハハ…そうなんだよ、似合わなくてなぁ~』
『でも…小説家…良いかもね。俺もたまに考えるよ』
『ん?マスターも話を作るのか?』
『いや、そうじゃなくて、自分が何でここに居るのか、何のために生きてるのか…って、考えた時にね、実は、俺自身が、誰かに書かれている登場人物で、俺の人生を読んでいる人が居るんじゃないかってね』
『…なかなか、ロマンチックじゃないか』
『よしてくれ、そんなんじゃないが、俺は主人公にはなれないなって、話しさ』
『そうか?マスターの人生も、なかなか面白そうだけどな』
マスターは、フッと笑って、仕事に戻った。
俺もそろそろ帰らないとな。
そう思い立って席を立った時、京香さんに預かった鍵の事を思い出した。
さて、これは、どうするべきか…
俺は、勘定を払った後、もう一度、港町に戻って見る事にした。
あの安宿は、今日も空いているだろうか…
港に着くと、ちょうど船が出る所で、汽笛が聞こえた。
おそらく、ロッカーの中身は金だ。
海外で、暮らす気だったのなら、数千万円は入っているだろう。
俺は、一万円札を細く折り、ロッカーの鍵に括り付けた。
『京香さん、依頼は果たせなかったよ。鍵と、依頼料は、お返しするぜ。』
鍵は、暗い海の闇へと、吸い込まれていった。
しばらく、そのまま海を見つめていたが、夜の海風が体を冷やす。
そろそろ、安宿へ向かおうと振り返った時、2人の男が近付いて来た。
纒っている雰囲気が、堅気の物ではない。
『岸本だな』
しかし、思いの外、冷静だった。
こっちの俺に、慣れてきたのだろうか。
『そうだが…何かようか?』
『昨日の晩、ここで女に合わなかったか?』
『知らないねぇ』
どうやら、確信は無いようだ。
『隠してると、碌な目に合わねぇぞ』
明らかに、脅しを掛けてきてはいるが、バーに集まって来ている連中と、何ら変わりはない。
『依頼じゃないなら、他を当たりな』
男達は、顔を見合わせ、とりあえずは、引く事にしたようだ。
なるほど、これがこの世界の岸本か。
俺は、2人の居なくなるのを確認した後、港を後にした。鍵を捨てた所を、見られてなければよいが…
安宿に着き、部屋へ入る。灰皿と、ベット以外、なにもない部屋だ。
しかし、今回の夢は、内容が濃い…
明日からは、感謝される様な仕事がしたいものだ。
疲れていたのか、眠りに付くのも早かった…
次の朝、また、不信に思われるのもどうかと思い、晴子さんに、電話を掛けたが、全く出ない。
やはり、あの時、怒っていたのか?
俺は、電車を避け、タクシーを呼び止めた。
事務所に付いたが、晴子さんの姿はない。
しばらくは待って見たが、全然来る気配が無いので、また、電話するも、やはり出ない…
嫌な予感が体を走ると共に、電話が鳴り響いた。
『はい、岸本事務所』
『……』
電話の主は、なかなか喋らない
『もしもし?いたずらか?』
受話器を置こうとした時に、電話の主が話しだした。
『岸本だな』
男の声だ。
『…あぁ、そうだが?昨日の連中か?』
『女は預かっている。返して欲しくば、京香から預かった物を渡して貰おうか』
何なんだこいつらは…やはり、良くない物だったのか?
あのまま放置されて、駅員に見られると、まずいような。
『あのなぁ~何を勘違いしてるか分からんが、俺は、何も預かってなどいない』
『女がどうなっても良いんだな…』
『女と、言うのは、うちの事務員か?』
『そうだ』
どうやら、嫌な予感は、当たったらしい。
『そうなら、声を聞かせて貰おうか』
受話器の向こうで、ガタガタと音がする。
しばらくすると、晴子さんが話しだした。
『岸本さん、何なのこれ』
『晴子さん、どこに居るんだ?』
『分からない、目隠しされていて…キャッ…』
『晴子さん!』
電話の声は、男に変わっていた。
『もう、良いだろ。鍵を渡して貰おうか…』
なっ…預かりものが、鍵だと知っている…
どこかで、見られて居たのか…やはり、あの亭主が犯人か?俺をつけていたのか?とにかく、この状況は、マズイ。俺が黙っていると、今すぐ鍵を港に持って来い。そうすれば、女の安全は保証する。と、言って、電話は切れた。
さぁ、どうする…鍵は、海の中だと、正直に言うか…
それとも、別の…
鞄の中身は、おそらく金。ならば…
俺は、使っていない鞄と、通帳を持ち、銀行へと急いだ。口座には300万程は入っている。
それを駅のコインロッカーに入れて、時間稼ぎをして、晴子さんを助け出そう…なに、俺は鞄に幾ら入って居るのか知らないのだ。
足りないのなら、京香さんが使った事にすれば良い。
銀行で、金をおろし、鞄にいれると、コインロッカーにぶちこみ、鍵を持って、港へと急いだ。
何て遅い電車何だ。電車の中を走りたくなる気持ちが分かる。しかし、落ち着け…冷静に…冷静に…
自分にそう言い聞かせる。
途中、席が空いたので、俺は、落ち着かせる為と、座ったのだが、座った途端、猛烈な睡魔に襲われた。
何故こんな時に…
ウトウトしただけのつもりが、しっかり寝ていたらしく、目が覚めると、晴子さんの顔があった。
『あなた、起きて下さい!あなた…』
晴子さんは、僕をグラグラと揺すっている。
な…なんだ?無事だったのか?
取引は上手く行ったのか?
……あなた?嘘だろ!
僕は、机の椅子から、転げ落ちた。
『ハハハ、驚かしちゃったわね、ゴメンナサイ。でも、皆さん集まってらっしゃるので』
皆さんが?集まる?何で…
僕がキョトンとしていると、妻は優しく語りかけた。
『もう、約束したじゃありませんか。今日は、私のお友達が来るから、少しだけでも、顔を出してくれるって』
ちょっと待て…頭の整理が追いつかない。何故、このタイミングで起こしたのかと、怒りたくもあるが、現実社会に戻って来たのは分かる。
正直、戻りたくは無かったが、起こされてしまった様だ。だが、そんな事じゃない、何だその喋り方は…キラキラのネックレスにフリフリの服…
良く見れば、指輪までしている。
それに、ここは…どこだ。壁も机も天井も、見覚えがない。見覚えがあるものは、あのノートだけ。
『さ、しっかりして下さいな。ご近所の皆さんに、ご挨拶なさって』
僕は、晴子さんに手を引かれ、リビングへと連れて行かれた。
そこには、晴子さんと、同じ様な格好をした女性達が、テーブルに着いて、食事をしている。
全く、見たこともない光景だ。
何だ…僕は夢の中で前回ほど過ごしていない…
思わず、妻に、今日の日付を聞いたが、1日しか経っていない…
これは、現実社会ではなく、また、別の世界なのか?
『まぁ…予想通り、ダンディな方です事…』
女性達は、しきりに僕を褒めている。
『ほら、あなたも座って』
僕は、晴子さんに言われるがまま、テーブルに付いた。
どうやら、ここでも、落ち着かなくちゃいけないらしい。いったい、何がどうなっているのか、見極めねばならないようだ。
テーブルの女性達は、僕に、好奇な目を向けてくる。
その内の一人が、口を開いた。
『あの、せっかく何で、質問とかしちゃって良いかしら?』
僕は、正直、眼の前の女性達が気持ち悪いと思った。
必要以上に顔を白く塗りたくり、指輪も…何個してるんだ、数えたくもない。などと考えていると、妻は僕の顔を見た後
『質問だって。良いわよねあなた』
僕は黙って頷いた。
『じゃあ、早速。小説なんて、書いたことがないから、わからないんですけど、アイデアとかは、どっから出てくるんですの?』
アイデア…考えた事もなかった。強いていえば、日常生活の中で、ぱっと浮かぶ。
もしくは、こうなったら面白いなと、思う物を書く。
『やっぱり、取材とか、行くのかしら』
まず、行かない。どうしても必要じゃなければ…
『昔はしょっちゅう行っていたわよね、あなた。私も、主人に付いて、色々回ったわ』
…何を言ってるんだ?妻は、僕の書いた原稿を読んだこともなければ、興味を示した事もない。ましてや、取材旅行だなんて…やはりここは、また、別の世界なのか?
