135 帝国北西部
翌朝、リリたちは国境へと向かった。
アルストン王国とスードランド帝国は不可侵条約を結んでいる。国力は帝国の方が大きいのだが、アルストン王国はかつて外交に長けていた。東の大国、クルーセルド王国建国の際、初代女王に協力した縁で今も同盟関係にある。クルーセルドはアルストンから遠く東に位置するが、そこに至るいくつかの国はクルーセルドと蜜月関係を築いている。そのため、いざアルストン王国が帝国に攻め込まれれば、それらの国々が王国を援護してくれるのだ。
リスクとリターンを天秤にかけた結果、帝国はアルストン王国と不可侵条約を結んだ。こっちも攻め込まない代わりにそっちも攻めて来ないでね、という話である。
そういうわけで、両国の行き来は制限がほぼない。いずれかの国で罪を犯しでもしていない限り、身分証さえ提示すれば国境超えは容易である。渓谷に渡された橋の袂に国境警備兵が配置されているが、通行者をチェックするのは配属されたばかりの新人で、ベテランは詰所でのんびりしている。酒を飲んだり、何かのゲームに興じている者もいる。通行者のチェックをする新人も、その検査はおざなりだ。身分証をチラッと見てさっさと通している。
つまり、緩い。ここはゆるゆるである。
リリはその様子に何かの罠ではないかと疑った。アルストン王国とシェルタッド王国、シェルタッド王国とスナイデル公国、スナイデル公国とルノイド共和国の国境を通った経験があるが、ここは断トツで緩い。緊張感の欠片もない。攻められることがないと分かっていると、人はこうまで緩くなるのか。
「お父さん、ここ、大丈夫なの?」
「……いいんじゃねぇの? よその国だし」
ジェイクも投げやりであった。いっそのこと魔物が攻めてくりゃいいのに、とすら思えた。
この緊張感のなさから考えて、国境の近くに魔物が迫ってはいないのだろう。少なくとも今は。
「こりゃ、帝国側に全部向かってるのかな?」
「多少はこっちにも来るだろうが、奴らにとっちゃいい薬なんじゃねぇか?」
そうかも知れない。死なない程度に痛い目を見た方が良さそう。
常日頃、瘴魔と命懸けの戦いを強いられている祓い士や冒険者、騎士を見ているせいでリリもそんな風に思ってしまう。「兵」と名の付く職業は命の危険があるものだ。国からお金をもらって国境を任されている警備「兵」なのだから、いざという時には命を投げ出してでも民を守らなければならないが――彼らにはそんな気概はなさそうだ。
そんな風に呆れながらリリたち一行は国境の検問を越え、橋を渡った。当然だが、罠など一切なかった。
帝国側の国境警備も王国側と然程変わらなかった。ここから十五キロほどしか離れていない「鎧魔の迷宮」で、今にも魔物暴走が起こるという緊張感は皆無である。ここまで来ると、本当に魔物暴走が起こるのか疑ってしまうくらいだ。
だが、アルゴだけは違った。しきりに空気の匂いを嗅ぎ、辺りを警戒していた。
『リリ。三キロほど南に魔物の群れがいるぞ』
『了解。こっちに向かってそう?』
『……だいぶ広範囲に散らばっておるな。一部はこちらへ来るだろう』
『分かった。ありがと、アルゴ』
アルゴに教えてもらった情報をジェイクに伝える。
「広がってるのはマズいな。とにかく囲まれねぇようにしねぇと」
「私のマップに魔物が映ったら、おっきな魔法を撃ち込むよ」
『我も撃つぞ』
「アルゴも一緒に魔法撃ってくれるって」
「…………帝国、消えねぇよな?」
そんなわけないじゃん……ないよね?
