110 大公家の思惑
「このような恰好で申し訳ないのですけれど、少し話をさせていただいてもよろしいかしら? カノン・ウィザーノットさん、いえ、リリアージュ・オルデンさん?」
本名を呼ばれたことは、それほど驚きを感じなかった。もしかしたら、と身構えていたのだ。
祝福の儀でリリが「ウジャトの目」を授かったのは、神殿を通して国に報告されている。当然国家元首である大公の耳にリリの名が伝わっているだろう。その娘がリリの名を知っているのも不思議ではない。
そして、大公の娘という国の重要人物が、素性の知れない人間の治癒魔法を受けることは考えられない。暗殺者である可能性だってあるのだから。
だから、カノン・ウィザーノットについても徹底的に調べられるだろうとは思っていた。そしてすぐにリリと結び付けられるだろうことも。
ただリリにとって意外だったのは、何故このタイミングで? ということだった。だって素っ裸でお風呂に入っている最中だよ?
リリはラベンダー色の伊達メガネを外し、同じ色のウイッグも取った。乱れた髪を適当に手櫛で直す。
「名前を偽って申し訳ございません。改めまして、リリアージュ・オルデンです」
リリがぺこりと頭を下げると、エリザベートは優しさと慈愛に満ちた笑顔を向けた。
「こちらこそ、騙し打ちのようになってしまい申し訳ありません。私に敵意がないことを示すために、敢えて今、話を切り出させていただきました」
エリザベートは浴槽の中で立ち上がり、リリに向かって深く腰を折った。何でエリザベート様が私に頭を下げるの!? いや、その前に服を着ようよ!?
「あ、あの、頭をお上げください! あと、服を着てください!」
リリが伸ばした手をわたわたと振るのを見て、エリザベートは「フフフ!」と笑う。浴槽から出た彼女の水気を二人の侍女がサササッとタオルで拭き取り、流れるような動作でバスローブを身に着けさせる。
「この二人は侍女ですが、情報部に所属する者たちです。ここでの話は決して外に漏れないとお約束いたします」
「あの、エリザベート様? 私に敬語は不要、というか普通にお話しいただけませんか?」
エリザベートはリリの前に置かれた椅子に背筋を伸ばして腰掛けた。
「リリアージュ様」
「様は要りません! リリで、呼び捨てでいいですぅ!」
「フフフ。ではリリさん。美容治癒に興味があったのは本当ですよ? ただ、カノン・ウィザーノットさんがリリさんであると分かったので、ぜひお会いしたかったのです」
やはり調べられていたか。国が本気で調べればすぐにバレるよねぇ。
「会って何がしたかったんですか?」
「私は……出来ればリリさんとお友達になりたかったの」
「へ?」
「ごめんなさい、言葉が足りませんでした。我がバスタルド大公家は、リリさんと親しくなりたいと思っているのです」
リリは予想していなかった展開に頭がクラクラしてきた。
「大公家が、私と、親しく?」
「もちろん、無理にとは申しません。そうですねぇ……大公家はリリさんの味方、そう思っていただけるだけでも嬉しいですわ」
「えーと、それは、もったいなきお言葉?」
頭がクラクラしているので自分が何を言っているのかもよく分からない。何を言われているのかもよく分かっていない。
「この国には、初代大公后が残されたお言葉があります。『ウジャトの目を持つ者が現れたら、その自由意志を最大限尊重せよ』。この言葉はこの国の貴族なら当然知っておりますが、念のため国として貴族に触れを出しました」
リリの天恵が「ウジャトの目」だと神殿から報告があって直ぐ、国中の貴族に対して大公の名でお触れが出たそうだ。その内容は、ひと言で表すと「リリに余計なちょっかいをかけた奴は問答無用で爵位剥奪、財産没収」である。
「国がそこまでして下さるんですか……」
ようやく理解が追い付いて来たリリが感嘆の声を漏らした。
「それでも、愚かで浅はかな者がいないとも限りません。また、他国からの干渉をこれで防ぐことも出来ません」
相変わらず慈愛のこもった目でリリを見つめながらエリザベートが続ける。
「ですから、もし何かあったら私にご連絡くださいな。リリさんの伝言板に私の連絡先を登録してもよろしいですか?」
エリザベート・バスタルド・スナイデル、現大公長女の一番の目的はこれだった。大公家とリリの間にホットラインを開通させること。もちろん実の父であるカルキュリア・バスタルド・スナイデル大公からの頼みである。
目下、大公が最も恐れているのは、リリが害されることによって神獣の怒りに触れることであった。これだけは避けなければならない。
本心では中央街区に警備が厳重かつ居心地の良い居宅を用意し、そこにリリとその家族を住まわせて管理下に置きたい。野放しにするより余程安心できるというものだ。だがそれでは「自由意志を最大限尊重」することにはならない。