『じゃあ私も質問良いかな』
その女性は、周りの女性の顔を伺い、僕が良いと言って無いのに、勝手に喋りだす。
『私、ずっと不思議に思ってたんだけど、ドラマとか見てて、台詞ってさ、男性が作っているのに、女性や、子供、老人の台詞もあるじゃない?あーゆーのって、どっから出てくるのかしら…』
台詞?そんなの考えた事も無い。
頭の中に、キャラクターがいれば、そいつ等が勝手に喋りだす。これを何と言ったら良いんだ?
僕は、勝手に喋りだすとだけ答えた。
『ヘ〜不思議な物なのね、あ、そうそう。よく、作家さんはスランプになるとか聞くんですけど、止めたくなった事はないんですか?』
僕が、煮えきらない応えばかりしているのが気になったのか、この質問には、妻が応えた。
『そりゃ、昔は良くあったわよね~そのたびに私が、あなたには才能があるんだから、私が働いて、生活費は稼ぐから、その内、世間が認める日が来るから…と、応援してきたんですの』
『まぁ!健気な奥様ねぇ』
どうやら、別世界である事が、確定したようだ。
3つ目の世界か…ちゃんと、戻れるのかな…
『じゃあ、私達が読んでいる本も、見ているドラマも、奥様がいなければ、見ることは無かったんですねぇ』
『いや、そんな大袈裟な…私は妻としての役目を果たしただけですわ』
食卓は賑わって居るようだが、僕は全く賑わっていない
『あなた、どうしたの?あっ、ごめんなさい。私達ばかり食べてしまって…あなたも食べるわよね』
何と言う勘違いだろう。僕はお腹が空いている訳ではなく、呆れているだけだ。
『今日は、あなたの好きな、ビーフシチューよ』
妻は、僕に、ビーフシチューを差し出したが…何だこれは…臭い。見た目は普通のビーフシチューだが、その中に、男性用の香水を一瓶混ぜて煮込んだかの様な匂いだ。初め、この女性達の誰かの香水の匂いかと思っていたが…とても食えたもんじゃない。
『どうしたの?冷めるわよ』
僕が食べずにいると、女性達が、僕の異変に気が付いた。
『あら…先生、鼻血が出てるわよ』
『あら、やだ。沢山の美人を目の前にして、興奮しちゃった?少し、熱があるのかしら…』
と、妻は世話しく僕の鼻血を拭き始めた。
僕は、いいと言って、手を振り払い、トイレに向かった。どこだか分からないが、多分玄関の方だろう。
背中越しに、女性達の会話が聞こえる。
『やっぱり、作家先生って、気難しい方が多いのかしらねぇ~』
『まぁ、普通の人に比べたら、確かにそんな所があるかも…でも、慣れますよ。個性だと思えば…』
『ま、素敵な御夫婦ねぇ、先生も、晴子さんを貰えて、幸せ者ねぇ』
『そんな、そんな』
オホホホ…
勝手に言ってろ。
僕は、トイレを見つけて、わざとドアを強く閉めたかったが、ドアの左上に開閉装置が付いていて、強くは閉まらなかった。
見ると、トイレも豪華になっている。
しかし、カレンダーをトイレに掛ける癖は、抜けてないようだ。
僕は、何となくカレンダーに違和感を感じた。
普通のカレンダーだ。特に、高価なとか、有名画家の挿絵が…とかではない。何だろう…何で、違和感を感じるんだ…
その時、ハッと、気が付いた。
今日は、土曜日だ。
いや、違う!土曜日は、土曜日なのだが、あれから1日しか経っていないのなら、今日は木曜日のはずだ。
カレンダーを外し、表紙の西暦を見てみると、もといた時間より、2年進んでいる。
どういう事だ…夢の中の時間の方が、早いんじゃないのか?
そもそも、その考えが間違っていたのか?
僕が、勝手に夢の中の方が早いと思い込んでいただけなのか?
しばし、頭が追い付かなかったが、どうやら、鼻血も止まった様だ。
血の付いた手を洗おうと、洗面台に立った時、また、驚かされた。
これは…僕?
頭はすっかり、白髪に染まっていて、60に近い様な顔付きになっている。
何で…この2年に何があった…
次に夢の中に戻ったら、どうなって居るんだ…
僕は、恐ろしくなったが、夢の中で、鍛えられたのか、調べずにはいられなくなっていた。
とりあえず、編集社に行って見よう。
僕は、トイレから飛び出し、ちょっと出てくると声をかけ、外に出た。
『あ、いってらっしゃ~い』
『…やっぱり、作家先生の妻って、大変そうね』
『そんな事無いですよぉ~あぁやって、突発的に動く時は、何か、アイデアが浮かんだ時とか、多いんですよ』
『それじゃ、私達は、また、新しい作品が見れて、奥様は、指輪が増えるって事かしら』
『やだーもー』
妻達の集まりは、どうでも良くなっていた。
情報欲しさに、同席したが、一緒に居ても、気分を害すだけだし、晴子さんは、嘘ばかりついているし、妙なもの食わされそうにはなるし…ろくなもんじゃ無い。
それよりも、事態を確かめなくては。
ここは、現実世界なのか?
それとも、別世界の夢なのか…
僕は、どこに行けば良いのかわからず、編集社に向かってみる事にした。
そこで、何か掴めれば良いのだが…
それにしても、さっきから、頭痛があり、ひどくなっているような気がするが、その内収まるだろう。
編集社前に着いたのだが、我が目を疑うほど、立派な建物になっている。
ここで、合っているのか、不安になったが、看板には、編集社と、書いてある。
僕は、自動ドアをくぐり、受け付けへと足を運ぶと、
受け付けの女性は、立ち上がり、岸本先生、いらっしゃいませ。と、頭を下げる。
今までには無い態度だ。
僕の知っている受付嬢は、また来たか…って顔をしていた。
『先生、本日のご要件は』
あ、編集長と、お話したいんだけど…
と、言うと
『編集長ですね、しばらくお待ち下さい』と、手際よく電話を掛ける。
すると、3分も待たないうちに、編集長がエレベーターから降りてきた。
『いやいやいやいやいやいや…先生、ワザワザお越し頂かななくても、ご要件なら、こちらからお伺いいたしますのに…』
僕は、お久しぶりです、少々、お伺いしたいことがありまして…
と、言うと、編集長は、笑みを浮かべながら
『何をおっしゃいます、先日パーティーでお会いしたばかりじゃないですか。何か、私が、聞き忘れた事などありましたでしょうか』
と、言う。
キャラ設定が、メチャクチャだ。どう接して良いのか、わからない。
僕は、とにかく情報になる物が欲しくて、おかしな事を聞きますが、と、言ったうえで、頭に思いついた事を、聞きまくった。
編集長が僕を持ち上げながら話すので、長くなったが、終始笑顔で、デビュー以来、本が売れまくっている事、ゲームのシナリオにもなっている事、ドラマの視聴率も良い事、マネージメントを編集社に一任している事で、このビルを改築出来た事。半ば、編集社と、芸能事務所が、合体したような物だと。僕の知っている歴史で言えば、声優さんみたいなものだろう。
昔、声優さんがメディアに出る事は無かったが、今は、歌まで歌っている。それと同じ事が、作家社会にも起こっているらしい。
僕は、歌を歌ったりしていない様だが、若い作家さん達は、歌ったり、踊ったり、バライティーに出たりとしているようだ。
そして、そのきっかけを作ったのが、どうやら僕らしい。
社交的な作家さんって、イメージに無いけど、変わる時は変わるもんだ。
そして、何より大事なのは、話を繋いでいくと、ここは現実世界って事で間違いないようだ。
やはり、あれから2年経っている。
さすがに、これだけ環境が変わり、2年も記憶がないと、浦島太郎状態だが、これは、飲み込むしか無い。
僕は、また、頭痛がしてきたので、帰ると告げると、車で送ると言ってくれたのだが、断って、歩いて帰る事にした。
頭を冷やしながら、冷静に今を分析したい。
それと同時に、夢の中の晴子さんを助ける手を考えねばならない。
この、現実世界の事は、慣れて行くしか無い。
1年もとどまれば、きっと、上手く溶け込めるだろう。
しかし、こちらで1年も過ごしてしまったら、夢の中は、どれくらいの時が進んでいるのだろうか。
夢の中に戻ったら、晴子さんがいない世界の話を牧師さんや、バーのマスターから聞いているのかも知れない。
そんな事は、絶対に駄目だ。
ここに至って、ようやく分かった事は、夢の中だからといって、全てが上手く行くとは限らないって事だ。
それは、現実世界でも言える事なのかも知れない。
夢が叶った世界では、夢を達成するために、自分が嫌だった事も慣れでやっているのかも。自分が思わぬ悲しい思いもしているかも。
そんな事を考えていたら、また、鼻血が、出て来た。
すぐにハンカチで押さえ、電車を降りて、トイレに、駆け込んだ。
鏡を見ると、酷い顔をしている。やはり、熱があるのか…とにかく、早く帰って、横になろう。と、思っていたら、また、頭痛が襲ってきた。
それも、かつて無い痛さだ。
タクシーに乗ろうと、トイレを出た所で、立っている事が出来なくなり、その場に座り込んだ。
まだ、鼻血も止まっていない。
そのうちに、人だかりが出来てきた。
『おい、大丈夫かあの人…』
『何か、血を流してない?』
『あ、あれ、岸本じゃないの?』
『え!本当だ!皆、岸本が居る!』
『岸本が、鼻血出して、座り込んでるよ!』
周りが騒がしくなって来たが、かまって居られる状態じゃない。
誰でも良いから、タクシーを呼んでくれないかと、助けを求めようと、顔をあげると、我が目を疑った。
そこには、僕を取り囲み、スマホで撮影している
ブタ、タヌキ、キツネ、カッパ…
何だ…幻覚を見ているのか?
