◆7
ルシィはそのままベッドで休ませてもらい、朝を迎えた。
昨日はルシィの看病のために食堂を臨時休業にしてくれていたらしい。店はいつもハンナとセイディとが切り盛りしているそうだが、手が空いている時はトリスも手伝うという。
朝と昼しか店は開けない。夜にはどうしても酒を求められるので、酔客が増える。若い娘を持つハンナはそれが嫌なのだそうだ。
二日も続けて休めないので、今日は食堂を開けた。二階で待っていたルシィは、あまりの騒がしさにひどく居心地が悪くなった。なんだってこんなに騒ぎながら食事をするのだろう。
ルシィに用意されたキノアのリゾットを食べながら不思議に思った。最近の人間はよくわからない。キノアのプチプチとした食感と甘みを味わいつつ、ルシィは首をかしげていた。
店のざわつきが静まってからしばらく経つと、セイディが二階に上がってきた。
「そろそろ出かけられそうだけど、支度はできてる?」
領主館へ行くのに支度などない。ただ行くだけだ。
「ええ、いつでもいいわ」
「そう。それなら行きましょうか」
セイディに促され、階段を下りる。下でトリスが待っていた。
「階段、気をつけてね」
細やかな気遣いが背中からするが、どう気をつけろと言うのだろう。――と、そこでふと気づく。ルシィの家は平屋だった。
その上、普段からフワフワと浮いていたルシィに、階段の上り下りの経験はないのである。
「あら」
いきなり踏み外した。この階段は急すぎるし、幅も狭すぎて足を乗せづらい。なんでこんな設計なのだろうかと文句を言いたいが、その前に落ちた。
「ルシィ!」
セイディの悲鳴のような声がした。
けれど、ルシィは階段に叩きつけられることなく、身を乗り出したトリスがルシィを抱き留めてくれた。小柄だがやはり男だけあって力はある。それに素早かった。
「危なかった!」
密着したトリスの心臓はドキドキと早まっていたが、それは驚いただけだろう。ルシィのような美女を抱いていても顔を赤らめもしない。つまらない男だ。
助けてもらいながらも、チッと舌打ちしたいような気分で礼を言う。
「ありがとう、トリス」
ためしに色香を漂わせつつ微笑を向けたが、眩しいほど純粋な笑顔で返された。
「落ちなくてよかった。まだ調子が悪いなら別の日にすればよかったかな」
「……踏み外しただけだから、平気よ」
再び屈辱を感じつつ、ルシィはトリスから離れた。
狭い踊り場から下りてきたセイディに顔を向けると、少しの違和感があった。
「怪我がなくてよかったわ」
そう言った、セイディの笑顔は硬かった。
初めて足を踏み入れた食堂は、客の食べ散らかした皿がいくつか置かれたままだった。ハンナがそれを集めながらテーブルを拭いている。
店はそれほど広くはない。カウンターとテーブルが四つ。一般的な食堂がどのくらいの規模なのかは知らないが、ルシィから見て狭いと思う。
「後片づけ、お母さんにだけさせてごめんね」
ハンナの顔を見た途端、セイディは先ほどの違和感が嘘のように元通りだった。〈いい子〉のセイディだ。
「あたしは脚が悪いから坂道は堪えるし、ルシィのためにはあんたもいた方がいいからね。トリスは気が利かないから」
「え、それどういう意味?」
「言葉の通りだよ」
息子に手厳しく言うと、ハンナはすぐに笑った。
「さあ、早く行っておいで。クリフ様によろしくね」
うん、とセイディもうなずいた。
食堂の入り口の扉を開けると、光が眩しく感じられる。それと同じくらい、ルシィは人の多さに圧倒された。
ハーフティンバーの美しい町並みを人々が行き交う。ルシィは呆然とそれを眺めていた。
この店は大通りにあるらしい。正面の道は広く、荷物を積んだ荷車が行き交ってもまだ道幅には余裕がある。
「どうしたの、ルシィ?」
セイディが首をかしげている。ルシィは気後れしたことを覚られないように言った。
「なんでもないわ。行きましょう」
恐る恐る、石畳の上に足を下ろす。草の上より歩きやすいかもしれない。
馬車も通り過ぎた。馬がルシィの方を見て、何か言いたげだが鞭打たれてそのまま走っていく。ひどい扱いだ。暴走してやればいいのに。
「よそ見してると危ないからな」
気になるものばかりできょろきょろしているルシィに、トリスが苦笑していた。
