17 転生の記憶
冬一歩手前の十一月末。連日秋らしい快晴だったが、その日は薄曇りで吹く風も冷たく感じた。託児所に勤める高科亜美は、同僚と共に十一人の子供を連れて、日課となっている散歩に出ていた。
亜美は「お散歩バギー」を押している。バギーには四人の乳児が乗っていた。風邪をひかないよう、皆もこもこと着膨れしているのが可愛らしい。四人のうち二人は男の子の双子で、外国人と間違うような明るい茶色の髪と白い肌をしていた。この二人は亜美のお気に入りの子達であった。
二十七歳で独身の亜美は、いつか自分もこんな可愛い子を持てたらな、と思っていた。大学時代はお付き合いした男性が何人か居た。卒業後もしばらく付き合った人も居る。お互い慣れない仕事で忙しく、休日も合わなくてすれ違っているうちに付き合いを解消した。それ以来独り身である。クリスマスが近くなると人恋しくなるが、恋人を見つける為の行動を何もしないうちにいつの間にか年が明けている。近年はずっとそんな調子だった。
車道と歩道に分けられた道は、目的地の公園の手前で区別が無くなる。分厚いレンズの嵌った眼鏡を慣れた手つきでクイッと上げ、バギーの取っ手を握り直した。信号を渡った先は歩道がなくなるから、より気を付けなければ――。
その時、体の右側に悪寒を感じた。視界の端に、猛スピードで迫るトラックが見えた気がする。亜美はバギーを突き飛ばすように力一杯押した。そしてやって来る恐ろしい衝撃。亜美にとって幸いなことに、衝撃は一瞬ですぐに意識が暗転したのだった。
次に亜美が覚醒したのは、真っ暗なのに何故か遥か遠くまで見えるという不思議な空間だった。目の前に金色の柔らかい光を放つ球体がふわふわ浮いている。
いや、これは見えていると言って良いのだろうか? ただその存在を光として知覚していると言った方が正しいかも知れない。自分の体を見下ろしても体が見えない。手を上げようとしても手の感覚がない。
『貴女の肉体は機能を停止しました』
球体から話し掛けられて、亜美はびくっとした、気がする。
『貴女は私の愛し子達を守ってくれました。感謝します』
ああ、あの子達は無事だったのだろうか。
『貴女のお陰で無事です。感謝の印として貴女は選択する事が出来ます』
選択?
『このまま意識や記憶を消失し、輪廻の輪に加わって新たな生を得るか、意識と記憶を保ったまま転生するかです』
転生……本当にそんな事があるんだ。つまり私は死んだって事か。普通に生まれ変わるか、ラノベやアニメで見たように前世の記憶を持って転生するかって事かな?
『私としては、様々な能力を付与出来る転生をお勧めします。感謝の気持ちを表したいので』
それでも選択肢を与えてくれるって優しいんですね。では転生してみたいです。
『転生ですね。良い選択です。何か欲しい能力がありますか? 単なる願いでも構いません』
能力……願い……ああ、私、小学校四年生から目が悪くて、体質的にコンタクトが合わなくてずっと眼鏡だったんです。だから、目を良くして欲しいです!
『良い目ですね。はい、問題ありません。他にありますか?』
えーと……あっ、私ずっとワンルームマンション暮らしで、家族で住んでる時もマンションで、おっきいわんちゃんに憧れてたんです!
『大きなわんちゃんですね。はい、大丈夫ですよ。他にないですか?』
……(大盤振る舞いかな?)私が転生するのはどんな世界でしょうか? 魔法があって、魔物がいるような世界ですか?
『そうですね、地球で言うと中世くらいの文化レベルで、魔法があり魔物もいます』
それなら、最低限自分の身を守れる能力はいただけますか?
『それは最初から与えておきます。そうですね……あとは良い目を十分活かせるように魔力も多めに与えましょう』
? 良く分からないけどありがとうございます。あっ、もう一ついいでしょうか。前の人間関係を忘れたいので、人に関する記憶を思い出さないようにって出来ますか?