と、思って居ると、それらは、でんでん虫へと姿を変えていく。しかもデカイ。
ますます増えていくでんでん虫は、僕を取り囲み何か言っている。気持ち悪い…
その内の一匹が、僕に手を伸ばしてきた
触るな!!触るな!触るな。
あまりの気持ち悪さに、僕は叫んでしまった。
触られた場所が、ドロドロ、ネバネバして、なお気持ち悪い。
やはりここは、現実世界ではないのか。
何て、気持ちの悪い世界に来てしまったのか…
今度は、吐き気まで、襲ってきた。
頭を駆けまくる思考が追い付かない。
その時、耳の中に、人間の言葉が、はっきりと響いた。
『そこな!そこな!』
何だか、聞き覚えのある声だ。
『そこな!えぇぇい邪魔じゃ、そこをどかんか!』
声のする方に目を向けると、牧師さんが、でんでん虫をかき分け、僕の方にやってくる。
あぁ、牧師さんが、助けに来てくれた。
『どうした。大丈夫か』
僕は、うわ言のように、牧師さんと呟いていた。
『牧師?牧師ではない、儂じゃ、坊主で占い師の儂じゃ、しっかりせんか』
あ…そうか…占い師さん…
占い師さん、助けて、でんでん虫達が…
『でんでん虫?まぁ良い、とにかくここを離れるぞ、目を閉じたままで良い。儂が人のこんとこに連れて行ってやるでな』
そうして、占い師さんの肩を借りて、僕はその場を離れた。
しばらくは、人の声も聞こえていたが、占い師さんが、追い払ってくれたらしい。
少し楽になり、目を開けると、公園のベンチに、横になっていた。
僕は体をお越し、周りを見渡した。
でんでん虫は、もういない…
『少しは良くなったみたいだの』
僕は、慌てて、占い師さんにお礼を言った。
『良い良い。久しぶりじゃの。しかし…何だか老けたようじゃなぁ~』
僕は、寝て起きたら2年が過ぎていて、頭も白くなっていた事、周りの環境が変わってしまっていたことを矢継ぎ早に話した。
占い師は、僕の顔をジロジロと見回し、話を始めた。
『そうか…さもあろう。尋常じゃない事が、ヌシに起こっているようじゃな…』
占い師さんに、僕を疑っている様子はない。
まずは、混乱している自分を落ち着かせ無ければ。
周りを見渡すと、辺りは既に暗く、公園の街灯だけが光って入る。
僕の目に映ったあれらは、何だったのか。
占い師さんには、どう見えていたのだろう。
何から聞いてよいのか、迷っていると、占い師さんは、
『ハッ!』と、いきなり大きな声をたて、その声にビックリした僕の顔を両手で抑え、顔を覗き込んできた。
『どうじゃ…落ち着いたかの』
今度は、柔らかい口調だ。
その声に僕は頷く。
『ヌシはの、幻覚を見たんじゃ』
あ、あれが幻覚?
幻覚など見るのは、初めての事だが、あれほどリアルに見えるものなのか?
『おそらくヌシは、夢の世界を行ったり来たりしている内に、見えないものが、見える様になってしまったのかも知れん』
そ…そんな。これからも、あんな物が見えたりするのか?
『もう、夢の世界に行くのはよすのじゃ』
しかし、あちらの世界に、僕の助けを待っている人がいる。小説も、まだ、終わりを迎えていない…
占い師さんは、僕の顔から、手を離し立ち上がると、僕を見下ろしながら言った。
『正直に言うとな…ヌシの顔には、死相が出ている。このままの生活を続けるべきではない…』
死相…僕は死ぬのか?
『死相が出ているからといって、すぐにどうこうなるものでもない。その後の行動において、死相が消える者もある。ヌシは、この世界において、十分成功した。もう良いであろう…贅沢をしなければ、生涯暮らせるだけの金もあるだろう。もう、十分やったのじゃ。海の見える土地にでも行って、ゆっくりと暮らすがよい…』
それは、もう、小説を書くなと言う事か?
