15 アルゴが一番過保護だった
天幕をそっと出たアルゴは、見張り役に見咎められる事無く北に向かって走り出した。まだ距離は離れているが、そこに強い魔物の気配を感じた。放っておくとリリが危ない目に遭うかも知れない。危険な芽は摘み取っておくに限る。
実は、こうやって夜中にアルゴが出撃するのは旅に出て三度目である。最初はマルデラを出て最初の夜。次は昨夜。そして今晩。
最初の夜は、野営地から十キロ以上離れた森の奥、ダンジョンの近くに巨大な猿の魔物が出現した。体長十メートルを超え、黒い体毛は鋼の剣を通さない。爪先から毒を出し、普通の猿以上に素早く動くポイズンエイプという魔物である。森の中を一分ほど疾走したアルゴの風魔法によって瞬殺された。
昨夜は野営地の南八キロ地点。同じく深い森の中でアシッドスライムの変異種が現れた。直径十五メートルにまで育ち、体内の核を破壊しなければ倒せない。ここまで育つと人間の攻撃では倒すのが非常に困難である。強酸の体液を射出するアシッドスライムは近付くのも容易ではない。だがこれも、アルゴの雷魔法一撃で粉砕された。
さて、今夜はどんな魔物だろうか。素早く倒して素早くリリの元に帰る。アルゴの頭にはそれしかない。
北の崖を駆け上がると草地になっており、緩やかな丘を下って行くと砂地に変わった。野営地からは十五キロ程離れているが、走りやすかった為一分程で目的地に到着。音と臭いを頼りに周囲を見渡すと、不自然に砂が波立っている所がある。アルゴはそこに炎魔法を放った。
「キシャァァァアアアー!」
砂から飛び出したのはサンドサーペント。体長十八メートルの巨大な蛇だ。鱗は鉄のように強固で、普段は砂に潜って移動し、振動を感じると獲物を捕食する為に姿を現す。サンドサーペントはアルゴを敵と認め、砂上を驚くべき速さで迫った。
――ブシッ
迫るサンドサーペントに向かってアルゴが駆け、すれ違い様に前足の爪を振るう。風魔法を纏った爪は一撃で巨大蛇の頭を両断し絶命させた。
「わふぅ」
僅かに魔物の血が付着した為、前足をぷるぷると振る。それを砂に擦り付け念入りに血を落とした。
もう一度周囲を索敵し、危険な魔物が近くに居ないのを確認する。問題ない事に満足して、アルゴはリリが眠っている野営地に向かって走り出した。
アルゴが倒した三体は、いずれも脅威度AからSにランクされる魔物。とは言え、充分距離が離れていたので放置しても恐らく危険はなかっただろう。しかし、アルゴにとって「恐らく」では駄目なのだ。リリを守るという事は、万難を排すという事。可能性すら潰す、それが自らの役目だと信じている。
そう。リリに対して最も過保護なのは、このアルゴであった。
行きよりもややゆったりと走り、二分程で野営地に戻った。また見張りに見咎められずにリリの眠る天幕に入る。見張りが無能なのではない。アルゴの隠密レベルが高過ぎるのだ。ベッドの傍らにお座りし、リリの寝顔を眺める。出会った時より成長したリリは、控え目に言って天使であった。少なくともアルゴにはそう見えている。
フェンリルであるアルゴと比較して、人間の生はあまりに短い。何かを成すには時間が足りないと言わざるを得ない。だからこそ愛おしい。人間に迎合しないアルゴだが、リリは特別だった。
顔に鼻を近付け、リリの匂いを嗅ぐ。楽しい夢を見ているのだろう、リリは寝ながら笑顔になった。それを見てアルゴの胸にも温かいものが込み上げる。その温かさを噛み締めながら、アルゴはベッドの傍に横たわるのだった。
翌日の昼頃。食事を兼ねた休憩を取り、カリヌランまであと数時間と迫った所で問題が起こった。
「この先で盗賊が待ち伏せしてやがる」
狭い谷間になった難所で、シェルタッド王国では盗賊被害が最も多い場所と言われている。その分、騎士団の巡回も頻繁に行われているのだが、今日は運が悪かったらしい。街道の左右を崖に囲まれているので包囲される心配がない事だけが救いだった。