護衛を大量に付けることも考えたが、かえって目立つ恐れがある上、神獣は間違いなく護衛に気付く。それが護衛ではなく「監視」と捉えられたら心証が非常に悪くなってしまう。
苦肉の策として、長女エリザベートを大公家の窓口とする案を採用した。大公自身でも良かったが、執務中は連絡があってもすぐに対応できない。妻が生きていれば適任だったが残念ながら四年前に亡くなっていた。そこで、実子の中で最も信頼し、平民とも分け隔てなく接するエリザベートに白羽の矢を立てたのだった。
そんな裏の事情は知らないリリであるが、靄を可視化することでエリザベートに悪意がないことは分かっていた。お互い連絡が取れる状態になっても、何かを制限されたり監視されたりというわけでもないらしい。
この場で承諾しても構わなかったが、最低でも母には事前に話しておくべきだろうと思った。
「お心遣い、心から感謝します。ただ、母に相談してからでもいいでしょうか?」
「もちろん構いませんわ」
ミリーと相談して了承を得たら手紙を送る約束をした。貴族に手紙など出したことがないので、無作法は許して欲しいと予めお願いしておいた。
「私はいつでもリリさんの味方です。それを忘れないでね?」
「ありがとうございます」
リリは深々と頭を下げて応接間を出る。扉の外側で控えていた侍女がマリエルの待つ別の応接間まで案内してくれた。変装を解いたリリを見てマリエルが目を丸くし、何か言おうとするのを目で押し止める。お茶を用意してくれるという申し出を固辞し、リリはマリエルを伴って早々に大公邸を後にした。
マリエルは御者台で馬車を操っているので客室のリリと話せない。事情が聞きたくてウズウズしながら、やや急ぎ気味でダルトン商会に戻った。
「リリ、何があったんや!?」
「近い近い近い!」
二階の休憩室に入った途端、マリエルは額がくっつかんばかりの勢いでリリに詰め寄った。
「エリザベート様にはバレてたよ」
それ自体は驚くことではない、遅かれ早かれカノン・ウィザーノットとリリが同一人物であることは知られていただろう。リリはそう伝えた。
「せっかくマリエルが考えてくれた架空の人物なのに、ごめんね?」
「謝らんといて、むしろ謝るのはウチの方や! もっと徹底的にリリのことを隠すべきやった……」
マリエルは悔しそうに俯いた。そんな彼女をリリはそっと抱きしめる。
「大丈夫だよ、マリエル。心配してくれてありがとうね」
バレたからと言って悪いことばかりではない。リリはエリザベートから聞いた話を伝え、公国でリリが貴族から害される可能性は限りなく低いと思う、と自分の考えを話した。その上、大公家が味方になってくれ、エリザベート様がその窓口になってくれるようだ、と明かした。
その話を聞いたマリエルが間を置かず口にする。
「それは良かった……大公様が後ろ盾になって下さるんやったら安心や。ほなら、美容治癒は本名でやってもええかもしれんな」
「そこはマリエルに任せるよ。私はどっちでも従うから」
「うん。考えてみるわ」
次回以降の施術についてもスケジュールが決まったら教えて欲しいと言って、リリは自宅に帰った。
その日の夕食後、ミリーとジェイクに今日あった出来事を話した。
「大丈夫なのか? ウラは無ぇんだよな?」
「うん。直接は言われなかったけど、たぶん大公様はアルゴのことを恐れてると思うんだよね」
「わふっ!?」
油断していたアルゴは自分の名が急に出てきたので変な声を出した。
「ウフフ。アルゴは、私に何かあったら公国を許さないでしょ?」
『何かある前に滅ぼすな』
「アルゴは何て言ってるの?」
「私に何かある前に国を滅ぼすって」
「頼もしいわね!」
「物騒だなぁ、おい……」
アルゴだけではない。ラルカンだってリリを守る気満々なのである。
「つまり、神獣の怒りを買いたくない、ってこったな」
「うん。だから、本当に善意で言ってくれてるんだと思う」
「私の娘が大公家と縁が出来るなんてねぇ……。私もそのうちご挨拶するべきかしら」
「お母さん、結婚するわけじゃないんだから!」
「けっ、結婚!?」
「だからしないってば!」
オルデン家は今日も平和である。
「何にせよ、連絡が取れるようにしておくのはいいと思うわ」
「そうだな。害はなさそうだ」
「だよね。そしたらエリザベート様に手紙を書かなきゃなんだけど、貴族様に出す手紙の書き方って分かる?」
ミリーとジェイクはそっとリリから目を逸らした。
「……うん、アリシアに教えてもらうから大丈夫」
経験豊富で頼りになる二人でも、さすがに貴族に出す手紙の作法は知らなかった。その後リリは下書きを書き、伝言板でアリシアーナに添削をしてもらって仕上げた。伝えたかったのは「有難く連絡先を登録させていただきます」という至ってシンプルな内容なのだが、貴族の手紙は時候の挨拶から始まり、ご機嫌を伺う美辞麗句を並び立て、ようやく本題に入ってからまた舌を嚙みそうな文言で挨拶を述べるという、リリからすれば紙とインクと時間の無駄でしかないものだった。二度と貴族に手紙は書かない、と固く決心した。