やっとここまで来たんだ。誰からも見向きもされなかった僕の小説を皆が呼んでくれる様になったんだ。
しかし、僕はその事実をほとんど実感していない。
ある日、突然そうなっていただけだ。
それに、僕が、戻らなかったら、晴子さんはどうなる…
まだ、駄目だ。せめて、この物語だけでも、書き終え無ければ…
僕が、黙って下を向いていると、占い師さんはため息をつき話しだした。
『は〜どうやら、無駄のようじゃな。もともとは、儂が悪かったのかもしれん。下手な助言をしてしもうた。そのせいで、ヌシは奇跡に取り憑かれてしまっておる……これを持って行くと良い…』
占い師さんは、懐から、僕に、風車を手渡した。正確に言うと、風車ではない。風車の柄はなく、鈍い銅のような金属で出来ていて、風で回るとは思えない。
大きさも、手のひら位だ。
僕が、それを受け取ると、占い師さんは、少し寂しそうな顔をしていた。
『お守りじゃ。もしかしたら、それがヌシを助けてくれるかも知れん…じゃがの。何度も言うが、この現実世界と向き合え。夢はあくまでも夢じゃ』
そう言うと、占い師さんは、僕に背を向けゆっくりと歩き出した。
『おそらく…もう、会うこともなかろう…今宵は良い月夜じゃの~…達者でな』
お守り…僕は、占い師さんが去っていくのを、手渡されたお守りと一緒に、見ている事しか出来なかった。
月は夢の世界と、同じ輝きを放っている。
あの輝きは、どの世界まで届いているのだろうか。
とりあえず、状況は整理できた。鼻血や頭痛も今は引いている。道行く人も、人の形をしているようだ。
お守りの効果が出ているのかも知れない。
とにかく、時間との勝負だ。
早速帰って、夢の続きを見よう。
夢の中の晴子さんを助け出して、物語はハッピーエンドだ。そうしたら、夢の中に行くのは、止めよう。
聞く所によれば、昔書いたものも、そこそこ売れているらしい。ならば、今、普通に書いても読んでもらえるはずだ。そうしたら、占い師さんが言った通り、海の側で、のんびり暮らすのも良いかも知れない。
問題は、次に帰って来た時に、どれくらいの時が経っているのか、見当が付かない事だが…
僕が、ただいまと、玄関を開けると、お帰りなさいと言う、キツネが立っていた。
僕は、平常心を装って、仕事だから、邪魔しないでね、と、足早に部屋に入った。急がなければ。
お守りを握りしめ、グッと手に力を入れて、ノートを抱き、眠りに付いた。
寒さで目が覚めたらしい…らしいのだが、辺りは真っ暗で何も見えやしない。
分かるのは、下は硬い土で、とにかく寒い。
どうやら、俺のいた時間より進んでいるようだ。
状況を確認しようと、立ち上がろうとした時、天井に頭をぶつけた。
低い…ここの天井は、1メートル強ってくらいか。
四つん這いで行かないと、周りを見る事もできなさそうだ。耳を澄ませば、何か古いファンが回っている音がする。俺は、音のする方に近寄ってみた。
暗い中、目を凝らして見てみれば、うっすら白く浮かび上がる物がある。
恐る恐る、手探りで触って見ると、これは…便器だ。
その上の方から、ファンの音は聞こえていた。
便器に手をつき、ゆっくりと立ち上がってみると、その部分だけ、天井は高い。
手を伸ばしてみても、まったく届かない…
マズイ…どう、考えても、ここは牢獄だ。
それも、警察署にあるような物ではない。
今度は、便器と反対側の方に進んでみる。
ある程度、進んだ所に、鉄格子らしきものがあった。
俺は、どうやら、組織的な物に捉えられているようだ。
しかし、こう暗くては…
監視カメラも映らないのではないか?それとも、暗視カメラでも、セットされているのだろうか。
俺は、とにかく、大声を立ててみた。
『お~い!誰か居ないのか!』
反応はない…鉄格子を揺すって見たが、当たり前のように開く事もない。
今、出来る事は、待つことだけのようだ。
しかし、寒い。
俺は、手や足を擦りながら、誰かが来るのを待った。
…どれくらいの時が経っただろう。
まったく、人の来る気配がない。
暗視カメラが付いていれば、起きている事も分かっているはず。それとも、見ていないのか?
そう言えば、俺が警備員のアルバイトをしている時も、監視カメラ何て、ほとんど見ていなかったな。
こんな状況下なのに、少し笑ってしまった。
…腹が減ってきた。ここに来て、どれくらいの日数が経ち、何を食べていたのかも分からない。
何か、食べ物が配給されていると思うのだが。
それからしばらくして、鉄格子の向こう、2mくらい上の方で、キーッと言う乾いた音と共に、光が差し込んだ。カンカンカンと、誰かが鉄の階段を降りてくる音がする。
『お~い、生きてるか?』
俺は、僅かな光で今いる場所を確認する。
やはり、天井は低い、約4畳位の広さだろうか。
奥には便器がある。
今、降りてきたガリガリの男に目をやると、味方ではない事がひと目で分かる風体をしている。
『まだ、生きてるぞ』
鉄格子越しの男は、面倒くさそうに、20cmほどのバケットを投げ込んだ。
『岸本…お前も粘るねぇ~吐いちまえば、自由になれるんだろ?俺も、いい加減、お前の面倒を見るのに飽きてきたわ』
こいつは、下っ端だな。情報を仕入れるのに丁度よい。
『俺がここに来て、どれくらい経つ…』
『覚えてねぇのか?まぁ、こんなに真っ暗じゃ時間の経過は分からんか…丁度、一週間になったよ』
あれから、一週間か。やはり時間の変動は、一定ではないらしい。
『とにかく、寒いんだが、何かないのか?毛布とか』
『あるわけねぇだろ。自分の立場分かってるのか』
何故、ここにいるのかも分からないのに、立場など分かるはずもない。その情報をお前から聞き出してる最中だ。
『あまり、親切な宿とは言えないな』
男は、マッチでタバコに火を付け、偉そうに言い始めた。
『助かりたかったら、早く吐いちまう事だ。そしたら、俺もここに来なくて済むし、2人ともハッピーじゃねぇか』
『俺にも、タバコくれないか?』
正直、タバコが欲しかったわけではない。
少しだけでも、火が欲しかった。
『俺がやれるのは、これだけだ。命令だからな。悪く思うなよ』
男は、水の入った紙コップを差し出した。
よっぽど、腕を掴んで鉄格子にぶつけてやろうかとも思ったが、こいつが鍵を持っているかは分からない。
男の差し出したコップを受け取り、チラッと鍵を見ると、ちゃちな南京錠だ。
これなら、壊せてしまいそうなのだが、鉄格子の鍵は、鉄の棒をスライドさせて、鍵をかけた後に南京錠をかけているので、鉄格子を蹴飛ばしても、鍵は開かないだろう。
『おい!まだかよ!早くしろよ!体が冷えちまう』
別の男の声が上の方から聞こえる。
どうやら、二人で来ているようだ。
『まぁ、また後で迎えに来るから、今度こそ吐いちまえよ』
ガリガリの男は、タバコを踏み消すと、階段を上がって行った。
俺は、その男を見ている振りをして、灯りがあるうちに、南京錠をしっかりと握った。
男がドアを閉めると、再び暗闇が訪れる。
俺は、力の限り、南京錠を引っ張って見たが、まったく外れる様子はない。やはり、ちゃちくても人間の力位で南京錠を外すのは、無理があるようだ。
小さなスパナが2本あれば、簡単に壊せるのに…
悔しくて、鉄格子を叩いてみても、自分の手が痛いだけだった。
しかし、ここから出るには、この南京錠を壊す事位しか思いつかない。
何か、手はないのか…
自分が持っている物、ここにある物…
ポケットを探って見るが、全て没収されているようで何も無い。
後は、便器…便器を壊してスパナに…
いや、無理がある。どう考えても、陶器のほうが、南京錠より弱いであろう…
駄目だ、寒さで頭が鈍っている…考えろ…考えろ…
そうだ、便器の上には、ファンが回っていた。
それを壊して、廃棄ダクトから外に出れるかもしれない。
それを、実行しようとした時、再びドアの開く音がした。
俺は、まずいと思って、便器から離れ、鉄格子のそばに来た。
今度は、男が二人で来ている。
『おまたせ』
さっきの男が、手錠を放り投げた。
『いつもの時間だ、さっさと手錠を掛けな』
いつもの時間?どうやら、俺は、定期的にここを出ている様だ。とりあえず、言われた通りに、自分に手錠を掛けた。すると男が、南京錠を開け、俺を外に連れ出した。
もう一人の男は、デブだった。
その男が、俺に、腰縄を掛け、反対側を自分に、止め、鍵をかけた。
これでは、2人の男をのしたとしても、デブを引きずって歩かなければならない。
ここでの脱出は無理そうだ。
連れられて歩いて行くと、いくつか並んでいる扉の一つに入った。
電気がついていないので、暗いことは暗いのだが、地下の暗闇程ではない。
大きなテーブルがあり、その後ろには、鉄パイプの手すりが付けられている。
デブは、俺を、テーブルの前に立たせると、俺に、繋がった腰縄を手すりに括り付けた。
テーブルの前には、壇上があり、高さは1M位だ。
その壇上にも、テーブルがあり、その奥には、ライトが設置されている。
男2人が、入念に俺の腰縄と手錠を確認すると、2人は部屋から出て行った。
ドアを閉められた部屋は、一段と暗くなる。
暗闇に目が慣れてきた頃に、奥のライトに明かりがついた。それは、スポットライトで、全て俺に向かって照らされている。
眩し過ぎて、目が開かないのだが、手錠に繋がれた手をかざし、目を細めて、壇上を見上げていると、奥の扉から、人が入って来た。
しかし、逆光が強すぎて、どんなヤツかも分からない。
『待たせたね、岸本さん』
どこかで聞いた男の声の様な気もする。
『誰だあんた』
『おいおい、昨日も一昨日も会っているじゃないですか。この場所でね』
俺は、言葉を選び、誤魔化すように話した。
『あぁ、また、あんたか。何せ、眩しすぎて何も見えないもんでね。ちょっと、ライトを抑えてくれないか?』
男は、俺の意見を無視したまま、テーブルの席へとついた。
『さぁ、昨日の続きだ。女から預かった物をどこに隠した?』
あの、鍵作戦では、うまく行かなかったのだろうか。
『約束通り、鍵は渡しただろう』
『また、それですか…』
『何が欲しいのか知らんが、あの鍵以外俺は知らん。早く、俺と晴子さんを開放しろ』
『フーム…それは困りましたな。あの鞄には、金以外の物が入っていたはず。その在処を教えてくれれば、すぐに二人共開放しますよ。もちろん、確認した後でね』
やはり、金だけじゃ無かったのか。だが、何が入っていたか分からない以上、適当な事は言えない。
『依頼人の希望でね。中は見るなと言われたから、それ以上の事は何も知らん』
ここからでは、男の表情がまったく見えない。
『ほう…あの状況で、犯罪に関わるかも知れない依頼をあなたが受けると?あなたは、中身を確認しているか、聞いているのか、どちらかだと思っていましたが…』
『知らんもんは知らん』
『困りましたね…あれは、あなたに壊された組織を復活させるために、必要な物なんですよ。分かりますか?我々が、どういう気持ちであなたを拘束しているか』
組織の復活…?あ、あの麻薬組織か。壊滅したんじゃ無かったのか?
