◆10
トリスと別れたルシィは、最下層への階段を下りた。
最下層は、ルシィが想像していたような構造ではなかった。
急にここへ連れてこられたら、宮殿かと勘違いしただろう。この大きな船は揺れもほとんどないのだから。
床には絨毯が敷かれ、紋章がデザインされた壁紙が貼り巡らされている。最高級の魔鉱石が使われたシャンデリアも、まるでここで舞踏会か晩餐会が始まるのではないかと思わせるような豪華さである。
ただし、ここには一切の扉がなかった。だだっ広いフロアの端に玉座のような椅子があるだけだ。そこに一人の若者がふんぞり返っており、部屋の壁際には兵士と、その上官、中には学者のような男たちがいる。
クリフを閉じ込めている牢はこのフロアの端だというが、どこが端なのかがわからない。見えるところに扉はなかった。
よく見ると、壁際の兵士たちの中には見たことのある顔が何人かあった。
ルシィのところへご機嫌窺いに来たことがある者たちだ。魔女の登場に瞠目している。
しかし、この時、玉座の男が手すりの部分を何度か指で叩いた。すると、仕切りがなかったはずの部屋には突如として壁が現れ、兵士たちのいた場所が遮られた。仕組みまでは知らないが、これもセーブルの技術だろう。
魔女を前に兵士たちを護ろうとした、などという優しい理由ではないかもしれないが。
ルシィは改めて玉座に座る男を見た。
玉座というのは違うかもしれないが、あれに座れるのが最高責任者だけであるのは間違いない。
それにしても、その顔に見覚えがあってがっかりした。
「その顔、私の知っている誰かさんにとてもよく似ているのよね」
冷ややかに言ってしまうが、彼のせいではないのかもしれない。
その男は、二十代半ば。セーブルの軍人たちと同じ黒い軍服を着ているが、階級が高いせいか煌びやかな勲章をいくつもつけている。
艶やかな黒髪と琥珀色の目。精悍で知的だが、どこか野性味と色香もある。
「あなた、クライグの息子かしら?」
あまりによく似ているから、まったくの無関係ではないだろう。
――昔、クライグ・ハーシェルという男がいた。
クライグは、何かに追われるようにルシィのいたラウンデルの森へ迷い込んできた。
森をさまよっていたせいか、服はボロボロになっていたけれど、育ちはよさそうな青年だった。
ルシィは気まぐれからクライグを助け、匿った。クライグは自分のことを一切語らなかったし、ルシィも訊かなかった。
ただ、しばらくの間だけそばにいて、恋人同士のような関係だった。
そして、ルシィのそばは心地よいと言いながらも、結局のところは去っていった。
人里が恋しくなったのか、魔女の時間に対し、自分の命は一瞬だと諦めたのかは知らない。
去った彼を追うルシィではなかったし、嘆くつもりもなかった。それが、そのクライグによく似た顔がここにある。
彼は現在、少なくとも四十代半ばから後半になっている頃だ。そう思うと、息子だろう。
しかし、眼前の青年はかぶりを振った。
「いいや」
そうして、ルシィを見つめた。昔と同じような、甘くて、それでいて崇めるような目だ。
「俺はトラヴィス・ヨーク・セーブル。セーブル帝国の現皇帝だ」
クライグは、何かから逃げているようだった。それは、セーブル帝国という国からだったのだろうか。
「ルシエンヌ、俺はあの頃、お前にクライグと名乗った」
「……本人? 嘘でしょ?」
そんなはずはない。いくら若作りをしたとしても、以前とまったく変わりないようにしか見えない。
魔力は多い方だったが、それでもクライグは人間だった。
しかし、クライグでないのなら、その名を知り得ていることの説明がつかない。
魔女を驚かせることができて喜んでいるのか、彼は楽しげに笑った。
「ただし、そのどちらも俺の本当の名ではない。本当の名は――もう少し後にしよう」
ややこしいことを言い出した。
この男はセーブル帝国の皇帝だというが、そのわかりやすい肩書だけでは語れない。何者なのだろうか。
知っているようで、ルシィは彼のことを何も知らないのだ。
「……とにかく、お前が無事でよかったと言ったら、怒るか? それとも、そんな言葉は信じないか?」
