◆13
来た道を引き返し、森を抜ける前に、ルシィは森の香りを思いきり吸い込んだ。
夏の青い気配がルシィには心地よい。名残惜しいが、ルシィはクリフと街道へ戻った。
明るい日差しの下、歩いていると汗が滲んでくる。真上に高く上がった日が、どこまでも二人についてくるようだった。
それが傾きかけた頃、ペイレットの町が手前に見えた。
「日が沈む前に着けてよかった」
そう言って、クリフは安堵していた。
ルシィは巣に戻る途中のカラスが鳴いたので顔を上げた。
『あっちの空から魔族が来る。たくさん、たくさん――』
ハッとしてシェブロンの方角を見遣ると、遠目にはカラスの群れかと思うような黒点が微かに見えた。
魔族は、脅威であるクリフがあの町を去ったことを察知したのかもしれない。
いずれそうなることはわかりきっていた。それでも早い、とルシィは眉を顰める。
「クリフ、あれ……」
クリムゾンに染まった空を指さすと、クリフは目を瞬かせた。
ルシィは、シェルヴィー家の心配だけをした。あの家には守護があるから、少々は他よりも耐えられるはずだけれど。
モリンズはさっさと見切りをつけて出ていけばいい。
しかし、クリフは――。
落ち着きのない目をしてペイレットの町の門を見遣った。それから、急にルシィの手を引いて町の中へ急ぐ。
入り口の検問では、目立つ二人に戸惑っているふうに見えた。
「あ、あなたは、シェブロンのノックス様では……?」
検問の男はクリフのことを知っているようだった。魔族の血がどうの、という話はまだ知らないらしい。怯えた様子はなかった。
クリフはほっとした様子で検問の男に言った。
「すまないが、急ぎで馬を用立ててくれないか?」
「え? ええ、わかりました」
「それから、この女性を宿に連れていってほしい」
と、ルシィの肩を押し出す。ルシィは勢いよくクリフの方を振り返った。
「あなた、町まで助けに戻るつもりなの? ねえ、どんな仕打ちを受けたか忘れたわけじゃないでしょう? しばらく怖い思いをさせてもいいんじゃない?」
意地悪なことを言いたくなってしまうほど、町の住人たちの態度は冷たかった。それこそ、見捨てられても文句は言えないはずだ。今でもクリフが助けてくれると思っているのなら、都合がよすぎる。
それなのに、クリフはゆるくかぶりを振った。
「それでも、今動けばまだ間に合うところにいるから。助けに行けばよかったと、後ですることになるとわかっている後悔はしたくない」
「馬鹿ね」
呆れつつも、クリフがそう動いてしまうのも本当はわかっていたのかもしれない。
この人には誰も見捨てられない。グレシャムでさえ、見捨てることはできないだろう。
猫のリリスが言ったように、クリフは自分の力を人助けに使うことでしか生きられない。
そんな押し問答を繰り返している間に、鼻面に白い斑の入った黒鹿毛の馬が連れられてきた。馬具もしっかりとつけられており、クリフは手短に礼を言うと、必ず戻るからとルシィのことを頼んで馬の背に飛び乗った。
「終わったら迎えに来るから、待っていてくれ」
「嫌よ」
舌を出してやったら、クリフは困ったように笑って馬の腹を蹴った。
その背を見送りながら、ルシィはクリフが残した荷物とルシィの荷物、両方を持ってみて重すぎるので諦めた。
「ねえ、この荷物、預かっていてくれない?」
検問の男に笑いかけると、男は赤面した。
「は、はい! ノックス様の持ち物ですね。大事に保管させて頂きます」
「ありがとう。それから、馬をもう一頭お願い」
「……へ?」
男はぽかん、と口を開けた。
ルシィは、町で借りた馬によじ登り、スカートを気にせず跨った。男たちの目が脚に向けられているが、気にしない。
「さっきの馬と同じ方向へ走ってほしいの」
青毛の馬の首筋を撫でながらルシィは語りかける。馬は振り返るような仕草をした。
『驚いた。あなたほど鮮明に意思が伝わるニンゲンは初めてよ。……追いつけるかわからないけれど、頑張るわ』
雌の素直な馬だ。彼女はルシィを気遣いつつ、それでも急いで駆け出してくれた。
馬術など知らないルシィだが、馬の声が聞けるのだ。体重をどこに置いてほしいか、馬が望むようにして走りやすいように気をつけた。
