◆16
セイディの、鏡を持つ手が震えていた。
彼女にとってその鏡は身近なもので、急にそんなことを言われても戸惑うだけだろう。
そして、いくら両親の故郷であろうと、こんな手荒な真似をされて信じきれるものではない。
セイディは困惑を目に浮かべ、鏡のペンダントを首から外した。それをルシィに差し出す。
「ルシィ、本当にここに何か隠されていると思う?」
ルシィはセイディのぬくもりの残る鏡を受け取り、うなずいた。
この鏡は無機質ではない。魔力が感じられる。
原理はわからないが、魔科学によって加工されたものだろう。鏡のように姿を映すだけで、本来は鏡ではないのかもしれない。
アンセルムの銃を持つ手が震えていた。
「ルシエンヌ、それを私に寄越せ」
その言い方が気に入らなかったので睨んでやった。
「これはセイディのものよ。セイディ次第だわ」
すると、セイディは戸惑いながらつぶやいた。
「もし本当にこれが世界の役に立つのなら渡してもいいの。ルシィ、信じられる?」
「そうねぇ。魔界の門を塞ぐっていう点で彼は嘘を言っていないわ」
当然だ、とアンセルムは吐き捨てた。ルシィは、彼が手にしていた銃を魔法で奪い取った。
ウィシャートの分もだ。ふたつを手を使わずに捻じ曲げ、壁にぶつけた。
アンセルムは驚かなかったが、ウィシャートは尻もちをついている。
「わかっているでしょうけど、絶対に悪用しないこと。もしその兵器を他国に向けるようなことをしたら許さないから」
「そんなことはしない。約束する」
アンセルムの顔は真剣だった。これは彼の悲願なのだから、嘘はない。
ルシィは鏡を緩く放り投げた。放物線を描くのではなく、鏡は浮かんでアンセルムのもとへ届く。
アンセルムの表情が昂りを見せた。ルシィといた時にあんな顔をしたことはない。
「これで、やっと……っ」
アンセルムは椅子に設置してあった装置を操作し、そこから出た細い光を鏡に当てる。
すると、光は反射することなく鏡に染み込み、鏡の裏側を突き抜けて宙に光で図を浮き上がらせた。
おかしな模様で、ルシィたちには理解できない。皆でただ茫然とその光の図を眺めていた。
次第にアンセルムとウィシャートの様子がおかしくなる。
「まさか、そんな……」
アンセルムの声には喜びよりも絶望が色濃く表れる。ウィシャートも青ざめて震えていた。
あれは設計図ではないのか。もしかすると、用意周到なマーシャルが用意した偽物だったのか。
「……それは兵器の設計図ではないの?」
ルシィが問いかけると、アンセルムは燃え尽きたようにかすれた声で言う。
「そうだ。これは間違いなくマーシャルの設計図だ」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするのよ?」
これに答えたのは、ウィシャートだった。
「放出エネルギー1701だと? 想定上、2250はなければ不可能だ。マーシャルが読み違えたか……?」
ゆるゆるとアンセルムがかぶりを振る。顔を上げるのも億劫だと言わんばかりに。
「いや、マーシャルの計算は間違っていなかった。ただし、この設計図を描いた時点での話だ。魔界の門は年々広がり、強力になっている。あの時点でこの兵器が完成していたら、確実に封じられた。十年以上の歳月をかけたせいで、この兵器ではどうにもならないところまで来てしまったらしい」
過ちは取り戻せない。
少しの希望を見せて、それでも運命は手の平を返すのだ。
翻弄され続けたアンセルムには、もう打つ手がないのだろうか。
絶望に浸るのは勝手だが、諦めてもらっては困る。責任があると口にしたのは彼自身なのだから。
「それで、どうするの?」
ルシィは手厳しい言葉を投げつける。
けれど、アンセルムからもウィシャートからも答えは返らなかった。誰もこの問いかけには答えられない。
本当はアンセルムはもうひとつの可能性を考え、それを呑み込んだのではないのか。
その策は無理だと。
ルシィは二度と同じ手は食わない。警戒しているルシィの力を奪うことはもうできないのだ。
それから、アジュールの魔術師の力を集めようとするのなら、ルシィが黙っていない。
アジュールとも全面戦争になる。それを行いながら溢れ出る魔族を討伐し、魔界の門を閉じるというのはもっと不可能だ。
「……俺が死ねば術は綻ぶ。ルシエンヌ、お前なら俺を殺せるか?」
嫌なことを頼む。この男は愚かだ。
これにはクリフが、ルシィを庇うようにして立った。
「そんなことを頼むのはやめて頂きたい」
ルシィは目を瞬かせ、クリフの背中とアンセルムとを見比べた。
「他に方法が――」
「魔女だろうと、彼女は心優しい。あなたを殺して気に病まずにいられるとは思えません」
実際に優しいかどうかは横に置いておいて、それでもクリフに優しいと言ってもらえると悪い気はしなかった。素直に嬉しい。
アンセルムは、クリフがルシィのことをわかったふうに語るのが気に入らなかったかもしれない。
「必要ならばルシエンヌは……」
「嫌よ。私、血を見るの嫌いだもの。大体、呪われたあなたなのよ。私の力でも無理でしょう」
アンセルムは今でも誇り高い。
もっと泥臭く生きていけばいいものを、華々しく散ろうとする。そういうところが勝手だ。
ルシィはため息をつき、クリフの背中を抱き締めた。
