14 リリの浄化魔法は特別です
リリにとって初めての野営。前世では何度かキャンプをした記憶がある。誰と行ったのかは思い出せないのだが。
経験豊富な冒険者が八人も居ると、野営の準備はあっという間に終わる。天幕が三つ張られ、石を積んで竃を作り火を熾す。リリが「鷹の嘴亭」から持って来たクリームシチューが入った鍋が温められ、全員に振る舞われた。護衛の冒険者パーティ「カクタスの鎧」の八人も何度か「鷹の嘴亭」に来た事があるので驚きはないが、皆旨そうに舌鼓を打っていた。
「リリちゃん、ちょっと話をさせてもろてええか?」
ガブリエルがリリの隣にやって来て尋ねる。
「ええ。どうしました?」
「あんな、リリちゃんが作ったケチャップ。あれ、うちで販売させてもらえんやろか?」
「ええ!? ダルトン商会でですか? でも、あれは私が手作りしてるので余り量は作れないですよ?」
「せやから、レシピを売って欲しいんや。製造はうちと懇意にしてる工房に依頼する。それで、リリちゃんには販売額の五パーセントを支払うつもりや」
前世で言う特許料のようなものか。ダルトン商会は現在四か国で商いを行っている。香辛料や調味料は取扱商品のうち結構な割合を占めると聞いた。ケチャップがどれくらい売れるか分からないが、前世のように一般的な調味料になれば、一つ一つは安価でもかなりのマージンを受け取れるだろう。
「とても嬉しいお話です。ただ、母と相談させてもらってもいいですか?」
「もちろんや。前向きに考えてくれたら助かるわ」
「あ、今別の調味料を考えてて……調味料と言うかソースみたいなものですけど」
「ほう?」
「この前やっと完成したんです。マヨネーズって言うんですけど」
「それはどんな味なんや?」
「酸味と甘み、コクがあって、生野菜に付けて食べたりするんです」
「なるほど……いっぺん食べてみたいな」
「帰ったら作ります。召し上がってみてください!」
「うん、楽しみにしとくわ」
マヨネーズは生卵を使うので、最も障害となるのが「菌」だ。前世でマヨネーズを手作りする場合、サルモネラ菌を始めとしたいくつかの菌に注意するべき、と何かで読んだ記憶があった。こっちの世界にも同じ菌がいるか不明だが、卵を生食する習慣がないから、やはり食中毒の危険があるのだろう。
大量生産されるマヨネーズには大量の酢が含まれる上、無菌に近い卵を使い、製造工程で殺菌も行うため安全で長期保存も可能だ。浄化魔法が無くても卵を攪拌する際に六十度以上のお湯で湯煎しながら行えばほとんどの菌が死滅し、更に酢の殺菌作用で食中毒の心配はなくなる筈だった。リリが浄化魔法を習得したのは偏に万全を期す為である。下級の浄化魔法でも食品を無毒化する事が可能だった。浄化魔法を掛けた卵を使えば、安全安心なマヨネーズが作れたのだ。
更に、下級の浄化魔法を人間に使えば清潔を保てる。リリの家には風呂があるのであまり使う機会はなかったが、アルゴがリリの浄化魔法を物凄く気に入った。汚れないし獣臭い匂いも全くしないアルゴだが、浄化魔法を掛けると相当気持ち良いらしく、かなりだらしない顔になる。
そう、丁度今のように。
「ぎゃはははーっ! アルゴ、なんやねんその顔は!?」
「アルゴ、浄化魔法かけるといっつもこんな顔するの。気持ちいいんだよねー?」
「わふぅ」
犬、或いは狼らしからぬ野性味が失われて蕩けたような顔。目は半分以上閉じて口が半開きになり、そこから舌がだらんと外に出ている。手足からも力が抜けて完全にリラックスしていた。無警戒の極みである。
「えー? 普通の浄化魔法と違うんかなぁ? リリ、ちょっとうちにも掛けてみて?」
「いいよ。はい」
「うぉっ!? 何やこれ、温めのお湯に浸かってるような…………」
マリエルも、アルゴに負けず劣らずのだらしない顔になった。女の子が人前でしてはいけない顔である。目がとろんとなり、口が僅かに開いて端からちょっと涎が垂れていた。
「ふわっ!? 危ない、そのまま寝てしまいそうやった」
「普通の浄化魔法じゃそうならないの?」
「ならへんならへん! こんなん初めてや。それ、ほんまに浄化魔法なん?」
「んー? たぶん?」
浄化魔法を教えてくれとアネッサに頼み、教わった通りにやっているので浄化魔法だと思って使っている。卵もちゃんと殺菌できたし、体に使えばお風呂に入った後みたいにさっぱりするから浄化魔法で合っていると思うんだけど……。
「なんか、肌がツルツルになった気がする」
マリエルが自分の腕を触りながら呟く。私の浄化魔法は温泉か! と突っ込みたくなった。
「まぁええわ。アルゴの気持ちも分かったわ。リリ、またお願いしてもいい?」
「いつでもいいよ!」
その後リリは自分にも浄化魔法を掛けてさっぱりする。依頼主の為に張られた天幕に入るとウルが居た。ウルは現在「カクタスの鎧」に所属するが、正式に加入している訳ではない。瘴魔祓い士の資格を持つ者は公国でも三百人強しかおらず、一方で需要は非常に高い。一人の瘴魔祓い士が複数の冒険者パーティと契約したり、或いは助っ人を依頼された時だけ契約する場合が多い。ウルもそんな一人である。この依頼では、ウルは依頼主と同等の扱いを受けているようだ。
「ウルさんは何の魔法で瘴魔を倒すんですか?」
「私は炎魔法を使うわ」
「炎魔法……カッコイイですね!」