『あの連中の生き残りか…せっかく逃れられたんだ。真っ当に生きようとは思わなかったのかよ』
『あの事件で、捕まった者、命を落とした者…上手く逃げ延びた者…色々いますが、残った我々は、この世界でしか生きられないんですよ。そして、このままの弱小組織では、周りに食い殺されてしまう…分かりますか?あなたは、我々の家族を死へと追い込んだ張本人なのです。本来なら、あなたの命で償って貰っても足りないくらいなんですよ。しかし我々は、殺人鬼ではありません。致し方なく、死へと追い込む事もありますが、本当はそんな事したくないんですよ。我々のボスも、無事、鞄の中身が帰って来て、あなたが我々の事に関わらないと約束さえしてくれれば、家族を殺された恨みは流すと言っているんです』
これはまずい…状況は、最悪だ。
俺に、強い恨みを持っていて、俺は、中身が何かも分からない。あぁ…やはり二重依頼など受けるべきではなかった…
『さて…なるべく穏便に済ませたかったのですが…これ以上隠し立てするのなら、手段は選びませんよ』
『いや、待て!本当に知らないんだ』
『私は、一週間も待ちました。ここらで忍耐の限界です』
ガチャ…扉が開き、デブがムチを持って現れた。
『この子の兄は、あの事件で死んでしまってね…』
『そ…それはお気の毒に…』
デブは、恨みを重ねて、ムチを振りかざした。
ビチッ!と言う音と共に、痛みが全身を駆け巡った。
ムチを打たれる経験は初めての事だが、一発でギャーっと言う悲鳴が漏れてしまった。
殴らる…叩かれる…切り裂かれる…この3つの痛みが同時に襲いかかって来るようだ。
『で、吐きますか?』
『吐こうにも、知らないと言っているだろう…』
『これは…残念ですが、今日も無駄に終わりそうですね』
男は、デブに頷いて見せると、デブも頷き、ムチを連打し始めた。何発喰らっても慣れる事はなく、俺が気絶するまで続けられた…
目を覚ますと、また、暗闇の地下牢に入れられていた。
ズボンを通り越し、血が付いているのが分かる。
痛みは、収まることなく続いていて、寒さが気にならない程だ。足ばかりを狙ったのか、すぐに立てる気もしない。これが明日も続くのか?
俺は、初めて恐怖に震えていた。
解決策が、思い付かない。適当に、誤魔化す事も出来ない。結局は、死ぬまで続く拷問なのか…
そう考えると、いっそ殺された方が楽なのかも知れないが、その時、晴子さんは、どうなるのだろう…
きっと、晴子さんもただでは済まない。
…諦めるな!まだ、こうやって、考える力が残っているじゃないか。
俺は、主人公、岸本篤史だ。何か手があるはずだ。ここから抜け出して、晴子さんを助け、悪の組織を壊滅させる…それが、主人公だろ、それが小説だろう!
そうやって、自身を奮い立たせて居ると、上の扉が開いた。
『早く降りろ!』
男に押されながら、誰かが降りてくる。
どうせ、上ではデブが待機しているのだろう。
男は、南京錠を外し、鍵を開けると、女を押し込んだ。
晴子さんだ。
『岸本さん、大丈夫?』
『晴子さん…無事なんだね』
『うん、私は特に何もされていないけど…一体何が、どうなっているの?』
『それは…痛っ』
『あっ酷い…それでこれを渡されたのか』
どうやら、晴子さんは、キズ薬や、痛み止めやら持たされた様だ。
『ちょっと、我慢してよ』
晴子さんは、俺のズボンを脱がすと、治療を始めた。
治療と言っても、塗り薬と、痛み止め位しかない。
晴子さんが、治療してくれている間に、俺は事の顛末を正直に話し、晴子さんに謝った。
『とにかく、ここを出なくちゃ。全部話しちゃいなよ。後のことは、戻ってから考えれば良いんだから』
『正直に話しても、信じて貰えるとは思えない…』
『じゃあ、どうするのよ』
『今、考えてる…』
付いて来た男が鉄格子をガンガンと叩く。
『おい!早くしろよ!』
『ちょっと、待ってよ。今、やってるんだから』
『おーおーお盛んだね~』
『馬鹿じゃないの!』
男は、晴子さんの髪の毛を掴み、牢から、引き摺り出した。
『おい!』
俺は、怒鳴ってみたが、余りにも無力だ。
『早くしろって言ったろ?もうタイムアップだ』
再び、牢獄の鍵が打たれ、晴子さんが連れ去られていく。
『無理しないで!とにかく、分かる事があったら、何でも喋っちゃって!』
晴子さんの声を最後に、また、暗闇に一人になった。
未だ、痛み止めの効果は感じないが、血は止まった様だ。相変わらず、光が見えない…
そもそも、本当に俺が知らない事を知ったら、俺達は、生きてここを出られるのか?
何の保証も無いじゃないか。
特に、俺には恨みしかないはずだ。
せめて、晴子さんだけでも、開放する手段はないのか?
考えている内に、少し寝ていたらしい。痛みがぶり返して、目が覚めた。
続けて薬を飲みたかったが、どうやら持って行ってしまったらしく、手に触れる物は何も無い。
そろそろ、飯でも運んでくるかと思ったが、飯が来たのは、それから、10時間は経ったであろう頃だった。
扉の音と、階段の音が聞こえる。
『飯が遅せぇぞ、コノヤロウ!』
『おーおー、まだ、元気だねぇ~』
男は、鉄格子の右下側から、食べ物を入れてきた。
よく見ると、右下部分は、横30cm、縦15cm位の開閉出来る扉がある。
この隙間から、何が出来るわけでもないが、新たなる発見だ。
今回の食事は、スパゲティらしい。
後、痛み止めが添えられていた。
『あ〜水忘れた』
俺は、スパゲティを貪りながら、男に早く持ってこい!