「ねえ、私、いずれあなたのところへ帰るから、待っていてくれる?」
これを言ったら、クリフの体がぎくりと強張った。
振り返ろうとしたクリフから手を放し、ルシィはアンセルムに向けて言う。
「それで、私の力を使えばその兵器の出力は上がるのね?」
「……力と体を切り離さないと」
「あの石、砕いてしまったわ。もうないのかしら?」
「アージェントで採掘しているが、あれほどの容量がある石はそうそう出ないと聞く」
「じゃあ、小粒でいいから数を用意すれば?」
アンセルムとウィシャートは顔を見合わせた。その様子を見れば、まったく効果がないということもなさそうだ。
その代わり、とルシィは言った。
「私の力を使った後、絶対にラウンデルの森とアジュールには手出しをしないと約束しなさい。この約束を破るようなら、今度は私があなたたちを呪うから」
「そこまでアジュールに肩入れするか」
アンセルムが不可解そうにつぶやく。やはり、アンセルムにとってルシィはいつまでも昔のままなのだろう。
ルシィはにこやかに笑った。
「ええ。でも、いいでしょう? 魔力を手放す私は魔女ではなくなるんだから」
「そうだな。問題はないが、個人的に気に入らないだけだ」
「そんな図々しいことは言わないで頂戴」
少しも嬉しくないのでピシャリと言ってやった。
さすがにこれ以上、私情を挟むことはしない。アンセルムは静かにうなずく。
「これから、マーシャルの設計図に従って兵器を組む猶予が要る。その間にアージェントから〈魔封石〉を掻き集めよう。決行はその後だ」
「どれくらいの期間かしら?」
「下準備は常に進めている。早くてひと月だな」
「わかったわ。じゃあ、まずは皆をシェブロンに戻して。今後、セイディにちょっかいを出すのもやめて」
セイディというのがマーシャルの娘だと理解したようだ。アンセルムは興味もない様子だった。
「ああ。設計図は手に入った。今後は一切干渉しない」
それを聞き、セイディ本人だけでなく、トリスもクリフも安堵したはずだ。
ただ、この船の底にいて完全に安心できたものではない。
「さあ、行きましょうか」
ルシィは三人を連れてさっさと階段へ向かう。アンセルムは引き留めなかった。
途中、兵士に遭っても道を譲られた。魔女たちを通せと先に通達が行ったらしい。今、ルシィの機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。
船の中でクリフたちは無言だった。甲板まで出て陽の光を浴びると、ほんの少し表情が和らぐ。
この船からシェブロン港の波止場に跳ね橋は続いていない。ルシィは勝手に魔法で跳ね橋を出現させた。これに一番驚いていたのはセイディだった。トリスは空まで飛んだので少し慣れたらしい。
「大丈夫よ。渡りましょう」
「う、うん」
不安そうなセイディの手を取り、トリスが一緒に渡った。
クリフは何度もルシィを振り返りながら進む。ルシィはちゃんとクリフの後ろにいた。
波止場に降りると、どうやって来たのかアンセルムが船縁のそばにいた。
「支度ができたら迎えに行く」
「そうね。私はあの森の家で待つわ」
それを言うと、逆光で陰になったアンセルムの顔が意外そうに歪んだ気がした。
クリフは黙ってその会話を聞いているが、見た目ほどには落ち着いていない。
「わかった――」
セーブルの鉄の船は、ゆっくりと進み始める。もうこの港にいるべきではないのだから。
その船影をずっと見遣りながら、クリフは押し殺した声で言った。
「私も一緒に行こう」
「どこへ? セーブルまで? それとも、私の故郷の森まで?」
離れるのが不安なのだろう。けれど、戻ると言ったルシィの言葉を信じてほしい。
「どちらへも」
言いかけたクリフの言葉を遮る。
「あなたはこの町の領主でしょう? 国に状況の説明をしなくてはならないのではないの? それから、魔族だってまだ出るんだから、町を空けて遠出できるの?」
ルシィの言い分が正論すぎて、クリフは何も言えなくなってしまった。ただ眉を下げて困惑している。
あまりにしょんぼりとするから、そんな彼を慰めるつもりでルシィはそっとつけ足した。
「今は無理でも、いずれはあなたにも見せたいわ。私の故郷を」
ん、と小さく答え、クリフはうなずく。ルシィはそれに満足した。
「しばらくここを離れるけれど、戻ってきたらずっとここで暮らすのよ。そう決めたんだから、私の決意を疑わないで」
ただの人間として、この町に根づく。だから、今だけはあの森との別れを惜しませてほしい。
ルシィは手を伸ばしてクリフの頬に触れると、背伸びをしながらキスをした。セイディとトリスがぎょっとしているが、誰が見ていようと構わない。
手には箒を魔法で作り出し、それを横に倒して腰かけた。箒はふわりと飛び上る。
「じゃあ、いってきます!」
皆の声が聞こえないほど、ルシィはすぐさま上空へ浮かんだ。波止場の三人がとても小さく見える。飛び上って手を振っているのはトリスだ。クリフとセイディは、ただ静かにルシィを見送った。
アンセルムが率いる軍艦も遠くに見える。水飛沫を上げて進む様は、遠目にはクジラのようだ。
潮風を受けながら、ルシィはこの海をリドゲートと渡った時のことを思い起こす。
あの時と比べると、帰りはなんて快適だろうか。




