◆20
ルシィが寝かされているベッドのそばにはアンセルムがいて、さらにその後ろに医者らしき男女が控えている。
「起きたか」
アンセルムが静かに言った。
ひどく疲れているようだ。若々しかった顔がくすんで見える。
ここはセーブルだろうか。
よくわからないが、この部屋の内装は豪華で、あの船を思い出す。
「……成功したの?」
仰向けに天井を眺めながら問いかけた。アンセルムは答えず、医者たちにルシィの状態を調べさせる。
医者たちがうなずくと、アンセルムはようやくほっとした様子で医者を下がらせた。近くにあった、背もたれが盾形の椅子に腰かけてルシィと目線を合わせる。
「俺の術は掻き消え、魔界の門は塞がった。少なくとも、これであそこから魔族が出てくることはない。お前のおかげだ」
「あの術が消えたなら、あなたは別の召喚術が使えるようになったんじゃない?」
この男は単体でも厄介なのだ。今のルシィにはもうアンセルムを抑える力はない。
だからそれを聞いておきたかったのだが、アンセルムは複雑な笑みを見せた。
「召喚術はもう二度と使わない。こりごりだ。それに、俺はもうセーブルに馴染み過ぎている」
オーアも滅び、召喚術の知識はアンセルムと共に葬られることになる。
きっと、それでいいのだ。第二、第三とこういう男を生まないために。
「術が消えて、あなたも不死というわけではないのでしょう? 残りの人生はセーブルで生きるのね」
「あの術が消えた時、俺の命も潰えるかと考えていた。ところが、まだ生きている。今後のことは正直に言って考えていなかった」
これは本音だろう。悲願が叶い、今のアンセルムにはまだ現実味がないのかもしれない。
アンセルムはルシィのことをじっと見つめる。
ルシィの目は、今、どんなふうになっているのだろう。あまり見られたくなかった。
「ルシエンヌ、本当にアジュールに定住するのか? お前の気が変わるなら、お前のことは俺が引き受けてもいい」
「結構よ。あなた、皇帝なんだから奥さんいっぱいいるんでしょう?」
「…………」
黙った。半分冗談だったが、一体何人いるのだろう。
「私はあなたの恩人よね? 恩人の頼みよ。アジュールのシェブロンに連れていって」
アンセルムはほんの少し寂しそうに見えた。それくらいで絆されたりしないけれど。
「この船はすでにシェブロンへ向かっている」
「あら、ここって船の中なのね」
「そうだ。お前が乗り込んできたあの船だ」
「早く着けるのならなんだっていいわ」
あれだけ頑丈な船なのだから、少々の風に影響されることもなさそうだ。
とにかく、早くシェブロンに辿り着きたい。クリフたちに会いたい。
今のルシィの願いはそれだけだ。
すると、アンセルムは苦笑した。その表情のわけはなんだろうかと考える。
「お前は変わったな。人間ごときのために大切な魔力を自ら手放し、命まで危険にさらした。何がお前を衝き動かした?」
「美味しい食事かしら」
茶化してはいない。本気でそう思っている。
もちろん、それだけではないが。
「私はずっと、人間って馬鹿な生き物だと思っていたわ。どっちが優れているかなんて、大差もないくせにいがみ合って争って、本当にくだらない。でも、人間って馬鹿ばっかりじゃなかったのよ。私が世間を知らなかっただけ。見返りも求めず他人に尽くしたり、幸せを与えてくれたり、優しく包んでくれたり――あの町でたくさんの感情を教えてもらったわ。あんなの、関わらないでいる方が勿体ないじゃない」
ルシィの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのか、アンセルムは目を瞬いた。
「よい出会いをしたらしいな」
「ええ、とても」
たくさん喋ったら疲れた。ルシィが目を閉じても、しばらくはアンセルムが立ち上がる気配はなかった。
ルシィの寝顔を眺めていたのかもしれない。
最後にひと言。
「どこにいても、お前の幸せを祈る。さようなら、ルシエンヌ。……ありがとう」
――そう、聞こえた。