『直接関わりの有った人の記憶だけ封じましょう。歴史上の人物など一般的な記憶と区別しておきます』
ありがとうございます。
『貴女が転生する世界には魔物とは別の脅威があります。いずれその脅威を打ち払う者を送るつもりですが、貴女が生きている間にその者と出会ったら、是非とも手助けしてあげてください』
魔物と別の脅威……? 別に、私がそれを倒しても構わないんでしょう?
『ええ、構いませんよ。でも無理はしないように。それでは貴女を転生させます……貴女の新たな生に幸多からん事を』
うう、最後に中二っぽい事を言ってしまった気がする……。それを最後に亜美の意識は闇に沈んだ。
「うぅ……」
「リリ!? 大丈夫か?」
目を開けると、自分を覗き込むマリエルの顔が直ぐ傍にあった。その目は赤く潤んでいる。リリは手を着いて体を起こした。隣にはアルゴも心配そうな顔で佇んでいた。
「マリエル、ごめん。何か急に気分が悪くなったみたい。貧血かな」
「ヒンケツ? なんや分からんけど、とにかく大丈夫なんやな?」
「うん。もう大丈夫」
リリは馬車の中で立ち上がって座り直した。太腿にアルゴが頭を乗せてくるので、わしゃわしゃと撫でた。
「アルゴも心配掛けてごめんね。私、どれくらい倒れてた?」
「ああ、十秒か二十秒か……そんな長い時間やなかったで」
「そっかぁ」
「ほんまに大丈夫なんやな?」
「うん、大丈夫だよ」
この世界に生まれて、リリは「眼鏡」の存在を忘れていた。周りで眼鏡を掛けている人は一人も居なかった。目が悪い人は居たかも知れないが、恐らく眼鏡というのは高級品なのだ。存在を忘れていたが、先程マリエルが口にした「眼鏡」という言葉が記憶を呼び起こしたのだろう。
前世、リリが「高科亜美」だった頃、重度の近視で眼鏡が手放せなかった。コンタクトは目が乾いてしまい着けられなかった。眼鏡はわずらわしい上にコンプレックスでもあって、転生の時に願ったのだ。目を良くして欲しい、と。確かにリリの視力には問題がない。ただ色付きの靄が見えるだけだ。今ではそれにも慣れてしまい、意識しないと気にならないくらいなので問題ないと言えるだろう。
あの金色の光、恐らくは神のような存在だと思うが、約束通りアルゴとも会わせてくれた。そう考えると、アルゴはやはり神が遣わせてくれた存在なのだろう。そこでふと考えてしまう。もっと別の願いを言うべきだったのではないか。例えば、家族が絶対に寿命以外で死なないようにして欲しい、とか。そうすればお父さんは助かったのではないか。
だが、あの状況でダドリーが助かっていれば、ジェイクやクライブ、アルガンにアネッサ、それにマルデラの住民の多くが犠牲になっていたかも知れない。家族が助かっても、他の大切な人々が皆死んだかも知れない。
そう。だからこれは考えても仕方のない事なのだ。どれだけ考えても、どれだけ悔やんでも、父が帰って来る訳ではない。
膝の上でぎゅっと握った拳を、アルゴがぺろりと舐めた。そこで難しい顔をして考え込んでいた自分を、マリエルが心配そうな顔で見つめている事にようやく気付いた。
「リリ? 悩みがあったら何でも聞くで?」
「うん、ほんとに大丈夫だよ。ありがとう、マリエル」
「わふっ」
「アルゴもありがとう」
自分には支えてくれる人が沢山居る。それを忘れてはならない。過去を変える事は出来ないのだ。それならばお父さんが誇れるような自分でありたい。リリは考え事を振り払い、いつもの明るい笑顔を浮かべるのだった。
神に授けられたのが、ただ視力が良いだけの目でない事をリリが知るのは約三年後になる。
リリにとっては綺麗でカラフルな町マクスベイドを発って三日後。シェルタッド王国とスナイデル公国の国境に到着した。前に国境を通った時や、他の町に入る時と同じく、護衛の冒険者達は冒険者証を、ガブリエルとマリエルは商工ギルドの会員証を、リリは冒険者証と従魔登録証明書を、それぞれ国境警備兵に提示する。最初は緊張したリリだが、何度も行っているのでだいぶ慣れた。
国境は大河だった。馬車が四台は横に並べる大きな橋が掛けられており、それを通ってスナイデル公国に入国した。
