◆8
「トリスさん、セイディさん、ようこそいらっしゃいました」
館には片眼鏡をつけた老執事がいて、トリスとセイディを見るなり顔を綻ばせたのだが、ルシィを見るなり警戒の色を滲ませた。
「こちらは?」
「ルシィです。彼女のことでクリフ様にご相談があって参りました」
セイディが丁寧に説明すると、老執事はうなずいた。
「……お取次ぎ致します。応接室の方でお待ちください」
「ありがとう、モリンズさん」
老執事はモリンズというらしい。トリスが礼を言った。
メイドに連れられて応接室へ向かう。長椅子に座り、薔薇の浮き出し加工の壁紙を眺めながら待つと、茶が運ばれてくるよりも早く、その人はやってきた。待たされたとも言えないくらいに早かったのだ。
扉を開けた男は、確かに常人とは違った。
藍色の上着と白いベスト、皮革のブーツ、清潔感のある身だしなみに育ちの良さが表れている。
細身の長身で、顔立ちは絵に描いたように整っていた。ただ、まっすぐな髪は白銀で、目と同じ赤いリボンでまとめ、背中に流している。肌の色も日焼けなどしたことがないのか、相当に白い。
容姿を口にされるのが嫌いなわけだ。白銀の髪に赤い目とは悪目立ちしたことだろう。
しかし、それよりも、ルシィは息が詰まるほど強い魔力を彼から感じていた。これが人であるはずがない。人間が持ち得る魔力の量ではないのだ。
この男には魔族の血が混ざっている。ルシィはそれを半ば確信した。
「クリフ様、急に来てすみません」
トリスが人懐っこい笑顔を向けて立ち上がった。セイディも立ち上がる。
「お忙しいところ、ごめんなさい」
けれど、クリフは二人に微笑み返すのではなく、険しい顔をしてルシィをじっと見つめていた。
正体がバレたのかとヒヤリとするが、今のルシィには魔力がない。初対面で気づかれるとは思えなかった。
「ルシィ、ご挨拶しなくちゃ」
セイディがこっそりと耳打ちした。未だ腰を上げないルシィが気に入らなくてその表情なのか。
仕方なくルシィは立ち上がると、スカートをつまんで優雅に一礼してみせた。
「初めまして」
魅惑の微笑みを浮かべているのに、クリフは仏頂面である。
またか。そうだ、クリフはトリスの親戚だった。
この血統はルシィの魅力が伝わらないのだ。嫌な一族だ。
クリフは、スタスタと室内に入ってきたかと思うと、ルシィの前に立って腕を組んだ。やはり、そこにいるだけで溢れ出るような濃い魔力を持っている。
この魔力、どうにか使えないものだろうか。
ルシィが不穏なことを考えたせいか、クリフは態度を軟化させるどころかさらに厳しい目をした。
「君は名乗りもしないのか?」
礼を欠いていると言いたいらしいが、正直に言ってルシィが敬うべき人間などいない。皇帝だろうと国王だろうとただの人間だと思っている。
領主代理というが、精々が貴族なのに偉そうだ。
ルシィはくすりと笑った。
「ルシィよ。これでいいかしら?」
敬語も使わないルシィに、セイディが慌てていた。腕を引っ張られる。
「ルシィってば!」
しかし、クリフは眉を跳ね上げただけで怒鳴り返したりはしなかった。
「君はどこか名のある家の令嬢か何かなのか?」
態度がでかいのは、身分が高いからかと言うのだろう。そこへトリスも割って入った。
「い、いえ、その、ルシィは記憶がないんです。嵐の日に町の近くで倒れていて、それで保護したんです。クリフ様にお伝えしないわけには行かないので、こうして連れてきたんですけど」
すると、クリフは、ほぅ、と小さくつぶやいた。
じっと探るようにルシィを見下ろすので、ルシィは目を逸らさずにクリフの赤い目を見た。
赤いふたつの宝石のようだ。飾っておくにはいいが、こんなにも物を言うなら要らない。
「何も覚えていないというわりには不安そうでもないが」
「あら、これでも不安で胸が張り裂けそうなのに」
真顔で言ったからか、クリフは信じなかった。
実際、どうすれば魔力が戻るのか、魔力が戻るまでどうしていればいいのか、考え出したらきりがない。ただ、不安とは縁遠い暮らしをしていたから、いざとなって不安に馴染めないだけだ。
「あ、あの、しばらくうちで様子を見てもいいでしょうか? すぐに記憶が戻るかもしれないし」