「今まで一度だけ瘴魔と遭遇した事があんねん。あん時は凄かったでー。他のみんなが普通の火魔法で動きを牽制して、ウルはんが炎魔法一発で倒したんや」
「へぇー!」
「瘴魔には出くわさないのが一番だけどね。もし会っても心配要らないわよ?」
生活魔法程度の火魔法しか使えないリリには、瘴魔を倒せる程の炎魔法というのがどんなものか想像がつかない。だが、きっと前世のアニメで見たような派手な魔法なのだろう。
日が暮れてする事もないので、リリ達は眠る事にした。簡易ベッドは二本の太い角材をX字に組み、それを二組使って布を張ったものだ。頭と足の角材の間に二本の角材を通す事で安定を図っている。横になってみるとベッドというよりハンモックに近い。それでも固くて冷たい地面に寝るより遥かにマシだろう。
リリのベッドの傍らにはアルゴが寝そべっている。実は、ダルトン商会の馬車を引く馬達も最初はアルゴを怖がっていた。この三年で徐々に慣れて、今ではアルゴが隣を歩いていても平気になった。アルゴが馬を襲ったりしない事が伝わったようだ。
手を下に伸ばすとアルゴのふわふわした毛に触れる。この毛の感触が、リリの癒しの一つである。父を失った直後などは、時折アルゴに抱き着いて眠ったものだ。そうすると少し悲しみが薄れ、優しさに包まれたような気分になるのだった。
「おやすみ、アルゴ」
「ゎぅ」
リリの呟きに、アルゴも囁き声で返した。リリはいつの間にか眠りに就いた。
それからの旅は順調そのものだった。二日後に国境を越えて更に二日進み、明日の夕刻にはシェルタッド王国の最初の町カリヌランに到着する予定だ。
順調に進んでいるのには理由がある。ここまで全く魔物に遭遇していないのだ。アルゴが随伴しているからなのだが、「カクタスの鎧」のメンバーも不思議がっている。五日間も魔物に遭遇しないのは、彼等の経験で言うと異常だった。
一定以下の脅威度、人間の基準で言うと脅威度C以下の魔物は、アルゴの気配によって近付いて来ない。街道近くに出現する魔物は殆どが脅威度C以下で、B以上の魔物は数年に一回現れるかどうかという確率である。強い魔物は街道から相当離れた場所で悠々と活動する。広い縄張りを持ち、そこに生息する別の魔物を捕食するのだ。態々不味い人間を食べるまでもない。
このようにアルゴのおかげで安全なのだが、逆に言うとアルゴが居ても現れる魔物は脅威である。また、瘴魔は場所を問わずに出現するので、こちらは完全に運だ。アルゴの居る居ないに関係ない。
リリを含めてそんな事は全員が知らないが、とにかくダルトン商会の一行は順調に進んでいた。リリにとって初めて訪れる別の国。だからと言って風景が劇的に変わる訳ではなく、マルデラの町からずっと左右に森が続いていたように、昨日までは森の中だった。今朝くらいから少しずつ岩場が増え、今は少し離れた所に高い崖が続くような場所だった。
「この先に野営に向いた場所があるから、今日はそこで野営するで」
教えてくれたのはガブリエル。彼はこの道を二十回近く通っているので慣れたものである。街道沿いにはダルトン商会のような隊商が野営しやすいよう、先人達が切り拓いたポイントがいくつもあるらしい。何十年、何百年とここを通ってきた商売人達の逞しさが窺える話だ。
これまでと同じように野営の準備を行う。さすがに五日目ともなれば、リリも何をするべきか分かってきて手伝いをするようになった。「鷹の嘴亭」から持って来た食材は日保ちする物に変わっている。干し肉、乾燥させた豆と野菜、固く焼しめたパン。冒険者や旅人にとってはお馴染みの食材であるが、リリが調理すると一味違う。
「かぁーっ! やっぱリリの料理は美味しいなぁ!」
「ああ。ちょっとした調味料の違いでこれだけ変わるとは」
マリエルの叫びに呼応したのは、「カクタスの鎧」のリーダー、ジャネット・サマールである。三十歳の彼女はパーティのリーダーで盾と槍を使う。「金色の鷹」のクライブと同じ盾役だ。黒髪を短く刈った彼女は男勝りの性格と実力を持ち、パーティの信頼も篤い。
「ジャネットはんも今のうちリリに料理を教えてもろたら?」
「……料理役はカトラスだ」
「あー、教えてもらおうかな?」
ジャネットに指名されたのはカトラス・ウィール。二十七歳の男性で剣士である。料理が好きな為、パーティの料理人を任されていた。
「全然いいですよ! 次に保存食で作る時に教えますね」
明日にはカリヌランに着くので、久しぶりに宿に泊まる。食事も店で摂る。生鮮食品も仕入れるし、その次の大き目の街まで二日かからないらしいから、保存食料理は結構先になるかも知れない。
いつものように食事の後はリリが希望者に浄化魔法を掛け、ガブリエルとウルは酒を飲み、冒険者達は交代で見張りに就く。
リリもマリエルと一緒に天幕に入り、ハンモックベッドに横たわってアルゴの感触を楽しむ。魔法具の灯を暗くすると眠気がやって来る。
これまでと同じ夜だった。明日到着するカリヌランはどんな町だろう? 想像を膨らませている間にリリは眠りに落ちた。
夜半、アルゴの耳がぴくぴく動き、ある音を捉えた。アルゴはむくりと起き上がり、音の方向に鼻を向けてスンスンと臭いを嗅ぐ。リリの寝顔を数秒眺め、アルゴは天幕を出る。そしてそのまま北へ向かって走り出したのだった。