と、言ったが、気に障ったらしく、便所の水でも飲んでろ…と、言われてしまった。
持っていたフォークを突き刺してやりたいが無理だろう。紙皿と、プラスチックのフォークでは。
『水がないと、薬が飲めないだろう』
『便所の水が嫌なら、スパゲティと一緒に飲み込んじゃえよ』
俺は、痛みを我慢できず、スパゲティと一緒に薬を飲み込んだ。
『まったく…お前みたいなやつに痛み止めをくれるなんて…ボスの優しさは、五臓六腑に染み渡るでぇ〜』
男は、ニヤッとした顔付きで、どこかで聞いたような台詞を吐いたが、まったく、面白くもない。
あれ?と、不思議そうな顔をして、また後で迎えに来るからなと、バツが悪いような顔をして、階段を上がって行った。
迎えに来ると言う事は、また、あの時間が繰り返される事だ。
下手に、真実を話せば、俺達は用済みとして、消されるかも知れない。
かと言って、あの痛みに耐え続ける自信もない。
どうすれば…頭を抱えて居ても、解決策を見つけることは出来なかった。
その内に、扉の開く音がした。階段を降りてくる音が、恐怖を増していく。
『ほら、行くぞ』
投げ渡された手錠を掛けて、覚悟を決める。
デブは、既に、ムチを持っていた。
そのムチが、昨日の恐怖を思い出させ、震えていたかも知れない。
俺は、恐怖を悟られないように、晴子さんの無事だけを考えて、歩いていた。
昨日と同じ部屋に着くと、腰縄を鉄柵に括り付けられた。
今日のデブは、部屋から出ず、扉を閉める。
真っ暗になった部屋に、ライトが照らされるまでの時間が、長く感じる。
同じ部屋にいるデブの殺気が伝わって来て、今にもムチを振るわれそうだ。
しばらくして、スポットライトが照らされた。
俺は、眩しくて、目を細めたが、その瞬間、デブは真横にいて、ムチを高々と上げている。
『これ、待ちなさい』
デブの行動を、昨日の男が制してくれた。
デブは、鼻息荒く、ムチを下ろして、部屋の隅へと歩いていく。
『すいませんね、岸本さん』
『あぁ、気にするな』
精一杯の強がりだった。
『岸本さん…あなたも悪いのですよ、早く喋ってくれれば、あなたも、女性も解放されるのに』
昨日までは、知らぬ存ぜぬで通してきたが、今日からは、どうすれば良いのか、考えがまとまっていない。
ここは、やはり、真実を話すしかないのか。
中身は何か知らないが、鍵は海の底だと…
『本当の事を話して、帰れる保証があるのか?』
男の表情は、逆光でまったく見えないが、こんな奴らが、秘密を知っている人間を、無条件に解放するなど、あり得るだろうか。
『そこは、私共のボスを信じて貰うしかないですね。昨日も言いましたが、私共は、殺人集団ではないんですよ。だから、岸本さんがこのまま話さなくても、殺してしまうような事はしません。解放もしませんがね』
『じゃ、俺は生涯あの地下牢で過ごすことになると?』
『そうならない事を祈りますがね。もちろん、地下牢暮らしで、命を、落とすなら、仕方ありません』
『じゃあ、あの京香って女はどういう事だ?お前達がやったんだろ?』
男のシルエットは、首を振りつつ、手でジェスチャーしているようだ。
『ニュースを見なかったのですか?あれは、事故です
私共から逃げようとした彼女の車のブレーキが壊れていたのでしょう。彼女も、逃げようとしなければ、あんな、ブレーキの壊れた車に乗ることも無かったでしょう…残念な事です』
『ブレーキに細工したのが、お前達だとしても…か』
『さて、昨日の続きをしますか?それとも、話してくれますか?』
これは、どちらを選んでも、地獄のようだ。
ならば、仕方ないか。
『晴子さんを解放したら、鍵の在処を話そうじゃないか。俺がいる限り、人質は必要ないだろう』
男は、少し考えている様だったが、間を置いて話しだした。
『女を解放して、警察に駆け込まれると、こちらとしても困りますねぇ。それからあなた。ちょっと生意気な気がしませんか?取引が出来る立場にあるとでも?』
男が指をパチッと鳴らすと、飯を運んでくるガリガリな男とデブが俺の側に近寄ってきた。
俺は、また、ムチで叩かれると思い、歯を食いしばった。
すると、2人は俺の着ている服を、上下とも切り裂き出した。
『お、おい!なにするんだ!』
俺は、抵抗を試みたが、繋がれている以上、抵抗は虚しいもので、あっと言う間に裸にされた。
『まずは、立場をはっきりとさせましょう。あなたは今日、肉体的拷問を覚悟して来たのでしょ。しかし、やり過ぎて、死んでしまっては意味がないのでね』
今度は、男達が、俺の足や体に何やら貼っつけている。その先には、コードが付いているようだ。
『さて、少し痛いかも知れませんが、死ぬことはありません』
次の瞬間、体中に電流が走った。文字通り電流だ。
『うっがっが!』
言葉が出ない。時間にして、3秒位だったが、痛烈に体に刻まれた。
『どうですか?自分の立場が、理解出来ましたか?』
そう言って、また、3秒ほど、電流を流された。
テレビで見る、スタンガンを打たれるよりは、まだ、弱い電流みたいだ。
体が動かなくなる事はない。
『これは、精神的な罰に丁度良いのですよ。肉体を害す程ではないにしろ、痛みを感じる電流ですからね』
『クッ…お…お陰で肩こりが良くなった様だ』
なんで、そんな事を言ってしまったのだろう。
思わず口から出てしまった。
その言葉を聞いた男は、今度は10秒位を、3回に分けて流した。
さすがに、立っているのも辛くなり、その場にしゃがみ込むと、気絶するのを我慢するのに必死だった。
男は、そんな俺を見て、話をするのが無理だと判断したのか、俺はそのまま、地下牢に引き摺られて行った。
地下牢に裸のまま転がされ、どうすれば良いか、考える事も出来なかった。
寒い…やはり、服とは大切な物だ。幾ら薄くても、体感温度が桁違いに凄い。
その後は、晴子さんが来ることもなく、2日程放置された。寒いのと、腹が減っている事で、考える事が出来ない…俺は、便所の水を流せばきれいな水が出てくると、言い聞かせ、水だけで過ごしていた。
扉の開く音がする。
少しの光が差し、ガリガリの男が降りてきた。
『おはようさん、良く眠れたかい?』
どうやら、今は、朝のようだ。
時間の感覚も無くなってしまった。
俺は、寒さに耐え、無言でいると、ガリガリの男は喋りだした。
『俺は、あまり、眠れてねぇ~んだよ。ここに来るのが、嫌で嫌で仕方なくてな。今回こそ頼むぜ』
そう言って、ガリガリの男は、手錠を投げ入れた。
『その前に、着るものと、飯をくれ…』
俺は、絞り出すような声で、情けなく懇願していた。
『上の奴に、頼んでみろよ。俺は、何も持たされてないからな。早く、手錠を掛けな』
俺は、言われるがまま、手錠を掛けるしか無かった。
手錠を掛けると、いつもの様に、デブが降りてきて、腰縄をされた。俺の足は、中々前に進まないが、引き摺られる様に、部屋の前につく。
腰縄を鉄柵に括り付けるデブは、ムチを持っていない。
少し安堵する自分を思いつつも、電流なのか、または違うものが待っているのかを考えるほうが怖かった。
スポットライトが照らされ、光の向こうに、いつもの男が立っている。
『おはようございます、岸本さん』
『着るものと、飯をくれないか?』
男は、ため息混じりに、俺に、言った。
『私は、おはようございますと言ったんですよ、聞こえませんでしたか?』
『……おはようございます』
『よろしい。挨拶されたら、挨拶するのが常識ですからね。それで、この前の話を考えてみたのですが…女を解放しましょう。もちろん、警察に駆け込まない事を条件に』
ここに来て、初めて意見が通った。
『ほ、本当か?』
『ええ、もちろん。だが、それをどう証明しますかねぇ』
それは、考えていた。
『彼女を、事務所の前に連れて行き、その動画を見せて、電話を掛けさせてくれ』
男は、しばらく考えた後、晴子さんを連れてくるように二人に命じた。
間もなくして、手錠に繋がれた晴子さんが入って来た。
彼女は、真っ裸でボロボロの俺を見て、2人の男に文句を言った後、俺に、早く話してしまって、こいつらの要求を飲んで!と、叫んだ。