馬車を停め、「カクタスの鎧」とガブリエルが打ち合わせを行う。確認できた盗賊の数は三十人程。人数としてはこちらの三倍だ。ただし、「カクタスの鎧」にはウルの他に攻撃魔法使いがもう一人居る。遠距離から魔法を放つ事が出来れば人数差もひっくり返せる。しかし地形が問題だ。見通しが悪い為、効果的な場所に魔法を撃ち込めない。
馬車の中で、リリは不思議と落ち着いていた。十一歳の女の子なら、盗賊に襲われると思ったらガタガタ震えてもおかしくない。現に一歳上のマリエルは今にも吐きそうな青い顔をしている。
リリが落ち着いているのは、この三年間に積んだ経験が理由だった。冒険者として薬草採取を請け負い森へ行く。そこでアルゴと共にかなりの数の獣を狩った。鳥や兎から始まり猪、鹿、時に熊まで。すべてリリのブレットで仕留めた。
過保護なアルゴだが、一方でリリにも自分の身を守る技量が必要だと分かっていた。常に自分が傍に居られるとは限らない。そこで危険の少ない獣から順に、リリが訓練出来るよう手を貸したのだった。初めは躊躇していたリリも、何頭か倒すうちに躊躇わずに狩れるようになった。リリが放つブレットは、アルゴから見ても最初からかなりの精度だったが、この三年間で威力、狙撃距離、連射性が更に上がった。旅に出る直前では、三百メートル離れた熊の頭部を一撃で撃ち抜いていた。止まっていた熊ではない。左右に体を揺らしながらこちらに向かって迫って来た熊である。
経験に裏打ちされた自信があるからこそ、リリは落ち着いている。馬車から降りると、百メートル程先まで直線で、そこから街道が右にカーブしているようだ。この街道の幅だと、横並びでこちらに向かって来るとしたら多くて五~六人。武器を持って百メートルを走るのに最低でも十秒はかかる。十秒あれば、今のリリはブレットを三十発は撃てる。太腿を狙って無力化するのは問題なく可能であった。因みに、これまでリリは魔力切れを起こした事が無い。最大威力のブレットを試しに千発撃った事があるが、それでも魔力が枯渇するような感じはなかった。
「リリちゃん、馬車の中に居なさい!」
ウルから軽く叱責される。護衛を任されているウル達「カクタスの鎧」からすれば、盗賊が迫る中で護衛対象にウロチョロされたら迷惑以外の何物でもない。リリとしてもそれは十分理解出来るのだが、自分なら、こちら側に損耗を出す事無く盗賊に打撃を与えられる。それを伝えて分かってもらう時間がない。
こちら側の誰にも傷付いて欲しくないのに……リリがウルと馬車を交互に見ながら考えあぐねていると、その横をアルゴが矢のような速さで駆けて行った。
「アルゴ!?」
誰もアルゴを制止出来ない。止めようと思った時には遥か先にいる。百メートルの直線を数秒で駆け抜けたアルゴは、そのまま右に消えて行った。
見通しの悪い街道の危険地帯に差し掛かった為、「カクタスの鎧」から斥候として先行していたのはビルデアン・サートリーという十九歳の男性だった。もう一人、二十二歳の女性であるフリッカ・トルネアスは盗賊を認めた後に後方へ報告に向かった。
盗賊の数は約三十人。巡回の目を搔い潜り、直前まで自分達に気取らせなかったのだから手練れであろう。三十人の盗賊を討伐するだけでも骨が折れるのに、依頼主を守りながら手練れとやり合う事になる。盗賊と対峙するのは初めてではない。むしろ何度も経験してきた。これまで依頼主を死なせた事はないが、積み荷を奪われた事は何度かある。抵抗さえしなければ、命まで取ろうとする盗賊は滅多にいない。
抵抗せずに積み荷を渡して依頼主の安全を図るか、それとも誰かを失う覚悟で徹底抗戦するか……。ビルデアンが考えを巡らせている時、その脇を一陣の風が通り抜けた。
「え……あれは、嬢ちゃんの従魔?」
ビルデアンの五十メートル先、街道の真ん中でアルゴは立ち止まった。そこで体をぶるぶると小刻みに震わせると、ビルデアンの目にはアルゴが二回り程大きくなったように見えた。そして――
――グルゥォォォオオオオオー!!