セイディが優しいことを言ってくれた。しかし、クリフは首を縦に振らない。
「記憶喪失だからといって、不審な人間を町に滞在させることはできない。放り出すようなことはしないが、王都に連絡を取り、しかるべきところへ預けよう」
「…………」
王都と。
放り出されないのはありがたいが、そこにルシィの顔を知っている者が万が一いたらどうしようか。これは逃げた方がいい流れかもしれない。
「不審って……。ルシィはか弱い女性ですよ」
トリスも困ったようにつぶやいた。兄妹に対し、クリフはふと表情を和らげる。
可愛がってくれていると聞いたが、それは本当のようだ。ルシィに向けるような厳しさはない。
「当人よりも背後に問題を抱えているかもしれない。私はこの町を預かっているに過ぎないから、軽はずみなことはできないんだ」
諭すように言った。まあ、言っていることは真っ当だ。
兄妹はしょんぼりと肩を落とす。
「すぐに追い出せとは言わない。段取りがつくまではお前たちの家に置いてやるといい」
ポン、とクリフはトリスの肩に手を置く。トリスはさらに何か言いかけて、やめた。
クリフはそれ以上、ルシィの件に関しては話を続けさせてくれなかった。兄妹も諦めて帰るしかない。
帰り道は二人ともルシィ以上に落ち込んでいて、何故二人がそこまで落ち込むのか、ルシィの方がよくわからない。他人事でしかないのに。しかも、昨日知り合ったばかりの他人だ。
食堂に戻ると、ハンナに事情を説明しながら、トリスは不意に立ち上がった。
「また明日、お願いしに行ってみるよ」
「え? 何を?」
ルシィの方が首をかしげた。話は終わったはずだ。
しかし、セイディはトリスに同調する。
「あたしも。ここまで関わって、あとは人任せになんてできないわ」
この時、一番冷静だったのはやはりハンナだった。年の功か。それを言ったら、ここで一番の年長者はルシィかもしれないが。
ハンナはふぅ、と息をつく。
「落ち着きなさい、二人とも。自分たちの想いだけで突っ走るんじゃないよ。何が一番ルシィのためになるのかを考えなさい」
王都に見送った方がルシィのためだと、少なくともハンナは思うのだろう。それは当然かもしれない。保護するというのだから。
「でも……」
セイディは口ごもりながらルシィに目を向けた。
「ルシィは王都へ行きたい?」
「いいえ、ちっとも」
それを聞くなり、ハンナの方が困った。申し訳ないが、行きたくない。
「ほら。やっぱりこの町に残れるようにクリフ様を説得しないと」
聞き分けのない息子をハンナは目で咎める。
「あまりクリフ様を困らせてはいけないよ。あの方は無慈悲で仰っているわけではないんだから」
「それは、わかってるよ……」
「さあ、夕食の支度をしてしまおうかね。セイディ、手伝っておくれ」
ハンナは立ち上がると、ルシィに表情で詫びていた。本当は力になれたらよかったと思ってくれたのだろうか。
偶々知り合っただけなのに、そんな情けをかけていたら、この家は捨て犬捨て猫だらけになるのではないのか。
それとも、犬猫ではなくて人間だから情が移ったのか。記憶のない、可哀想なルシィだから。嫌になるくらい善良な親子だ。
ハンナとセイディが店の台所に入ると、トリスは座り直した。ルシィは机を挟んでトリスと顔を突き合わせる。
「もう少し、ギリギリまで手を打ってみるから」
トリスは兄妹喧嘩をして叱られた後の子供のように見えた。だからか、ルシィは少し笑った。
「そんなにしてもらっても、私は宝石しかあげられないわ。他にどうしたらいいの?」
それを言ったら、トリスはどこか傷ついたふうだった。
「どうしたらって、何かがほしいわけじゃないし。このまま別れたら、どこかでルシィが傷ついているんじゃないかって思えて、手を放していいのかわからないんだ」
「あら素敵。それって口説いてくれているのかしら?」
フフ、と笑うと、トリスはまた傷ついた顔をした。
真心に対し、ルシィが真剣に向き合わないからだろうか。けれど、彼らの心を信じる根拠がない。
親切な人たちだとは思う。誰に対しても優しいのだろう。
しかし、ルシィは普通の人間ではない。彼らの普通に当てはめて考えることはできない存在だ。彼らがそれを知らないだけで。
――やはり、ここは素直に出ていくべきかもしれない。