この男の表情からは嘘を感じなかったが、ルシィに仕掛けたあの石のことをこの男が知らないとは思えない。
「よく言うわね。私から力を奪ってを捕らえようとしていたのはあなたたちじゃないと言うの? アージェントの独断だとでも?」
すると、彼は額に手を当てて緩く首を振った。
「あの時は、不手際が過ぎて久々に怒りに震えたな。見たところ、お前から魔力を切り離すこともできていないし、察知されて逃げられたというところか。今までどこに潜んでいた? アジュールか?」
「あなたに話すことなんてないわ。私にとっていつまでもあなたが特別だなんて、勘違いしないでくれる?」
笑って言ってやったが、どれほどのダメージがあるのかはわからない。向こうもルシィに未練などないのだろうし。
そう思ったが、違うのだろうか。
「俺はお前を忘れたことなどない。そうでなければ、もっと話は単純だった」
「何それ」
今さら呆れてしまうようなことを言う。
ルシィは、勝手に去った彼に怒りなど感じていない。怒っているとすれば、それは今回の暴挙に対してだ。
「まどろっこしい話はやめて。あなた、何を企んでいるの? 世界征服でもしたいの? そのために魔女の力が必要ってこと?」
彼はルシィが自分に未練などないことを寂しく思ったのだろうか。そんな図々しいことは言ってほしくはないが、表情からそう窺えた。
「俺は、二十年前にお前を訪ねた。あの時、本当は迷い込んだのではなく、お前の力を確かめに行ったのだ」
「私の力?」
「そうだ。森の奥に住む魔女の力がどれほどのものなのかを確かめたかった。けれど、会ってみたらどうだ。お前は、魔女などではない」
ルシィが魔女ではないと、そんなことは初めて言われた。目を瞬き、首をかしげる。
「どういうこと?」
その言葉の真意がわからずにいるルシィに、彼は目の奥に何かを秘めながらささやく。
「お前はヴァート皇国の聖女の末裔だ。その奇跡の力は血を渡って現れる」
魔女と聖女。
それは対極の存在ではないのか。
ルシィがぽかんと口を開けていると、彼は憐れむように続けた。
「魔女、聖女と、そんな呼称は周囲が勝手に決めるだけのものだ。使う力は同じものだというのに」
「血を渡る? 私の母親も、祖母も聖女だって言うの?」
母の名は、シャルリーヌ。
祖母の名は、ベルナデット――そこか。
当時はベルナ教の聖女の名を持つ娘で溢れていたというから、流行りの名をつけたのね、くらいにしか思っていなかった。そんなもの、いちいち疑ってみない。
考え込んでしまったルシィに、彼の声はどこか優しい。
「お前のその力があれば、オーア王国の跡地にある召喚術を消し去れると考えた。それがそもそもの始まりだ」
オーア王国に陸続きで隣接しているのはセーブル帝国だ。
真っ先に呑まれる可能性があったから、彼は国を救うためにルシィの力を利用しようとして近づいたらしい。
ふざけるなとは思うが、国のためにというのなら下手な綺麗事は要らない。
ルシィにどう受け取られようと構わずにいればいい。どうしてこんな話をわざわざ聞かせるのだ。
しかし、と彼は言う。
「お前の力を無理に奪えば、お前の命も奪うことになりかねない。そう考えて一度は諦めた。だから、俺はお前のもとを去った」
「勝手な言い分ね。ところで、この長いお話は一体いつ終わるのかしら?」
ルシィが言い放つと彼は苦笑したが、話をやめるつもりはなさそうだった。
「森を出た俺は、セーブル帝国に向かった。お前の力をあてにせず、あの召喚術を消す手段を探さねばならなかった。オーアは滅び、ヴァートは聖女不在、アージェントの魔鉱石加工技術では太刀打ちできない。アジュールの魔術もだ。魔族は倒せても湧いて出る。根本的な解決には至らない。唯一の可能性は、セーブルの魔科学だった」
ここへ来て、ルシィは目の前の男が何者なのかという疑問に立ち返る。
二十年前と変わらない見た目。この男は、一体――。
「俺の名は、アンセルム・ラギエ・パラディール。オーア王国の侯爵家の生まれだが、これを話したのは国を出てから今が初めてだ」




