◆15
アンセルムは、すっと目を細めた。
ルシィの表情から何かを読み取ろうとしているらしいが、多分わからずじまいだろう。
彼は自分の過ちを償うために裸一貫でやり直し、他国の皇帝にまで上り詰めた。その努力は並大抵のことではないし、十分賞賛に値することだろう。
けれど、その努力は結局のところ自己愛である。
アンセルムは――ルシィが知っているクライグのままだとするのなら、彼はプライドの塊だった。
人のことが言えないルシィではあったから、それを不快にも思わなかったのだが、生い立ちを聞いてみると理由もわかる。
挫折を知らなかった彼は、自分の唯一にして最大の汚点が世界にいつまでもさらされているのが我慢ならないのだ。あれを消すためならば死も厭わないと思われる。
あの術を消し去れば、それが世界を救うことに直結するのは間違いないけれど、アンセルムが過ちを悔いて責任に突き動かされているというふうには受け取れなかった。
アンセルムは、ルシィから目を放さないままでつぶやく。
「シェブロンの領主か。……嫌だと言ったら?」
ルシィは笑顔を保った。しかし、中で魔力がルシィの感情に合わせて大きくうねっている。
「そうね、この中で暴れてしまうけれど、仕方がないわね」
今のルシィの力は軽視できたものではないはずだ。
ルシィがこう言う以上、相手が誰であっても否は許さない。それをアンセルムもわかっている。
無言のまま、アンセルムは僅かに眉根を寄せて椅子に手を這わせる。先ほども急に壁が出てきた。
あそこで操作しているのだ。タン、タン、とアームレストを指先で叩く。
ここにいると別世界にいるような気分になるが、この船はシェブロンの港に停泊している。
無許可なのだから、そのうちにアジュールの軍もこの船を追い払うために動き出すだろう。静かなのは今だけかもしれない。
トリスは無事にセイディと合流できただろうか。
できたはずだとルシィは信じている。
不意に背後に気配を感じ、ルシィは振り返る。
先ほどは何もなかったところに透明の球体が出現したように思えが、遮断されていただけで最初からそこにあったのだろうか。
シャボン玉を人間が入れるまで膨らませたような形で、その中にクリフがいた。この球体が牢の役割を果たしているらしい。
あちらからも外の様子が見えるようだ。クリフはルシィがいることに愕然として、牢の壁を拳で叩いてた。
それくらいでは割れないし、クリフが何を言っているのかも聞こえないが。
多分、あの中では魔術を使っても効果はなく、内側からは何もできないのではないだろうか。
ルシィは必死の形相のクリフに笑みを浮かべた。
それは、アンセルムに向けていた冷ややかな微笑とは違う。クリフの顔を見た途端にほっとして、胸の奥が熱くなった。
クリフは、もし彼の命が魔界の門を消し去る糧になるのだとしたら、自らの命を差し出してしまう気がする。
どんな時でも、クリフは人を護ることを優先して考える。自分のことは二の次だ。
アンセルムとクリフの違いはそこである。
アンセルムは、少々の犠牲は仕方がないと考える。
思い入れを持った相手は犠牲にできずとも、それ以外であれば目を瞑る。
それはクリフにはできない決断だ。褒められたことなのかどうかはわからない。
人の上に立とうと思えば、非情な決断も時には必要だ。それでも。
クリフは、人々から排斥されても人を恨まず、救いに走った。
その行動に呆れはしたが、ルシィは同時に尊敬の念も持ったのだと思う。人を許して、救おうとする姿に、ルシィには自分にはない心を感じた。
この人は貴重な人だ。
クリフが生きていてくれないと、ルシィはこの先、何も楽しくない。
「クリフ、帰りましょう」
声をかけたが、中のクリフには届いていなかったのかもしれない。クリフはただ、必死に叫んでいる。
ルシィは球体に手を翳し、念じた。透明な牢には細かいひびが入り、白く濁ったようになって壊れる。