『アルゴ……帝国がなくなったりしない?』
『加減する』
加減しないと帝国はなくなるのか。そうなのか。
「アルゴは加減するから大丈夫って」
それを聞いたジェイクはリリにじっとりした目を向ける。
「わ、私のはそんな威力ないから。大丈夫だよ?」
「……いや、リリが怪我するくらいなら思い切りやってくれ」
どっち!? どっちなの!? まぁ私の魔法ではせいぜい五百メートル先まで悲惨な状態になるくらいだから……いや、十分暴れん坊だな。危険人物と思われても否定出来ない。
国境の渓谷に渡された橋を渡りきると、南へ向かって街道が伸びている。しばらくは見通しの良い草原が続くが、一キロくらい先から森の中を通るようだ。全員でアルゴの情報を共有し、速度を落として南へ下る。リリは索敵マップを起ち上げて注視しながら進んだ。現在、マップは半径二キロを少し超えるくらいの範囲を映し出す。不意に囲まれるような心配はないはずだ。
やがて、マップの進行方向に赤い点が見え始め、それが一気に増える。
「進行方向、東西約一キロに渡って敵出現! 距離、約一・五キロ!」
リリが視た情報を、ジェイクが分かりやすく全員に伝える。馬車から街道に降り立ち、来るべき敵に備えた。
前列真ん中にクライブ。左にジェイク、右にアルガン。
後列は左右の端がラーラ、アネッサ。真ん中にリリとアルゴ、その左にシャリー、右にアリシアーナという布陣だ。
「魔物が視界に入ったら、まず私とアルゴが雷神殲怒を撃つから。範囲から漏れて回り込んで来る魔物を四人で狙って!」
広範囲に魔物が散らばっているが後ろ側にはいない。前方の敵だけ倒せば良い状況を崩してはいけない。魔物暴走を経験したことがあるジェイクたちの教えだ。リリとアルゴの火力で出来るだけ削り、討ち漏らしを残りの魔法職が倒す。前列三人の役目は後列に魔物を近付けないことである。
全員がサングラスを装着する。事前にリリが渡していたものだ。前世なら何かのエージェントっぽく見えたかも知れない。
「距離、約八百!」
遠く空中に黒い靄のようなものが広がっている。リリの能力で見たものではなく、全員が同じものを見ていた。それが徐々に近付き、ブーンと唸るような音も聞こえてくる。
事前に決めていた通り、魔物の先頭をなるべく引き付ける。
「距離、三百!」
視界一杯に広がる黒……いや、深い緑や青、黒灰色が混然となっている。不快な唸り音がどんどん大きくなる。
「距離、百!」
先頭を飛ぶのは、蜻蛉のような魔物――ただし、体長が四メートルはある。ドラゴンフライ・マサカーと呼ばれ、十二枚の羽を持ち前後の脚が異常に長く、その先端が鎌のようになっている。単体で脅威度Bランク。それが大群を成して迫っていた。
不快な低周波音は、この魔物の羽ばたきで発生している。それと同時に、金属がカチカチとぶつかる甲高い音もした。顎を開閉している音だ。鳥と遜色ない速さで迫り、感情のない複眼にリリたちの姿が反射している気がした。
「距離、五十! 行くよ、雷神殲怒!」
――AooOOOOON!
青白い光球が二つ、左右に少し角度を付けて放たれた。直後、ドラゴンフライ・マサカーの群れに着弾すると、世界が真っ白に染め上げられる。ほんの僅か遅れて届く轟音、そして大地を揺るがす振動。魔物が直前までいた場所は、迸る閃光と舞い上がる草木や土で状況が掴めない。
――ドシュッ
――ズガッ
――ザンッ
今までにない音がして我に返ると、ジェイク、クライブ、アルガンがそれぞれ魔物を倒していた。敵は空中だけでなく、地中からも来ていたのだ。
それに気付いたリリは、広範囲の地面を無属性の膜で覆う。その上で、地中に数発の雷球を放った。地面に手を置き、自分たちより五十メートル先の地中に直接放ったのである。
雷球が地中で弾けた地点は、ぼこりと土が盛り上がる。だが無属性の膜で覆っているためそれ以上被害は広がらない。
やがて視界が効くようになると、眼前の景色はガラリと変わっていた。街道と、その先に見えていた森がない。一面耕された畑のように土が起こされ、ずっと先まで黒々とした地面が広がっている。非常に既視感のある光景だ。そして、雲霞の如く迫っていた魔物の大群は影も形もなくなっていた。
マップで確認すると、範囲ギリギリの遠い場所に、数えられる程度の赤い点が残っていた。これくらいなら魔物暴走が起こらなくても普通にいる数だ。
『リリ、さっきは何をしたのだ?』
『……ん? さっき?』
『地中で雷球が炸裂したように見えたのだが』
『あ、うん。地上から撃ってもあんまり効かないのかなーって思って』
『……自分から離れた場所に魔法を発現するのは、かなり高度だ』
咄嗟にやったら出来たから大したことだと思わなかったけど……そうなんだね。
『人間で出来る者は初めて見た』
『えぇ!?』
それって言外に人外認定されたってこと? ま、まぁ、神獣から何度か「化け物じみてる」なんて言われてるから今更かな……。
『出来ないより出来る方がいいよね……?』
『うむ。頼もしい限りだな』
尻尾が緩やかに揺れているから、アルゴは機嫌が良さそうだ。悪いことでないなら気にしないことにしよう。
「リリ、魔物はどうなった?」
「あ、ごめん。近くにはいないよ。二キロくらい離れた所にちょっとだけいるけど」
「そうか。魔力は大丈夫か?」
「え? うん、今のところ問題ない」
そこで初めてジェイクたちは警戒を解いた。
「姉御? またやったな!」
「うぅ……」
「街道なんてまた作れば良いのです。人命の方が余程大事ですわ!」
「うぅぅ……」
そうだ。ここは帝国、いわば敵地だ。その街道を跡形もなく吹き飛ばしたら、これって侵略じゃない?
