122 炎龍と黒影鳥
グスタフ・ビーストテラン侯爵は「連合軍」の最後尾近くを進む馬車の中で今後について思索に耽っていた。
ビーストテラン家以外の十一家は騎士や兵、兵站の供出は行ったもののこの行軍には参加していない。連合軍の指揮はグスタフに一任されているが、彼にとってそれは好都合だった。スナイデル公国に侵攻した後、最終的に首都ファンデルを陥落させる心算である。その時命令権を持つのがグスタフしかいなければ、暫定的に置く政府の長は自動的にグスタフになる。そうなれば新生レンドラン王国樹立を宣言し、そのままグスタフが初代国王となるのだ。他の貴族たちがファンデルに到着するまで十分に時間はある。邪魔者が来る前に既成事実を作ってしまえば良い。
今後数ヵ月で悲願が成就すると思えば、口元が緩むのを抑えられない。もちろんそう簡単に事は運ばないだろうとは思っている。しかしスナイデル側の砦さえ陥落させれば、後はそう難しくないはずだ。グスタフはそう楽観していた。
連合軍はリングガルド王国の東端を北上していた。王国内はただでさえ内戦でピリピリしている。王国貴族をなるべく刺激しないよう、帝国国境の山裾に当たる東端の街道を選んだのだ。この辺りは王国でも辺境で、街道はほとんど整備されていない。単に踏み固められた土の道である。
二万の行軍は全長で一・五キロ近くに及んでいる。前を行く兵や馬によって道はさらに踏まれているので、先頭を行くよりかは幾分マシになっているはずだった。それでも、普段は十分整備された道しか通らないグスタフにとって、馬車の乗り心地は耐え難いものだった。それこそ、自分の国を興す夢想に浸らなければ我慢できないほどに。
早朝に出発し予定通りに行軍していた一団だったが、徐々に速度が落ち、やがて完全に止まってしまう。皮肉にも、ずっと感じていた不快な揺れが止まったことで、グスタフは現実に引き戻された。
「どうした、何事だ?」
グスタフは御者を務める騎士に問うが、騎士にも何が起こったか分からないようだ。何せ連合軍の先頭はここから一・五キロ先である。そこで何か起こったとしても目視で分かる距離ではなかった。
馬車の護衛についていた騎士の一人が、近くの兵に命じて前の方に原因を探りに行かせた。その様子をグスタフはイライラしながら見ていたが、彼方から叫び声が聞こえた気がした。そしてそれは怒号となり、前方からこちらに物凄い勢いで近付いていた。
「おいっ! 何があったのか報告しろ!」
グスタフは馬車の窓を開け、近くにいた騎士を怒鳴り付けた。馬上の騎士は前方を睨みグスタフの方を見ようともしない。
「おい、聞いているのか!?」
「閣下、前方から人が……恐らく我が軍の兵と思われる者たちがこちらに走って来ております」
「なんだと!? 反乱か?」
「いえ、武器は持っていないようで……まるで何かから逃げているような必死の形相です」
連合軍の先頭にいたのは各貴族家の領地から集められた民兵だ。普段は農作業や樵などを生業としており、年に数回戦に備えた訓練を受けている。有り体に言えば素人の集団だった。しかし彼らを統率するための小隊長が近くにいるはずではないか。
前方の騒ぎが波のように最後尾付近まで伝わって来る。騎士や兵士が浮足立ち、隊列が乱れかけたその時――。
東に数キロ離れた国境の山々。中でも一際大きく雄々しい山が、一瞬でなくなった。そしてすぐ隣に聳える山が丸ごと炎に包まれた。遅れてこの世の終わりかのような轟音と振動、そして火傷しそうなほどの熱波が届き、馬車が大きく揺れて馬たちが落ち着きを無くす。最後尾近くまで逃げ出してきていた先頭の民兵たちは、もれなくその場に蹲り頭を抱えている。
「何だ!? 敵の攻撃か!?」
グスタフは唾を飛ばしながら怒鳴る。誰でもいい、今何が起きているのか説明しろ!
「畏れながらご報告いたします。先頭にいた小隊長から話を聞いたところ、進行方向に巨大な魔物が二体立ちはだかったため一斉に攻撃を仕掛けましたが、一切の攻撃が通じず。二体が咆哮を上げると民兵たちは武器を捨てて逃げ出し、止める間もなかったとのことです」
「魔物だと? その程度倒せんのか!」
「それが……先頭付近にいた古参の魔術師は、炎龍と黒影鳥ではないかと申しております」
「なっ!?」
サラマンドラとカラドリウス、だと……? それは伝説の神獣ではないか。まさか、さっき山が消し飛んだのは神獣が魔法を放ったのか……?