勢いよく飛び散った破片が降ってくる様は星屑に見えた。ルシィはその破片を吹き飛ばし、遮るものがなくなったところでクリフの手を取る。
「ねえ、あなたなら今の私の魔力がどれほどか、わかるでしょう? 私は魔女なの。強い私でも好きでいてくれるかしら?」
牢を壊したルシィを目の当たりにしたのだ。
その上、人並み外れていると言われるクリフさえもゆうに超える魔力が真実を物語っている。戸惑わないわけがない。
それでも、クリフはルシィの手をぎゅっと握り締める。
「君は異端の私を嫌わなかった。どんな君でも気持ちは変わらない」
――こういう人だと知っている。
それでも、はっきりとした言葉を聞けて安心した。
ルシィはクリフと手を繋いだまま、腕にもう片方の手を絡める。
クリフに寄り添いながら、目だけは厳しくアンセルムに向けた。
「この人は私のだから、あなたにはあげないわ」
目を瞬いているアンセルム以上に、クリフの方が耳を疑っている。けれど、色が白くてすぐに赤くなってしまうから、どう思っているのかはわかりやすい。
アンセルムは鼻白んだように嘆息した。
「……釣り合うとは思わないが」
「あなたにそんなことを言われる筋合いはないわよ」
「そうだろうか? 俺が去って寂しかっただけではないのか?」
「寂しいなんて、そんな陳腐な感情が私に似合うと思う?」
二人のやり取りにクリフが動揺していないわけではないらしいが、あからさまにそれを表情には出さなかった。何かを伝えたいのか、ルシィの手を強く握る。
アンセルムはまた疲れ果てた様子で首を傾けた。
「お前の力も、設計図も、強力な魔術師も、何も手に入らなくて、魔界の門をどのように閉じたらいいのだ? この先、もっと下層から手強い魔族が出てくるというのに」
この時、階段の方から、カンッ、と鋭い音がした。なんの音だろうかと思いつつもアンセルムから顔を背けずにいると、階段を下りてくる複数の足音がした。軽い音から兵士ではないのがわかり、ルシィはそちらに顔を向けた。
「ルシィ!? クリフ様も!」
無事なトリスとセイディの顔を見て、ルシィはほっとした。
「トリス、セイディ。無事でよかったわ。大丈夫だった?」
「う、うん」
セイディが戸惑いながらうなずく。もしかすると、ルシィから魔力の圧を感じるのかもしれない。
二人の闖入者にアンセルムは顔をしかめた。
「何事だ?」
アンセルムの手にはいつの間にか銃が握られていたが、そんなものはルシィの前では玩具だ。誰にも当てさせない。
トリスとセイディが駆け寄ってきた後、続いて階段を下りてきたのは、くたびれた中年だった。
いかにも頭しか使って生きてこなかったらしく、少しの運動に息が上がっている。
「ウィシャート、何を慌てている」
アンセルムがピシャリと言うと、ウィシャートという男はセイディに指を突きつけた。
「陛下! その娘がマーシャルの娘です! ペンダントの鏡は特殊加工されていて、魔弾をも弾きました。あの鏡の下に設計図があると思われます!」
ルシィはセイディを見た。確かにセイディはいつも小さな鏡のついたペンダントをしていた。
服の下に入れてまで身に着けようとするので、意味があるのかよくわからなかったのだが。
セイディは愕然としながら鏡を握り締めた。
「設計図って……?」
「オーア跡地にある、魔界の門を塞ぐための兵器の設計図よ」
それを言うと、クリフもトリスも目を瞬かせた。
「そんなことが可能なのか?」
クリフが半信半疑なのも仕方がない。ルシィが全力を出したとしても、あの門は閉じられない。
その兵器とやらはルシィよりも強力だということになる。
「さあ。私は魔科学には疎いからよくわからないわ」
けれど、もし本当にそれが可能なのだとしたら。
クリフの負担は軽くなる。シェブロンの町はもう、トリスの父を亡くした時のような災厄に見舞われることはない。
もし、本当なら――。
誰もが願ってやまない未来が訪れる。




