◆19
体がバラバラになりそうだ。
頭を殴られた時よりも苦しい。怪我よりも病気に近い状態かもしれない。
どうしてこんな目に遭っているのだろう。
こんなに苦しいのなら、もう生きなくてもいいような気がした。
無理は嫌いだ。死んだら苦しくなくなる。
もともと、楽しいことだけを集めてルシィは生きていた。
苦しみに耐えたり、もがいたり、そんなことは似合わない。したくない。
それなのに、どうしてまだ生にしがみついているのだろう。
ルシィの意識はフワフワとどこかを漂っていた。
魔女は人と同じところには逝かないのかもしれない。
それなら、互いが魂になったところでもうクリフたちと会うことは二度とないのか。
せっかく出会えたのに残念だ。
フワフワと漂う。
――あれは、誰だ。
遠く、意識の底に人が見える。
あれは、ハンナだ。
死に逝く前に、頑張ったルシィにご褒美として皆を見せてくれるのだろうか。
『ルシィが戻ってきたらたくさん食べさせてやりたいから、今から仕込んでおくんだよ。うん、膝の具合かい? それがね、びっくりするくらいいいんだ。ルシィの薬は魔法みたいによく効いたよ』
――ああ、よかった。古傷がよくなったらしい。気がかりがひとつ減った。
いや、そうだろうか。本当に心残りはないのか。
ハンナが仕込んでくれている料理を食べなくては。
あんなに手をかけて用意してくれているのに、あの料理が完成しないなんて。
これが心残りでなくてなんだというのだろう。
――また、影が見える。
ジャムの空き瓶に向かって語りかけている若い娘。
『ねえ、ルシィ、あなたに話したいことがたくさんあるの。このお薬、使わなくて済んだのよ? ルシィに真っ先に報告したいの。だから、早く帰ってきて』
セイディ。
一カ月会わなかっただけなのに、セイディはとても綺麗になっていた。
これでは、三日に一回だったところが、毎日男をふらなくてはならなくなる。
――あのトリスが、なんて言って告白したの?
すごく気になる。
夜通し話を聞きたい。セイディに会いたい。
――あれは、トリスと。
『黒猫って魔女のしもべなんだろ? なあ、魔女を呼んでよ。俺たち皆、魔女を待ってるんだ』
町角で黒猫のリリスを撫でているトリス。
リリスはにゃあと呆れた声を上げている。
――しもべじゃないの。友達なのよ。
魔力もないただの人間のトリスが、ルシィと一緒に敵の船に乗り込んだ。
見た目よりもずっと勇敢なトリス。
本当に、父親のような騎士になるのが相応しいのかもしれない。
けれど、地位や身分だけで価値を決めるものではない。
トリスは今だって十分、立派な騎士だとルシィは思う。
――そして。
『いいえ、父上のお怒りは当然です。それでも私を息子として家に置いてくださったことに感謝こそすれ、恨んでなどおりません。――どうか、そのようには仰らないでください。けれど、父上のお心を知れて嬉しくも感じております』
シェブロンの町がセーブルの兵に占拠され、ノックス卿は焦ったのだろう。このままクリフと二度と顔を合わせる機会がなくなるかもしれないと。
このままでいいのかと自問した挙句、頑なだった心に綻びを入れた。
――以前作った仲直りの薬をクリフにあげようかと思ったけれど、要らないらしい。
クリフがどんなに喜んでいるだろうかと考えると、ルシィも嬉しかった。
――嬉しくないの? どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?
長年の確執がやっと氷解したというのに、クリフの表情は晴れない。青白い顔をしている。
屋敷の寝室で、クリフはモリンズが差し出したワインを受け取っていた。
クリフが館にいてアルコールを飲むのは珍しい。
『どんな理由があっても彼女を行かせるべきじゃなかったと後悔ばかりだ。私はどうしたらよかった?』
――戻ると約束したのに。
戻らなかったらルシィは嘘つきだ。
クリフはきっと、いつまでも戻らないルシィをずっと待ち続ける。
本当に忠犬のような男だから。
ずっとルシィを忘れずにいてくれる。
ルシィがいなくても、この世に存在していたことを覚えていてくれる。
手に入れた平穏がルシィの犠牲の上にあるのだと思ってくれる。
それなら、ルシィは悲しくない。命を賭けた甲斐はあったのだ。
というのはルシィの言い分である。
クリフが納得するものではない。ルシィはクリフたちが覚えていてくれるのならば幸せだったと思うけれど、遺された方は違う。
帰らないルシィをいつまでも待つ側の人間は幸せではない。
現にルシィなら嫌だ。帰ると言ったのなら約束は守れと憤慨しただろう。
約束は果たすためのもの。それならば、どんな形であれルシィは命を諦めてはいけないのだ。
帰って、あのプロポーズの返事をしなくては――。
ここはルシィの意識の中だろうに、寄り添うような気配を感じた。
「ルシエンヌ、あなたはいい年をしてまだお寝坊さんね?」
失礼なことを言われた。この口の悪さには覚えがある。
フワフワと漂いながら、ルシィは目を開けずに答えた。
「遺伝でしょう?」
すると、フフ、と笑い声が聞こえた。
「起きなさい。やり残したことがあるのでしょう?」
「そうね」
目を開けても、声の主は見えなかった。うすぼんやりとした白い影があるだけだ。
白い影は言った。
「私の母――あなたのおばあさんね。聖女と崇められるのが苦しくなって逃げたのではないのよ。おなかに私が、愛する人との子がいたから逃げたの。聖女は子を産めば力を失うから、認められないとわかっていたって」
「初耳。そんなベタな駆け落ちだったなんて」
「私も母に同じことを言ったわ。ねえ、あなた、この人の子供がほしいと思える相手を見つけたのでしょう? だったら、こんなところで寝坊している場合じゃないわ。母親になってみなさい。そうしたら、その子がたくさんのことを教えてくれるのよ。もう少しくらいはお利口さんになれるでしょうね」
相変わらず口が悪い。ルシィはそれが懐かしくて可笑しかった。
「お堅い人だから、まず結婚から始めないといけないの」
「そんな相手を選んだのはあなたでしょう? ますます寝ている場合じゃないわね」
「ええ、もう起きるわ。お母さん、ありがとう」
フワフワ。
フワフワ。
これはルシィの記憶が見せた夢なのか、母の魂が不甲斐ない娘の尻を叩くためにあの世からやってきたのかはわからない。
そうして、目を覚ました。