グスタフは炎に包まれていた山を見遣る。そこにはもう山はなく、ドロドロと赤く溶けたマグマのようなものが裾野に広がっていた。隣にあったはずの山は跡形もない。
これは……警告? このまま進めば、この魔法を連合軍に向かって放つという警告か。
グスタフはゆっくりとした動作で馬車を降りた。騎士たちが彼を守るように取り囲む。
「本当に神獣なら、この目で見てみたい」
グスタフは馬を一頭借り、自らそれに跨った。護衛騎士たちが前後を挟むように隊列を組み、前にいる兵たちを割ってに北へ進む。進むごとに兵が疎らになって馬の足が徐々に早まった。先頭付近まで来ると軍の隊列はバラバラになり、腰が抜けたように地面に尻餅をついた兵が虚ろな目をグスタフに向けてくる。
軍の先頭に出るよりだいぶ前からその姿は見えていた。遠近感が狂うほどの巨大さ。スピードを落とし、五十メートル以上の距離を空けて止まる。
サラマンドラは虹色の鱗が輝き、時折全体が真っ赤に染まる。カラドリウスは光を吸い込むような黒い羽毛。どちらも金色の瞳をしており、それがグスタフを真っ直ぐ見つめていた。その圧倒的な存在感と神々しさに、初めて見る者でも本能で理解できてしまう。
間違いなく神獣だ。
馬から降りたグスタフは、誰に言われるでもなくその場に片膝を突いて首を垂れた。その目からは自然と涙が溢れてくる。それは悲願が叶わないことを知った故か、それとも神獣との邂逅を喜ぶ嬉し涙か、グスタフ自身にも判断がつかない。ただ胸の内に溜まった澱が消え去り、帝国への叛意が綺麗さっぱりなくなった。今まで何故レンドラン王国の復興に拘泥していたのか、最早自分自身でも分からない。
「公国への侵攻は、神獣様の意向に反する、のですね?」
グスタフは何とか掠れた声を絞り出した。神獣たちは何の反応も示さず、じぃっとグスタフを見つめている。
「……全軍撤退だ」
グスタフは、半ば振り返って騎士の一人に告げた。
「今なんと?」
「撤退、と言ったのだ。帝国に帰るぞ」
グスタフは立ち上がり、二体の神獣に貴族の礼を執って踵を返した。その先では騎士たちが撤退の指示を伝えている。
兵たちがのろのろと立ち上がり南へと歩き始めた。グスタフも再び馬に跨って置いて来た馬車に向かう。ちらりと振り返れば、神獣たちが北へ向かって飛び立っていくのが見えた。私はもう少しで神獣の怒りに触れる所だった。あの魔法が連合軍に、そして帝国に向けられれば、成す術もなく我々は滅びただろう。スードランド帝国滅亡の引き金を引いた男として、悪名を歴史に残す一歩手前だった。
敗走、というわけではない。実際、敵と見做した公国とは干戈を交えることさえしていない。グスタフ・ビーストテランと彼の連合軍は戦わずして負けたのだ。一人の兵さえ失わずに済んだのはまさに僥倖。大きな過ちを犯す前にそれに気付かせてくれた神獣に、グスタフは感謝すらしていた。神獣の力を以てすれば、連合軍を全滅させることなど容易かっただろう。それをせず、全員生きて帰らせるというのは神獣の慈悲に他ならない。
亡国の再興という妄執に取り憑かれていた男は、まるで生まれ変わったかのように爽やかな気持ちが胸に広がるのを感じるのだった。
*****
「わぁ! 帝国軍が撤退し始めたよ!」
ラルカンとノアが連合軍に脅しをかけていた場所から北に約二キロ、小高い丘の上でリリはその様子を見て飛び跳ねながら喜んだ。
『うむ。存外上手くいったようだな』
『ここからは良く見えなかったけど、あの二人はどんな姿になったの?』
『デカいトカゲとデカい鳥だな』
アルゴからそう言われて、リリはラルカンとノアがそのまま大きくなった姿を想像する。なんだ、大きくなっても可愛いじゃない。
『リリー! 上手く行ったよ!』
その時、空からいつも通りのラルカンが落ちてきた。リリは慌てて小さな体を受け止める。
『おい! 暴れるから離してしまっただろうが!』
そのすぐ後に、ノアが舞い降りてきた。
『大丈夫だよ、途中で転移したから』
『そういう問題じゃねぇ!』
ラルカンはリリに受け止めてもらうため、わざわざリリの頭上数メートルの所に転移したらしい。ノアはちゃんとラルカンを連れて来るのが自分の役目だと考えていたので、勝手に戻ったラルカンに不服そうだ。
