◆14
ルシィはしばらく、その岬でクリフを膝に載せて海を眺めていた。
どうやって町まで戻ろうかな、と考えている。
この状態のクリフを、非力なルシィが馬に乗せるのは骨が折れるのだ。先に戻って人を呼んでこようかとも思ったが、置いていくにはクリフが無防備すぎる。
さて、どうしよう、と再び考えていると、かなりの速度を出して走っている蹄鉄と車輪の音がした。こんな時間だが、馬車が通りかかったらしい。
乗せてもらえるだろうか。ダメもとで頼んでみよう。
ルシィが体をそちらに向けると、馬車は呼び止める前に停まった。見覚えのある馬に、ルシィは、ああ、とつぶやいていた。
馬車の扉が開くなり、飛び出してきた人物の勢いにルシィは久々にびっくりした。馬車に乗るような上流階級の人間が、降りる際に飛び出してくることなどそうそうない。
「ルシィ! クリフ様!」
馬車から飛び出してきたのは、トリスだった。かなり意外な人物である。
「トリス? よくここがわかったわね」
きょとんとして答えるルシィの傍らにトリスは両膝を突いた。
「あの雷でわかったよ。あんなの、クリフ様しかできない」
町からここが雷の発生源だと見えたらしい。ルシィは苦笑した。
「町は大丈夫だった? ハンナとセイディは?」
話していると、馬車からもう一人降りてきた。モリンズだ。
「クリフォード様……」
皺の深い顔をさらにくしゃくしゃにしている。相当に心配していたのだろう。
「大丈夫よ。いつものやつだから。……あなた、今の主を置いて出てきてもよかったの?」
主だなどとは認めたくもないのかもしれないが、事実上は仕方がない。執事が家を空けていいとは思えなかった。
しかし、モリンズばかりかトリスまでが顔をしかめた。
「いいんだよ、いないし」
「いない?」
「魔族の姿が見えたら、真っ先に馬で逃げた」
「あら……」
思った以上にひどい。
グレシャムは本気でクリフが魔族を呼び寄せていて、クリフさえいなければ安全だと信じ込んでいたのだろうか。むしろ、いなくなったからこそ危険だったというのに。
「……ここではなんですから、クリフォード様を館へお運びしましょう」
モリンズがそれを言った。
今の館は主不在である。この国にどのような法があるのか、ルシィは詳しくないが、領主が領地を捨てて逃げた場合、まったくのお咎めなしというわけには行かないのではないだろうか。
クリフを罷免し、グレシャムを領主に戻した国王の顔に泥を塗ったわけだ。あの男の社会復帰は絶望的かもしれない。
ただ、ルシィはこの時、クリフに近づいたモリンズに微笑みかけた。
それは親しみを込めてではない。冷たい笑みだ。
「ねえ、何事もなかったようにクリフをあの町に戻せって、虫が良すぎるわよね? 町の人たちはクリフが悪いって信じたわけでしょう? 助けてもらって思い違いを悔い改めたの? それって、返した手の平をまた返したのよ。じゃあ、また返すかもね」
トリスやモリンズは悪くないのだが、ルシィは町人たちにはまだ腹を立てていた。きっとクリフは許すだろうから、ルシィは怒ろうと思う。
「人は弱い生き物です。また間違うこともあるでしょう。ただ、今現在、住人たちがクリフ様に謝罪したいと願っているのも事実です」
モリンズの言葉に、ルシィは、ふぅん、とだけつぶやいた。
このままここにいても仕方がないので、少なくともクリフが回復するまではいいかと考えた。その後、やはり腹が立ったらまた出ていけばいい。
「ねえ、トリス。近くにペイレットの町で借りた馬が二頭いるから、返してきてほしいの。クリフの荷物も預けてあるし、それも引き取ってきて。お金持ってる?」
馬の借り賃など、少々は払うものなのだろう。そこに気が回るようになったのだから、ルシィも人間臭くなったものだ。
「少しなら持ってる。でも、二頭も連れていけるかな?」
小柄なトリスだから、力では馬に負けるだろう。ルシィはクリフを下ろして立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと馬にお願いしてくるわ。あなたたちはクリフを馬車までお願い」
二人は首をかしげたが、まあいい。
ルシィは待たせてあった馬のところへ行くと、二頭に事情を話した。
「トリスっていう男の子があなたたちを家まで連れて帰ってくれることになったの。でも、一人だからって暴れたりしないで大人しく帰ってあげてね。とても優しい子だから」
『ええ。私たちも早く帰りたいし、大人しくしているわよ』
「遅くまでごめんなさい。とても助かったわ、ありがとう」
二頭の鼻面を撫でて礼を言うと、トリスがやってきた。
「トリス、どちらも暴れたりしないから、よろしくね」
手綱をトリスに渡すと、トリスはうなずいたが、じっとルシィを見つめた。そうして、つぶやく。
「ルシィって不思議だね」
「そう?」
「うん。出会った時からだけど」
魔女なのだから、トリスからしてみれば不思議なのは仕方がない。
ルシィはそんなトリスに向けてそっと笑った。
「思っていたよりもずっと早くに再会したわね。でも、こうしてまた会えて嬉しいわ」
それは自然な言葉だった。
人のすべてが好きだとは言わないけれど、トリスたちのことは好きだ。こうして無事でいてくれて嬉しい。
「俺も。母さんとセイディも二人のことを心配していたから、顔を見たら喜ぶよ」
ルシィも、二人には会いたかった。
けれど、まずはクリフが回復してからだ。ルシィが馬車に乗り込むと、馬車はモーティマー通りを突っ切って領主館へ直行したのだった。
クリフは寝室で安静に寝かされ、ルシィは旅の疲れを落とすといいと言われ、湯殿を借りてさっぱりとした。
それからクリフのところへ行くと、クリフが目覚めていた。赤い目をうっすらと開けている。
「気分はどう? 状況はどこまでわかっているのかしら?」
「……大体は」
意識がないように見えたけれど、ルシィたちの会話は聞こえていたようだ。ルシィはサイドテーブルにあった水差しからグラスに水を汲み、それを口移しでクリフに飲ませた。
「今はいいから、何も考えずに休んで」
つらいのか、クリフは素直に従い、再び眠った。
その翌日の昼下がり。
港に一艘の船が着いた。この領主館からは港が一望でき、ルシィはその船をモリンズと見ていた。
「あの船、いつもの貨物船とは違うわね」
この港には、魔族のせいで国内船しか着かない。セーブルからは最も近い港であったのだが、今は辿り着く前に魔族に襲われてしまうのだ。
ヴァートは陸続きだし、アージェントからはもっと北寄りの港の方が使われているそうだ。セーブルからの船も、今はそちらへ着くらしい。
このシェブロンの港に着く船は、貨物船か国内旅船のどちらかである。
しかし、あの船は妙に立派だったのだ。青い船体に白い帆が光を受けて眩しい。
「……あの旗は、王家の紋です」
風にはためいている青い旗がそれだという。
「あら、クリフを追い出しに来たのかしら?」
ルシィが苦笑すると、モリンズは困ったように首を振った。