男は、晴子さんに、あなたは解放します。
事務所に着いたら、この紙に書いてある番号に電話して下さい。あなたの行動に、岸本さんの命が掛かって居ることをお忘れなく。
晴子さんは、俺を見ている感じがした。
それを見て、俺は小さく頷いた。
それでは失礼と、男は晴子さんの口を何かで塞いだ。
『何をしてる!』
『少し、寝ていてもらうだけですよ。目が覚めたら、岸本さんの事務所の前です』
晴子さんの体が、ガクッと落ちると、ガリガリの男は、晴子さんを担いで、部屋を出て行った。
『さて、結果が、分かるまで、しばらくかかります。何をしていましょうか…』
俺が、黙ったままでいると、男は特に何もせず、じっとこちらを見つめている様だった。
『何か、着るものと食べ物をくれ』
俺の方から沈黙を破ると、『くれませんか…でしょ』
と、返してきた。
『着るものと、食べる物をくれませんか…』
『私は、あなたの要求に答えて、彼女を解放しました。あなたは何もしていないのに、要求が二つ…何だか、不公平な気がしませんか?』
そもそも、こんな状態を作り出しているのは、お前のほうじゃないか!と、言いたかったが我慢した。
『仕方ない…どちらか一つだけ、願いを叶えましょう』
どちらか一つだけ…どちらもないと、死んでしまいそうなのだが、俺は、食べ物を選択した。
『よろしい』
男は、デブに食事を運んでくるように命じた。
しばらくして、俺の目の前に、3つのオニギリと味噌汁が出された。
味噌汁がアツアツで、湯気が立っている…ありがたい。
手錠で繋がれてはいたが、俺はオニギリを貪り、味噌汁を飲んだ。上手い…ここに来て、一番のごちそうかも知れない。
本気でそう思っている間も、男はじっと俺を見ていた。
『どうです?美味しいですか?』
『あぁ、とても美味い』
『どこにでもある、オニギリと、味噌汁なんですけどね』
この男が何と言っているかなんて、気にもしなかった。
今はただ、眼の前の幸せを噛みしめるだけだった。
全て食べ終わると、今度はお茶が出てきた。これも、なんてことはない市販のお茶だ…
それでも…生き返った。そんな気がしていた。
俺は、満足感から、一息ついた。
『さて、そろそろですかね』
男は、タブレットを取り出し、デブに持たせ、俺の前に立て掛けた。
そこには、リアルタイムと思われる動画が流されていて、晴子さんが、事務所のドアで寝ている姿だった。
しばらく見ていると、ハッと目を覚まし、慌てて事務所に入って行った。
それから、電話が掛かって来るまで、ほんの数秒だった。
『岸本さん?私、解放されたの?』
『晴子さん、何ともないのか?』
『私は大丈夫。岸本さんも、解放されたの?』
『いや、俺はまだだが、心配はいらない』
『とにかく、そいつ等の言う事を聞いて、早く戻って来て』
そこまで話すと、デブは電話とタブレットを取り上げた。
『さて、私は誠意を見せました。今度は、岸本さんの番です』
俺は、事の顛末を、正直に話すより他に無かった。
『鍵は、海の中だ…もう、流されているかも知れないが、一万円札が括り付けられている…』
負けた気分だった…そして、これで奴らが納得するのかも怪しかった…
俺は、男の方を見て、本当なんだ、信じてくれ!と、叫んだ。男は、相変わらず、俺を、じっと見ている。
『分かりました。信じます。と、言うよりも、知っていました。もう、鞄はこちらで回収してあります』
訳が分からなかった。では、何故こんな事を。
『何だそりゃ、俺への復讐か?』
『復讐…確かにソレもありましたがね。あなたの口の固さを知りたかったので…』
『そんな事を知ってどうなる。そんな事の為に、晴子さんを巻き込んだのか!』
俺は、何のために頑張って来たのだろう。全ては、この男の手のひらの出来事だった。
悔しくて、怒りが込み上げてきた。
『悔しい気持ちも分かりますが…あなたはまだ、囚われの身で、言葉遣いも生意気になってますよ』
『くっ…』
俺は、気持ちを落ち着け、声のトーンを落とした。
『本当の目的は何だ…』
相変わらず、男の顔は見えない。
ただ、光の向こうに、シルエットがあるだけだ。
『ふん…では、本題に入りましょう。我々は、あなたのお陰で、人手不足なんですよ。率直に言います。我々の仲間になりませんか?』
意味がわからない。つい今まで、拷問をかけ、脅していた人間を仲間に誘う?
何か、ヤバイ仕事を俺にさせる気なのか?
『俺に、断る選択肢は残っているのかね』
『…ありませんね。あなたがこのまま、ここで暮らしたいのなら別ですが…』
俺は、しばらく、黙ったままでいたが、考えても仕方ない。最低目標の晴子さん奪還は済んだ。
後は俺が…俺が?
どう考えても不自然だ。仲間にする奴を拷問するだろうか。俺が、外に出てから、警察にでも駆け込んだら、どうするんだ?
謎は深まるばかり…
『俺に、何をさせる気だ?』
率直に聞いてみた。本当の事を言うか分からないが、聞かずにはいられなかった。
『岸本さんが何かをする訳じゃないですよ。それは、下っ端の仕事です。あなたには、統率者になってもらいます』
『統率者?』
『どんな仕事でも言える事ですが、下っ端の仕事は、金さえ出せば、人は集まるんですよ。しかし、リーダー格となると、中々見つからないものです』
言っている事は分かるが、何故俺なんだ。
俺の考えを見通しているかの様に、男は話を続けた。
『第一に、あなたはボスに気に入られている。第二に、忍耐力もある。第三に、あなたは警察からの信頼もある。それが理由です』
忍耐力は、テストされたのか…警察の信頼とは、このグループを潰した事だろう…しかし、ボスに気に入られているとは…俺はどこかで会った事があるのか?
『また、地下牢で、考えますか?』
『いや、ちょっと待て』
俺が返事をするより先に、デブが、俺の腰縄を引いて、地下牢へと歩き出した。
『良い返事を待ってますよ』
また、地下牢に戻された。デブは、恨みが深いのか、俺への扱いが、乱暴だ。
空腹は免れたが、また、寒さとの戦いが始まろうとしていた。
…寒い…考える時間をくれていると解釈すれば、良いのだろうか?しかし、寒いが先行して、考えがまとまらない。
このまま、ここにいれば、時間の問題で俺は、死ぬだろう…夢の中の俺は、英雄になれたのか?それとも、現実世界と同じ様に、人知れず死んで行くのか……
そ、そうか!
夢から、覚めれば良いのだ!
あぁ…何でこんな事に気付かなかったのだろう。
夢から覚めれば、温かいご飯を食べて、温かい布団で寝れる。
小説のラスト、主人公は、悪の誘惑に負けず、勇敢に戦い、ここで命を落とした事にすれば良い。
そうだ…そうすれば、全て上手くいく。
そう思いながら、寝ようと努力したのだが、寒くて寝れやしない。
それでも、いつの間にか数時間は寝ていたらしく、ガリガリの男によって目覚めさせられた。
『おい!起きろ!』
どうやら、眠りは深かったようで、中々起きなかったらしい。ガリガリの男は、牢内まで入って来て、ビンタで起こしていた。
『あれ?何でお前がまだ居る?』
ガリガリの男は不思議そうな顔をしていた。
『おいおいおい、ついにおかしくなっちまったのか?ほれ、いつもの時間だそ、早く出やがれ』
いつの間にか、手錠も掛けられていて、牢の外には、デブも待機している。
『ち、ちょっと待て、俺は…今日は体調が悪いんだ。明日にしてくれないか』
精一杯の時間稼ぎだが、全く意味はなかった。
ガリガリの男は、俺に腰縄を付け、デブに引っ張るように命じる。
『わ、分かった、今出るから、そんなに引っ張らないでくれ』
無理やり出されたが、フラフラして、体調の悪さをアピールしてみた。
『なぁ、今日は勘弁してもらうように、頼んでくれないか?体が、鉛のように重いんだ…』
『お前の体調など、知ったことじゃねぇよ。俺は、ボスの命令に従うだけだ』
後で目を光らせているデブに、威圧される様に、スゴスゴと歩くしかなかった…
上手く行かなかった…何故、目覚めなかったのだろう…
何かが足りないのか?