『二人ともかっこよかったよ! あの魔法、凄かったね!』
『そうだろ? あれは影魔法だ。影で山を呑み込んだんだぜ?』
『すごい!』
『僕はちょっと山を燃やしただけだよ!』
『あれでちょっとなの!?』
『『ふふん!』』
リリに褒められた二体の神獣はドヤ顔をキメた。
『でも自然は大切にしようね?』
『『…………』』
あまり調子に乗せるとまた山を消し飛ばしそうなので釘を刺しておく。
『うむ、全軍が南へ向かい始めたな。もっと勢いよく撤退するように、尻に雷でも落としてやるか?』
『アルゴ? もう諦めたんだから苛めちゃダメだよ?』
『う、うむ』
南へ下る大軍を見ながら、リリは心から安堵した。公国はもちろんのこと、帝国側にも一人の犠牲者も出していない。戦争が起きる前に、戦争そのものを潰せたのだ。戦争で不幸になる人を出さずに済んだのだ。
『ラルカン、ありがとう』
リリはラルカンを両手で優しく包み、胸元に引き寄せた。
『ノア、ありがとう』
ラルカンをアルゴの背に乗せて、アルゴの頭に止まっていたノアを抱き寄せる。そしてまたアルゴの頭に戻した。
『アルゴ。いつもありがとう。今回も、本当にありがとうね』
リリはアルゴの頭を胸に抱いた。
『リリ。今回のことは神獣として誇りに思うぞ。犠牲を出すことなく戦を避けられたのは、リリがいたからこそだ』
『僕もそう思う!』
『そうだぜ。お前の強い想いがあったから俺たちは応えただけだ』
神獣たちの優しい言葉に、じんわりと涙が浮かぶ。リリはそれを懸命に堪え、輝くような笑顔を向けた。
「三人とも、ありがとうね!」
『うむ。では帰るか』
ノアが大空へ飛び立ち、ラルカンは転移で「焔魔の迷宮」に帰った。リリがアルゴの背に跨ると、彼は風のように走り始めた。
*****
「陛下! て、帝国貴族軍が撤退を始めました!」
「真か!」
大公館の執務室に文官が駆け込んで来て告げる。普段ならそんな無礼は許されないが、今回ばかりは咎める気にならなかった。カルキュリア大公はホランド宰相と目で頷き合う。きっとリリ殿と神獣様が骨を折って下さったのだ。
「監視は引き続き続けるように伝えよ」
「はっ! ……それと、よく分からない報告も参っております」
「よく分からない?」
「はい。恐らく何かの比喩か暗号ではないかと思うのですが……『東の山が二つ消えた』と」
「東の……山?」
「はい」
「……分かった。下がってよい」
「はっ!」
文官が執務室から退室したところで、大公と宰相は同時に溜め息をついた。
「比喩でも暗号でもありませんな」
「うむ。文字通り山が消えたのだろう。消し飛ばされた、が正しいだろうが」
目の前で山が消えたら、どんな気分になるのだろうか。
「帝国には、神獣様のご意向が十分に伝わったであろうな」
「そうでなければ困りますな」
宰相の軽口に、大公がフフっと笑いを零す。それに釣られるように、宰相の口からも笑いが漏れた。お互いの笑い声が呼び水となり、執務室には大の大人二人の笑い声が響く。それは、これまで強いられていた緊張が解けたことによるものだった。
負けるとは思っていなかったが、少なくない犠牲を覚悟していた。民と国を守るため、戦える者に命を懸けよと命じるのは為政者の務めだ。それが分かっていても心が痛まないわけがない。だが、戦は回避された。戦で誰かが命を落とす心配をする必要がなくなった。
もちろんすぐに警戒を解くわけにはいかないが、当面の危機は去ったと見て良いだろう。
「リリ殿に感謝するべきだな」
「いかにも。授爵なさいますか?」
「いや、彼女は望まんだろう。しかし国が大いに感謝していることは示すべきだ」
「……褒章ですかな?」
「そこはお前が考えてくれ。宰相だろう?」
ホランド宰相は大公にじっとりとした目を向けた。神獣様と少女の機嫌を損ねず、感謝が十分に伝わる褒美とは何だ? 心配事がなくなったと思ったら、新たな悩みが増えてしまった。
「エリザベートの知恵も借りると良いかも知れん」
「そうですな。そうしましょう」
厄介事を半分背負ってもらうべく、宰相は早速エリザベートと会談するために侍従を走らせるのだった。
 