「この河はベイリュー河。北に向かって流れて、最後は海に辿り着くねんで」
「海かぁ!」
「リリは見た事ある?」
「んー、ない」
「これから冬やし、そないゆっくり出来んから今回は残念やけど、また春か夏に案内したる!」
「うん! 楽しみ!」
スナイデル公国は北側が海に面し、開発された港とそれに付随する街がある。ダルトン商会とマリエルの家がある公国の首都ファンデルからは馬車で北に三日程の距離らしい。冬は極寒の地なのでお勧めしないそうだ。リリも寒いのは苦手なので遠慮したい。
「けど、これからの時期、海の魚は旨いでー!」
「おお!」
ガブリエルが横から告げ、リリはその言葉に目を輝かせた。アルゴも尻尾をブンブン振っている。
ベイリュー河を渡り切り、整備された街道を進む。公国の政策で、百年近く掛けて主要な街道は全て石畳に整備されたそうだ。石畳と言っても平らに切り出されているので段差が無く、石と石の隙間はコンクリートのような素材で埋められている。これにより物流の速度が上がり、結果的に国内経済が発展したそうだ。
「なるほどー。凄く合理的ですね」
「これも、国を興した『ウジャトの目』の聖女様が先を見越して進めさせたらしいで」
「ほんとに未来が見えてたんですね」
「いや、それは眉唾やろと思てる。色んな情報を集めて推論した結果やないかな」
ガブリエルは商人らしい現実主義であった。リリとしては、魔法のある世界なんだから、未来が見える能力だってあるかも知れないと思う。ただ、未来が見えるから幸せかと問われれば首を傾げるが。
そうやって一日進むと、商人や旅人の為に整備された野営地に着いた。ここもこれまでと違い、簡易的ではあるが柵に囲まれてある程度の安全が確保されている。井戸が掘られ、トイレも男女別で設けられている。その上、なんと男女別の風呂まであった。
「この風呂、温泉なんやで!」
「温泉!? 入りたい!」
懐かしいような硫黄の匂いがしていたのでもしかしたらと思ったが、やはり温泉らしい。元日本人としてこれは外せない。
「はっはっは。リリちゃんも女の子やなぁ、温泉好きなんて」
「だって温泉ですよ!? 初めてです!」
シェルタッド王国最後の町マクスベイドを発って四日。リリの浄化魔法で清潔さは保っているが、お風呂は別物。しかもそれが温泉と来れば、テンションが上がらない方がおかしいというものだ。何度もここで野営をしている、リリ以外の面子はその様子に苦笑いである。
「リリちゃん、温泉の前に保存食料理を教えてもらっていいかい?」
「あっ……そうですね。保存食も久しぶりですもんね」
「カクタスの鎧」の剣士、二十七歳になる男性のカトラス・ウィールが、十一歳のリリに料理を教わる図は傍から見ると娘に料理を教わる父親のようだ。
「カトラス、しっかり覚えてくれよ」
「次から期待してますよ!」
リーダーのジャネット・サマール、斥候のビルデアン・サートリーが外野からカトラスを茶化す。
「リリちゃん、何か手伝う?」
「私も手伝います」
手伝いを申し出てくれたのは、瘴魔祓い士で魔術師のウル・ハートリッチと、同じく魔術師のフリッカ・トルネアスだ。他のメンバーは天幕を張ったり、井戸から水を汲んだり、馬の世話をしている。
「じゃあこれ切ってもらっていいですか?」
「リリちゃん、それは止めておこう。大丈夫、俺がやるから」
カトラスがそう言ってウルとフリッカを追い払った。ジャガイモと玉ねぎを切るだけなのだが、カトラスが受け入れ難い何かが過去にあったのかも知れない。
干し肉は塩が効き過ぎているので、塊のまま一度湯通しする。お湯を捨て、一口大に切り分けて再び沸かした湯に投入。玉ねぎとジャガイモも投入する。塩胡椒、ウコン、ターメリック、コリアンダー、ニンニクを加えて煮込む。簡単なスープカレーだ。味見して、思った通りの味になったのでリリは満足気に頷いた。
それを食した一同が驚きの声を上げ、ガブリエルにレシピを売ってくれとまた言われた。片付けを済ませたら、いよいよ温泉である。