大気が震える程の凄まじい咆哮。後ろに居るにも関わらず、ビルデアンは思わずその場に尻餅をついた。
アルゴの威圧を伴った咆哮をまともに喰らった盗賊は、半数が気を失い、半数が腰を抜かした。谷合の砂地でバタバタと倒れる盗賊を見て、ビルデアンは震える膝を叱咤して動く。背嚢から長い縄を取り出して肩に担ぎ、長剣を抜いて盗賊達に近付いた。アルゴが油断なく睨みを利かせている中、意識のある盗賊も誰一人として抵抗せず、ビルデアンは易々と縛り上げていく。
十六人の意識はあるが腰の抜けた者、十七人の気絶した者を何とか縛り上げ、額の汗を拭いながら振り返ると、見知った姿のアルゴが欠伸をしていた。
矢のように駆けて行って、なかなか戻って来ないアルゴをリリは心配していた。様子を見に行きたいが護衛に止められる。フリッカから報告を受けた後、もう一人の斥候であるビルデアンが戻って来ない。「カクタスの鎧」のリーダー、ジャネットは決断を迫られていた。ビルデアンは盗賊の手に落ちた可能性がある。そうなると、抵抗せずに積み荷を渡すくらいしか選択肢がない。忸怩たる思いでガブリエルに自分の考えを伝えようとした時――。
「おーい、もう大丈夫だ! 盗賊は全員縛ったぞ!」
カーブの先からビルデアンが馬に乗ってゆったり戻って来た。その傍らをアルゴがのんびり歩いている。ジャネット達がビルデアンの元へ走り、その言葉を確かめる為にカーブの先に消えた。リリは我慢出来なくなって、アルゴに向かって走り出した。
「アルゴー!」
「わふっ!」
アルゴもリリに向かって走る。アルゴの方が遥かに早いので、直線路のだいぶ手前、馬車に近い所で合流した。リリは飛び込むようにアルゴに抱き着いた。
「アルゴ、大丈夫? 怪我してない?」
リリは確かめるようにアルゴの体をあちこちまさぐる。フェンリルの自分が、たかが人間を相手に怪我などする訳がない。それなのにリリはこんなに心配してくれる。リリは自分を犬や狼ではなく、「家族」として大切にしてくれている。それが分かるから、アルゴは堪らなく嬉しくなるのだ。
「わふぅ!」
お座りの姿勢から頭を下げてリリの顔をぺろぺろ舐める。尻尾がブンブン動くのを自分でも止められない。
「な、なあリリ。もう大丈夫なん?」
「マリエル! アルゴが脅かしたら、盗賊はみんな大人しくなったんだって!」
「お、大人しく?」
「うん、もう大丈夫だよ!」
「さ、さよか……ふぅー。生きた心地がせんかったわ」
馬車から降りてきたマリエルに、アルゴは頭を擦り付けた。アルゴなりに安心させようとしているのだ。マリエルも肩の力を抜いてアルゴを撫でている。血の気が無くなっていた顔色も良くなった。
そんな様子を少し離れた場所から眺めていたビルデアンは、アルゴが大きくなったように見えたのは自分の思い過ごしだったようだ、とそれ以上考えるのを止めたのだった。