◆15
クリフはやっと立ち上がれるようになっていて、モリンズの手を借りて支度をした。
その間に、使者が館にやってくる。モリンズは手が離せないので、ルシィが出てあげた。
そこにいたのは、いつかの王子である。
「あら……」
名前が長かったので、とっさに思い出せない。というより、覚えるつもりがなかったことを思い出した。
「君はクリフが連れていた……。確か、ルシィだったね」
王子はルシィを覚えていた。この王子の名前が思い出せないのはごまかしたい。
ただ、王子はそれどころではなさそうだった。婚約したてのほやほやなのに、顔は青ざめて取り乱して見えたのだ。
供の人々も心配そうに見守っている。
船酔いかしら、と言いそうになったところにクリフとモリンズがやってきた。
ホールを歩くクリフの姿を見て、王子は泣き出しそうに見えた。
「クリフ……っ」
「殿下が御自らこちらにまで……」
クリフは驚いていた。王子は普段から身軽に出歩くタイプではないらしい。
「父上ががグレシャムの言い分を信じて君を罷免したと聞いて、急いできたんだ。私に話せば反論するのがわかっていたから、私に知らされたのは事後で、君の窮地を知らなかった。すまない……」
王子も魔物の血が混ざっているのならと友達を見捨てたのかと思ったら、そうでもなかったらしい。
クリフも多分、顔に出している以上にほっとしている。
「いえ、殿下がお気になさることではございません。お気遣いには痛み入りますが」
「グレシャムは職務を放棄したと聞く。それを君が埋め合わせたのだろう? 今度こそ、父上には元通りに任命して頂く」
この王子は、クリフの価値をちゃんとわかってくれている。この王子が王になったら、アジュールはもっと過ごしやすいところになるかもしれない。
早くそうなればいいのにな、とルシィは思った。
――クリフは、この町に戻りたいだろうか。
本人が戻ると言ったわけではない。それでも、断るつもりはないのだと顔を見てわかった。
「ありがとうございます」
やはり、そうなるのか。
王子は、うん、と答えてクリフの手を取った。
その後、忙しい王子が去ると、領主館の前の坂を下った広場には住人たちが犇めいた。
仕事の手を止め、広場で何をしているのかと言えば、皆が項垂れて祈っていた。あれが彼らなりの謝罪だというのだろうか。
代表して領主館までやってきたのは、自警団長だった。不安なのか、トリスを連れてきているのが狡い。トリスはペイレットの町から戻ったばかりだろうに。
あと他に三人。会ったのは初めてだが恰好を見るからに、一人はベルナ教の神父だ。
あと二人は枯れた老人で、それぞれの地区の代表といったところだろうか。
「皆を代表してお話をさせて頂きたく、こちらへ参りました」
クリフは、彼らを中へ誘うことはしなかった。ホールで立ったまま、じっと探るように見ている。
この赤い目を皆が怯えずに直視できるかどうか、クリフが試しているように感じられた。
「……グレシャムは、魔族が遠方に見えた直後、なんの手段も講じずに我先にと逃げ出しました。我々は、彼がそういう人間であると知っていたはずが、彼の言い分を鵜呑みにし、あなた様を蔑ろにしました。この町が魔族によって半壊してからまだ、忘れ去るには傷跡も生々しく、冷静に物を考えられる時期ではなかったと言っても言い訳にしかなりませんが」
まったくだ、とルシィは言ってやろうかと思ったが、クリフが口を開く方が早かった。
「私の魔力は昔から強かった。それがどのような理由からかとは考えたこともなかったが、人から忌避される力であったとしても、私は力があってよかったのだと思う。護れない無力さは味わいたくない」
ルシィは、甘いなと呆れながらも意地悪なことを言うのはやめてあげた。
人は愚かだから。弱いから。
けれど、クリフはそんな人間が好きなのだ。
「ここを離れてみて、それでも私はこの町が好きだと思った。護りたいと、この想いが迷惑にしかならないのだとしても、そう願うことは止められない。私は、ここに戻ってもいいのだろうか?」
クリフがそれを言うと、自警団長はみっともないくらいに顔を歪めていた。皺くちゃで醜いはずの表情が、何故だかルシィも不快ではなかった。
「ありがとう、ございます。本当に、心から、お詫び申し上げます……っ」
後ろの方から、やれやれ、といった表情のトリスがルシィに笑いかけてくる。
ルシィとしては、いずれ森に移住もアリかと考えていたので、モトサヤに戻るのが嬉しいような、ちょっと残念なような複雑な心境である。
ただし、ハンナのご飯がまた食べられるのは嬉しいかもしれない。
自警団長たちもトリスも帰り、犇めいていた住民も散り散りになった後のこと。
「じゃあ、私も帰るわね」
ルシィがカバンを持って伝えると、クリフは驚いていた。何を驚くところがあったのだろう。
「帰る……のか?」
まだ体が本調子ではないからなのか、そのクリフを置いてルシィが帰ると知り、意外そうに瞠目している。
体調は寝ていればそのうちに治る。
問題は解決したのだから、ルシィがべったりそばにいなくとも、モリンズだっている。特に不自由はしないはずだ。
「ハンナのところにいるんだから、好きな時に会えるでしょ?」
それなのに、クリフは引き留めるようにカバンを持つルシィの手首を握った。そして、悲しげにささやく。
「……私は、もしかすると短命なのかもしれない」
急に何を言い出すのかと、ルシィは首をかしげた。
魔術を使いすぎると寝込むから、あれでは体が長く持たず、若くして死ぬだろうと勝手に思い込んでいるらしい。
そんなものは思いこみに過ぎないのに。
「どうして? あなた、昔からろくに病気もしてこなかったのではないの?」
多分、魔術を使いすぎなければ不調という不調はなく、むしろ魔力によって体は護られている。
「それはそうだが……」
「それだけ魔力があるんだから、無理さえしなかったら並みの人より丈夫なはずよ」
思わず笑ってしまったが、クリフは気を悪くしたふうではなかった。どこかほっとしている。
「そうだろうか?」
「ええ、長生きすると思うわ」
少なくとも、普通の人間よりは。ルシィの方が長生きかもしれないが。
悩みが解決しても、クリフはまた表情を引き締めてルシィをつかんでいる手に力を込めた。
「もし、それが本当なら嬉しい」
諦めがいいように見せても、クリフも生には執着があるのだ。護るべきものがこんなにも多いのだから、それは当然だろう。
ただ、ルシィが考えた理由は少し違った。クリフは熱っぽくルシィを見つめている。
「先のことを考えても許されるのなら、私と結婚してほしい」
結婚、と。
それは魔女であるルシィにとって縁遠いものであって、正直なところピンと来なかった。ただただ目を瞬かせている。
クリフのことが嫌だというわけではない。今となっては好きだが、すべてを捨ててでも添い遂げたいかと言われるとよくわからない。
ルシィは魔力が戻ったら森に帰りたい。結婚はその時の枷になってしまう気がした。
大体、ルシィのように素性の知れない者が領主の妻になどなれるのだろうか。色々と疑問が残る。
「そうね、考えておくわ。じゃあね」
そう答えて手をすり抜けたルシィに、クリフはショックを受けたように見えた。
二つ返事で受けてくれるとでも思ったのだろうか。
クリフのことが好きだとしても、人の暮らしに馴染みつつあったとしても。
それでも、ルシィはルシィなのである。
【 Chapter Ⅳ「異端の森」 ―了― 】