どれくらいか走ると、途中でクリフが乗っていた馬が木にくくりつけられていた。ルシィはその馬のそばへ行くように頼む。
「あなたに乗っていた男の人はどっちへ行ったの?」
すると、黒鹿毛の馬はつぶらな瞳を瞬かせた。
『それなら、海の方だが』
「ありがとう。もう少しそこで待っていて」
馬を置いていったのだから、近くにいる。そう考えた時、捜すまでもなく居場所がわかった。
ルシィが馬首を向けると、海を臨む岬に立ち、薄紫色の光をまとうクリフの背中が見えた。
「עס איז אַ דונער. דרייען די שונאים וואָס ליגן צו אונדז――」
この岬からシェブロンが見える。馬で町まで駆けつけるよりは早いかもしれない。
けれど、少し距離がある。いつものように殲滅するのは骨が折れるはずだ。
以前の襲撃よりも魔族の姿がよく見えた。人型に近いものはあるけれど、角や尻尾も生えている。全身が黒く艶めいていて、蝙蝠に似た羽と、爬虫類じみた鱗に覆われている。裂けた口から火を噴くから、魔竜の眷属だろう。
あんなものまで地上に出てくるようになったのだ。そのことに少なからず驚いた。
オーアの跡地まで、召喚師が開いた魔界の門をルシィが見に行ったのは何年前だっただろう。あの頃はこんなにも手強い魔族はいなかったように思う。討伐を繰り返されるたび、魔族たちの間でも対策が練られてきたのかもしれない。
魔界にも王がいるとされるが、お目見えするのは勘弁してほしい。今のルシィでは対処できないし、さすがにクリフも無理だ。今でも苦戦している。
クリフは雷撃だけでなく、風を操り、魔族の飛行する軌道を町から逸らそうとしているようだった。
ここにいるだけで、放たれた魔術の余波がひしひしと伝わる。あんなに無理をしたら、以前よりもひどく寝込むのは目に見えていた。
ルシィは馬から降りると、怯える馬を安心させるように撫でてからささやいた。
「さっきの彼と同じところで待っていてくれるかしら?」
『……わかったわ』
「ありがとう」
クリフが放つ雷撃が天空から降り注ぐ。その雷は飛び交う魔族を撃つが、すべてが当たるわけではない。魔族のいくらかは躱し、落ちた雷は海上で跳ね返って再び魔族に向かっていく。敵を仕留めるまで消えない雷撃だった。
魔術で起こした風が強くて、ルシィは腕で顔を庇いながらクリフを見つめた。
次から次へと雷を落とす様は人間離れしているかもしれない。けれど、大きな術のために肩を激しく上下させ、必死の様子が窺える。
――どれくらい魔術を使い続けていただろうか。
魔族が消し炭となって海に散ったのを見上げ、クリフは膝から崩れた。
ルシィが後ろからクリフに近づくと、クリフはようやくルシィがいたことに気づいたらしい。それすらわからないほど必死だった。
「ル……」
「喋らなくていいわ。じっとしていて」
玉の汗を浮かべたクリフを抱くと、ルシィはクリフの頭を自らの膝に下した。そして、荒い呼吸を繰り返すクリフに口づける。
口から魔力を吸った方が早い。クリフの中で暴れる魔術の名残を、ルシィは自分の中に取り入れる。自分自身の魔力とはもちろん質も違うが、クリフの魔力はルシィにとっても不快なものではない。波長が合うのだ。
ルシィが魔力を吸うと、今度はカバンからお手製の強壮剤を取り出して与える。途端にクリフの呼吸が少し落ち着いた。
ルシィはクリフの額をそっと撫でる。意識はないようだ。
こんなになって、どうやって一人で戻るつもりだったのだろう。
そこまでも考えられず飛び出したに過ぎない。あまりにも考えの甘い行為である。
しかし、こういう行動に出てしまうクリフのことが、今のルシィには好ましく思える。
「ねえ、こんなに人のことを考えている男が人間でなくてなんだというの?」
魔族の血や人には過ぎた魔力を持とうとも、クリフの心は人間だ。それならば、人間だろう。
ルシィは魔力を失って、ただの人間に近づいた。人間たちと過ごし、その中にいることにも慣れた。
人間は異端を嫌うけれど、人間の皮を被っただけの獣だっている。
人とは何か。
そもそも誰がそれを決めるのか。
細かいことは知らないけれど、人は間違ってもやり直せる生き物だろう。多分。