貴族に手紙を出す際には「使者便」というのを利用する必要があるらしい。道端のポストにポイっと投函というわけにいかないそうだ。そもそもポストというものが存在しない。ちなみに平民の手紙は「郵便」で良いらしい。全く訳が分からない。使者便も郵便も平民区の各地にある「書状送付取扱所」で出せるのが救いだ。
翌朝、書状送付取扱所で使者便を利用し、エリザベートに手紙を出したが、大公家に手紙を送る場合は五百スニード(五万円)かかると言われ、リリは慌てて近くの商業ギルドまでお金を下ろしに行く羽目になった。こんなことならあの場で了承の返事をしておけば良かった、と悔しいやら腹立たしいやらで、誰かに愚痴を言いたくて堪らなかった。
『珍しくイライラしておるな』
『貴族ってめんどくさい!』
プリプリしながら歩くリリの横でアルゴが気を遣っている。
『魔法でも撃ちにいくか?』
ストレス発散で魔法をぶっ放す。いいかも知れない。
『行く! 連れて行ってくれる?』
『もちろんだ』
アルゴは嬉々としてリリを背中に乗せるとすぐに隠密を展開。全力疾走でファンデルから飛び出す。
『いつもより速い!』
『問題ないか?』
『うん!』
絶妙な風魔法のアシストで、リリに当たる風は適度に調整されている。風景は流れる帯となり、まるで飛んでいるようだ。しばらくするとその爽快感と高揚感のおかげですっかり気分が良くなった。
『着いたぞ』
「わぁ……」
そこはスナイデル公国最北端、海に面したベンドラル地方の中でも、人が寄り付かない西寄りにある断崖絶壁の上だった。夏の盛りの一歩手前、遥か彼方まで広がる海面は陽光を反射してキラキラと輝いていた。今世で初めての海だ。懐かしい潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「アルゴ、連れて来てくれてありがとう」
『構わん。さあ、雷神殲怒を放ってみよ!』
おおぅ。そう言えば、海に向かって神位魔法を撃ってみるって話が前に出てたね。
「えーと、雷球を大きくしたらいいの?」
『うむ! 思い切りやってみよ!』
「う、うん」
雷球を初めて撃った時は、静電気のおもちゃをイメージした。それを大きく……う~ん、何だろう? 発電所は大き過ぎると思うから、変電所? うん、前世で昔住んでた家の近くにあった変電所でいいか。
「雷神殲怒!」
その瞬間、魔力が半分くらい抜けた感覚があった。そして出現したのは直径五十センチほどの雷球。思ったより小さい。しかし球の内側で迸る稲妻の圧が桁違いに感じる。
『リリ、早く放て! 出来るだけ遠くへ!』
アルゴの声で我に返り、リリは海に向かってそれを放った。
リリが立つ崖は海面から約二十メートルの高さ。高低差もあって、リリが放った魔法は百メートル以上離れた海面に着弾した。
その瞬間、海が爆発した。
「目、目がぁぁあああ!」
視界が真っ白に染まり、リリには何がどうなっているのか見えなかったが、アルゴは海が割れるのを見た。着弾点から遥か先まで雷が迸り、左右に崖と同じくらいの高さをした海水の壁が出現。それが五百メートル以上続いている。それで海が割れたように見えたのだ。
夏の日差しを反射して穏やかだった海は、一瞬にして地獄絵図と化した。海中深くまで達した雷は一部海底を削り、あちこちで大きな渦が発生している。優しく押し寄せていたさざ波は荒波となって白い波頭を激しくぶつけ合っていた。
やがて、プカプカと周辺を泳いでいた海の生き物が一面に浮かぶ。その中には体長二十メートルを超えるクラーケンさえ混じっていた。
「アルゴ! どこ!?」
リリは手をわたわたと動かしてアルゴを探す。天変地異の如き海の様子から無理矢理視線を剥がし、アルゴはリリの手に自分の体を押し付けた。
「いた! 良かったぁ……」
リリは目に涙を滲ませながらアルゴにぎゅっと抱き着く。あまりに強過ぎる閃光をまともに見たせいでまだ視界が戻らないようだ。恐らく自分の目に治癒を掛ければすぐに視界は戻るはずだが、この惨状は見せない方が良いかも知れない。そう思ったアルゴは徐にリリの襟を咥え、自分の背に乗せた。
「アルゴ?」
『天気が崩れそうだ。ここから離れよう』
「え? すっごく天気良かったのに……ねぇ、私の魔法どうだった?」
『文句のない出来栄えであったぞ』
「そっか、良かった」
背に乗ったリリが首の辺りにしがみついたのを確認し、アルゴは踵を返して南へ向けて走り始めた。五分ほどで視界が戻ったリリはアルゴの背中でホッとしていた。
一時間ほどで自宅に戻ったリリを待ち受けていたのは、マリエルが誘拐されたという報せだった。