すると、セイディがルシィと腕を組んだ。転ぶと思ったのだろうか。
「はぐれないようにね。この町の治安はいい方だけど、港から上がってくる船乗りとか、荒っぽい人がいないわけじゃないし」
セイディの腕は柔らかくてあたたかい。ルシィは振りほどきたいとは思わなかった。不思議と不快感はない。可愛い女の子だからだろうか。
ルシィも微笑んで返す。
「ありがとう、セイディ」
二人で腕を組んで歩き、その後ろをトリスがついてくる。道行く人たちがチラチラと二人を振り返った。
見慣れない女がいると思ったのかもしれないが、ルシィの美貌にぼうっとしている。この反応が正しいのであって、トリスがちょっと変わっているのだ。ルシィはほっとした。
大通りをそのまままっすぐ歩いただけで、曲がるところはないようだ。しかし、階段を上がった先の道は小高い丘のようになっていて、緩やかな道が館を二周ほどするような形で伸びていた。
白亜の館から奥は断崖の道が伸びている。それは灯台へ続いていた。
ルシィがリドゲートの背から見つけた灯りはあれだろう。
「急ぐ時は馬車を頼むけど、普段は歩いていくんだ。ルシィが行けそうなら歩こうか」
トリスが少々不安を滲ませながらルシィを見るから、これくらい歩けると意地を張った。
「そんなに遠くないじゃない。全然平気」
――まあ、こんなことを言って後悔するだろなとは薄々感じたけれど、その後悔は思った以上に早く訪れた。坂道にヒールはいけない。
「ルシィ、大丈夫?」
セイディまで心配そうに顔を覗き込んでくる。
「へぃき」
声がかすれて、説得力がない。それにフゥフゥ言っている。
セイディも体力がありそうには見えないが、慣れているのか坂道にも動じない。
「ちょっと休むか?」
トリスが足を止めた。休まないで行ける、とは言えなかった。立ち止まって肩で息をしていると、トリスは館を眩しそうに見上げた。海風がサラサラと頬を撫でる。
「クリフ様は学生の時に宮廷魔術師団から引き抜かれた、とにかくすごい方なんだ。国内でトップクラスの魔力をお持ちで」
この国で領主になれるのは、そうした魔術師だけなのかもしれない。魔術で発展した国だから、魔力が物を言う。
そんなクリフのいとこだというトリスからは、まったく魔力を感じ取ることができない。セイディは一般的な微量、ハンナからもやはり皆無だ。シェルヴィー家は魔術師には向かない家系らしい。
だからか、クリフには憧れもあるのだろう。
「ふぅん。それほど優秀な魔術師なら、王が放さないのではないの?」
冷静に考えればそうだろう。王を護るべく宮廷魔術師団にいるべきではないのか。
すると、トリスとセイディは顔を見合わせた。何かあるのかもしれない、とルシィは密かに思う。
「この町は海を挟んでいるけど、一番オーアの跡地に近いでしょう? だから、魔族に狙われやすいの。それで、前の領主様はここをクリフ様に押しつけて安全なところに避難していて」
召喚術に失敗し、魔界との道を繋いだまま滅んだオーア王国。
すでに責任も問えないが、未だに迷惑な話だ。
前領主もクリフに町を押しつけて逃げているというのが穏やかではない。
「なるほどね」
けれど、それだけがクリフがここにいる理由だろうか。
ただ一人で魔族を退けるほどの力を持つとしたら、それは人が持つには過ぎた力だ。一人でどうにかするという話ではないのだろう。何人か任されていて、その魔術師を束ねているということかもしれない。
あれこれと考えているルシィに、ふとセイディが言った。
「クリフ様はとてもお綺麗な方なの。でも、容姿のことを口にされるのがお嫌いだから、ルシィも気をつけてね」
男に綺麗だと言って喜ばれないのはわかる。逆に、ルシィはいくらでも言ってほしいのだが。
「そうなの? 気をつけるわね」
気のない返事をした。
とりあえず、気に入られた方が得ではあるが、気に入られ過ぎても厄介だ。町から追い出されない程度に関わればいい。
軽く考えていたルシィだが、クリフと会ってその考えは一変した。
作中の薬草は実在するものとしないものが混在ですが、料理や食材に関しては実在するものばかりです( *´艸`)
今回は一般的じゃない食材も結構入れてみました。今後もそんな料理が多いです。