…そ、そうか!思いの強いものか!
『なぁ、俺の持ち物はどうなっている?』
『…そんな事聞いてどうすんだい』
『どうなっているのか、気になっているだけだよ』
『…全部、取ってあるぜ、破いた洋服以外はな』
『そ、その中に、これくらいのノートが入ってなかったか?』
『うるせぇな~いちいち覚えてねぇよ、それより、早く歩け』
2人は少し足を早めるように、あの部屋へと俺を押しこんだ。
部屋に入ると、いつも通り、腰縄は鉄柵に繋がれ、暗い部屋で、待たされた。
そして、スポットライトが一斉に照らされる。
そこには、いつから居たのか、既に男が座っていた。
『おはようございます、岸本さん。昨日は、良く眠れたようで』
『そ、そんなに寝てはいない…少しウトウトした程度だ』
男は、指を鳴らした。するとデブが入って来て、俺にペタペタ貼り付け始めた。
あの、電流が流れるやつだ。
『おい、何でこんなの貼るんだよ。俺は、何の返事もしていないじゃないか!』
一通り貼り付け終えると、デブは、部屋から出て行き、男が話しだした。
『おはようございます、岸本さん。昨日は、良く眠れたようで』
『…それは、さっき答えただろ。それよりも、この電流を…』
言い終わるより先に、電流が流された。
この痛みを、体が覚えている。痺れるではなく、痛い。
一定の感覚で、貼り付けた場所から、あちらに、こちらにと電流が流れてくる。
体中にではない。バチッバチッと、足、次は手、次は胸と言った具合にだ。
『ぐぐぁ!ギッ!と…止めて…』
スイッチが切られたようで、電流は止まった。
俺の、呼吸は荒くなっている。
『おはようございます、岸本さん。昨日は良く眠れたようで』
何なんだ…何故同じ言葉を繰り返す…
『ハァ…ハァ…』
『まだ、足りませんか?』
『い、いや、十分だ』
『では、おはようございます岸本さん、昨日は良く眠れたようで』
『……おはようございます』
『そう、それで良いのですよ。最近の人は、挨拶をおろそかにしがちでね…ボスはそーゆーのが嫌いでね』
それなら、先に言って欲しい…無駄に痛い思いをしたじゃないか。
『それで…考えはまとまりましたか?』
どう答えよう。
ここで、ヒーローでいる必要は無いな。
『もちろん、話に乗せてもらうよ。もう、痛い思いはしたくないしな』
男は、じっと俺を見ていた…
『な、何だ?誘いに乗ると言っているのに、不服なのか?』
男は、しばらく俺を見ていた
それに対し、俺は、余計な事を喋ると、電流を流されるかと思い、黙ったままでいた。
『相手の嘘を見抜く力が、あなたの専売特許とでも思っていますか?』
ドキッとした。この男、俺と同じ能力を持っている
『別に、嘘何かついてないぜ』
『…そのようですが、何か隠されている様な…ま、良いでしょう。信じます』
やばかった。この男、俺と同じ能力の格上だ。
果たして、どれくらい上なのか
『ちょっと、聞いても良いかな。何故俺がそんな能力を持っていると?買いかぶりかも知れないぜ』
『…あなたは見てわからないのですか?』
これ以上話すのはまずい…全て見透かされそうだ…
『では、これから試験を受けて頂きます』
『試験?終わったんじゃないのか?』
『最終試験です。なに、簡単な事なので、そう身構えずに…』
男が指を鳴らすと、デブが、入って来た。
今回は、ムチではなく、蠟燭を持って入って来た。
男が座るテーブルには、蠟燭立てが用意されていて、持って来た四本の蠟燭に、火が灯された。
『さて、問題と言うのはこれです。余りにも簡単な問題なので、間違えたら電流を流します』
また、電流…
『岸本さん、あなたの目の前には、何本の蠟燭が立っていますか?』
え?それが問題?
『さて、お答えを』
何だ?引っ掛け問題なのか?
しかし、間違うと電流…俺の前に、あの4本の蠟燭以外、蠟燭があるのか…?
『さぁ、お答えを!』
『…よ、四本だ』
次の瞬間、電流が3秒だけ流された!
『ぐぐぁ~痛い!』
『良く見て下さい。蠟燭は、5本立っていませんか?』
しかし、テーブルの上には、4本の蠟燭しか見えない。
逆光で、見えないだけなのか?
『い、いや…4本にしか見えない…』
すると、また、電流が流された。しかも、今度はもっと長く。もう、痛すぎで声も出ない。蠟燭を探しているどころの話じゃない。
『残念です…また、明日ですね』
との言葉と同時に、電流が切られた。
また、明日…明日もこんな思いを…もう沢山だ。
『ち、ちょっと待て…俺はこういった引っ掛け問題みたいなものは苦手…』
男は、ため息混じりに、スイッチを入れた。
今度は、俺が気絶するまで、スイッチを切られる事はなかった。
目が覚めると、また、地下牢に入れられていた。
『あ〜!!』
俺は叫んだ。
何故蠟燭は4本じゃないんだ!
何故夢から覚めない!
絶望感が襲ってきた。本当は、仲間にする気などなく、ただ、拷問を続けているんじゃないか…
では、目が覚めるまで、こんな事が続いて行くのか。
頼む…誰でも良い…俺を…俺を起こしてくれ…
扉が開き、ガリガリの男が降りてくる。
『おい!飯だ』
男は、小口から、カレーライスを突っ込んだ。
カレーライスを見ると、少しグレードアップしている。
肉が入っているし、陶器の皿に、鉄のスプーン。
俺は、カレーライスを手に取り、がっついた。
『お前…長すぎるわ』
ガリガリの男は、ポケットの中の物を取り出し、テーブルに置いて、椅子に腰掛け、足をテーブルに伸ばした。
『良い根性だけどよ、もう、いいだろ…お前…死ぬぜ』
もう、とっくに、白旗を上げている。それでも、許されないのだ。
『そ、そうは言っても、理不尽な問題を突き付けられるだけで…』
ガリガリの男は、テーブルから足を下ろし、こちらに近づいてくる。そして、牢越しにしゃがみ込むと、俺に、話しかけてきた。
『あのなぁ~、うちのボスは優しい方だと思うが、それでも、殺るときゃ殺るぜ』
『しかし…問題が解けないんだ』
『問題ねぇ~俺達の世界に、クイズみたいなものはねぇよ。あるのは、忠誠心だけだ。ボスやリーダーの言う事は絶対…それだけだよ』
『何だそれ…どんな事でも、絶対なのか?』
『あぁ、仮に今いる中で、リーダーがボスを殺してこいって言われりゃ、それをしにいく。それだけだ』
『ボスを殺す!?それは、命令以上の物じゃないか』
『そうかもな~でも、仮にそれが失敗して、リーダーが許されたら、俺は、リーダーに殺される…リーダーが許されたら、その命令を聞いたものとして、昇進する。この世界のルールだよ。ま、ボスの暗殺を企む者はそういないがね。大体、ボスの顔を知っている者も少ないし、ボスは、良い人だからな…』
『この世界に良い人ねぇ~』
『ま、それがヒントだな』
ヒント?こいつは、問題のヒントを教えてくれているのか?
そんな話をしていると、階段から人が転がり落ちて来て、ガンッと、テーブルにぶつかった。
『おい、新入りだ。そいつも牢に入れとけって』
上から、デブの声がする。
『おい!あぶねーな!もっと、丁寧に扱えよ』
そう言いながらも、ガリガリの男は、面倒くさそうに牢を開け、落ちて来た人をぶちこみ鍵を掛けた。
『痛ったたた…』
聞き覚えのある声だ。
『あっ!岸本さん!探しましたよ!』
それは、牧師さんだった!
~下巻に続く~