『問題ない。道を均す程度の土魔法なら我に任せよ』
おぉ!? ボコボコに捲れ上がった地面が、馬車二台分くらいの幅で綺麗に均されていく……て言うか、それ出来るなら前もやってくれれば良かったのに。
アルゴが土魔法を使って出来た街道は、まるでアスファルト舗装されたように滑らかな黒い道になった。下手に石畳で舗装するよりずっと滑らか。さすが神獣である。
新しく出来た街道(?)の両脇は土がこんもりと盛り上がっているが、そこは敢えて誰も指摘しない。
『アルゴ、発生源の迷宮をどうにかしなくていいの?』
迷宮は、いわば瘴気を魔素に変換する装置だ。取り込んだ瘴気から魔物を生み出し、迷宮から外で出た魔物が自然死したり討伐されたりして大気中に魔力の元となる魔素を排出する。何故こんな回りくどいのかと思うが、創造神の思い付きなので文句を言ってもしょうがない。
迷宮周辺の瘴気が増え過ぎるせいで、迷宮は際限なく魔物を生み出し続ける。これが魔物暴走だ。
『新たな魔物の群れが発生しなければ、この迷宮の魔物暴走は終わったと考えて良いぞ』
『そっか……じゃあ、もっと南側の様子を見に行こう』
一行は馬と馬車に乗り南へと向かった。リリの魔法が及んだ範囲より先の方、元々森があった所はかなり開けた場所になっている。アルゴの魔法によるものだが、森を開墾する手間が省けて良かったと思うことにした。
「この辺りを西に行けば『鎧魔の迷宮』だな」
しばらく進むとジェイクが教えてくれた。そこはリリたちが魔物を迎え撃った場所から三キロほど南へ下った場所である。マップで見るとぽつぽつ魔物はいるようだが、アルゴの気配で近付いては来ない。どうも魔物というものは、一定数以上の群れになると生存本能より闘争心が勝るようだ。
「こんな所まで魔法が届くなんて、やっぱアルゴは凄いな!」
シャリーが驚嘆の言葉を口にするが、確かにまだ魔法の痕跡が残っている。これで加減しているのだから、全力だとどんな威力なのか想像しにくい。
その辺りからはアルゴ謹製の新街道ではなく、本来の街道に戻る。先程に比べて馬車の振動が少し大きくなった。また索敵マップを注視しながら進むと、進行方向の赤い点が徐々に増えていく。
『この先に町がある。そこが魔物の群れに取り囲まれているようだ』
馬車と並走するアルゴが念話で知らせてくれた。情報を全員で共有する。さらに進むと、リリのマップには赤い点が歪な環となっているのが見て取れた。不幸中の幸いで、こちら側に来た飛行タイプの魔物は少ないのだろう。恐らく防壁で魔物の侵攻を阻んでいるのだ。
町があれば大きな魔法は使えない。さて、どうしよう……。
町まであと一キロくらいの場所で一旦歩を止め作戦会議を行う。
「基本的に、外側から少しずつ削っていくしかねぇが……」
「町が丸ごと魔物に囲まれてるのは厄介だよね」
ジェイクの言葉にアルガンが返す。魔物の数が多い為あっという間に取り囲まれる可能性が高い。こちらには町の防壁のように身を守る壁はない。
「遠距離から、防壁に当たらない角度で魔法を撃つのは?」
「そんなこと……リリなら出来そうだな」
リリの提案にジェイクが頷く。
「だが、数が多いぞ? 一体ずつ倒してたら日が暮れちまう」
「私もやるわ」
「私もよ」
「オレもやるぞ!」
「私もですわ!」
アネッサ、ラーラ、シャリー、アリシアーナが声を上げた。
「……分かった。具体的に詰めるぞ」
離れた場所から魔法で魔物を削っていくという基本方針が決まり、それなら二組に分かれるかという案も出たが、それはジェイクがバッサリ却下した。魔物の数が多過ぎるので、分断されると対処が厳しくなる。一塊でいた方が安全だ。帝国に対しても、この先にある魔物に囲まれた町に対しても、守る義務も義理もない。自分たちの命を守ることが最優先。
それを踏まえ、次にどれくらいの距離から攻撃するかという話になった。
メンバーの中で最も遠距離から攻撃出来るのは、アルゴを除けばリリである。リリのブレットは三百メートル先の的も外さない。欠点は、一発で一体の魔物しか倒せないこと。貫通して上手く急所に当たれば複数倒せないこともないが、基本的に一体と考えるべきだろう。
「だったら――」
リリが考えを述べると、全員がニヤリと悪い笑顔になる。
「よし。リスクも低いから、まずはリリの案を試すぞ」
ジェイクの言葉に、全員がはっきりと頷いた。




