◆12
『――ルシエンヌ。お前の存在は奇跡で、ここは楽園だ。ここでずっとお前と過ごせたらどんなにいいか』
そんなことを言いながら、誰もルシィのそばには残らなかった。
それはルシィのいたラウンデルの森に迷い込んだ人間であったり、王命でご機嫌窺いに来た人間の一人であったり。
魔女のルシィは彼らとは寿命も違った。ルシィが瞬く間だと思っていても、相手にとってはそうではない。恋人になったとしても、彼らがルシィと長い時を共に過ごすことはなかった。
性格上、去る者を追わないルシィは、一人、森の奥で暮らした。
――懐かしい夢を見てしまったのは、ここが森の中で、傍らには人のぬくもりがあるせいかもしれない。
クリフは眠っているルシィを自分に寄りかからせてくれていたらしい。起きて早々、目を擦りながらルシィは言う。
「……ねぇ、私、二人きりで旅に出た時から、あなたに押し倒される覚悟はしていたつもりよ?」
「は?」
どう見てもクリフは耳を疑っていた。
あくびを噛み殺しつつ、ルシィはもう少し続けてみる。
「昨日、キスしかしなかったから。それ以上はベッドがないとしないのかしら?」
「そ……っ」
途端にクリフは硬直した。真に受けていいのか悩んでいるらしい。
どう切り返していいものやらと逡巡しているのが手に取るようにわかり、予想通りの反応にルシィは満足した。
ルシィはクリフの肩を抱き締めた。耳が赤くなっている。
「私、あなたをからかうのが、わりと好きみたい」
「そのようだな……」
ぼやかれたが、嫌がっているのではなさそうだ。
クリフは、どれくらいの期間をルシィと過ごすことになるだろうか。
今までの恋人たちのように、口では残念そうなことを言いながら、ルシィを置いていくようになるのかもしれない。
その日が来ると、ルシィはある程度覚悟している。いつまでも、なんていうことは現実に起こり得ない。
だからこそ、この短い時を精一杯楽しみたいだけだ。
それでも、クリフはルシィの手を取ると、妙に真面目な顔をして言った。
「君はこんな私を恐れず、見捨てずにいてくれる。感謝しているし、大事にしたいと思っている」
大事にしたい、と。
そんなことを人間に言われたのは初めてだった。今までのルシィは強すぎたから。
妙にこそばゆい。
ただ、ルシィは魔女だから、魔力を失った今でも普通の人とは違うのかもしれない。クリフと同じ時間を同じように生きられるだろうか。
けれど、それは今後、直面してから考えればいいことである。そんな心配をして、今の楽しい時間を無駄にはしたくない。
「ありがとう。嬉しいわ」
そう答えると、クリフはルシィの手を強く握り直した。
◆
「これから当初の予定通り、ペイレットを目指す。シェブロンよりも小さなところだ」
港町のシェブロンと比べると、旅人が通過するだけの小さな町なのだろう。
ルシィとしてはこのまま森で暮らしてもいいのだが。クリフはルシィを養えるように安定した職を見つけたいのかもしれない。
それにしても、もしグレシャムが、この男は魔族だから町へ入れないようにと手を回してあったらどうだろう。グレシャム自身にそこまでの力はなくとも、国王の権力を笠に着れば効果はあるかもしれない。
そうなると、金はあった方が安心だ。ルシィは少し考え、カバンからクリフに紫色の宝石をひとつ握らせた。宝石の大きさに、クリフはぎょっとしていた。
「これは……?」
「私の持ち物。ねえ、これを砕いてほしいの。あんまり大きいと換金しにくいし、目立つし」
これは、いつも決まって嫌がられる。それでもルシィは、硬貨はもちろん小粒な宝石も持っていなかったのだから仕方ない。
「これほどの大きさの宝石を砕けと。大体、君はこんなものを持てるような身分なのか?」
不安がクリフの目に宿る。ルシィはそれを笑い飛ばした。
「身分なんてないわよ。それはもらっただけ」
「……君はまだ、多くのことを隠しているんだな」
事実隠しているので、それを言われても仕方がない。ただし、クリフにはそろそろ話してもいいかという気はしている。
「そうね。でも、近いうちに話してもいいわ。驚くかもしれないけど」
「君といて驚かなかったことなんてない」
「そうだったかしら?」
うぅん、とルシィは考えてみるが、どれを指しているのかがよくわからない。
気を取り直して言った。
「さ、とりあえずその石を割って頂戴」
「値打ちが下がるんじゃないのか?」
「いいのよ、ひとつくらい。他にもあるし」
「…………」
クリフは嘆息すると、宝石を握り締めた。
その手元が光る。
「ס'איז דער ווינט. צעטרעטן דעם שטיין――」
しかし、クリフの握り締めた長い指が開かれた時、宝石は砕けていなかった。ダイアモンドなどは金属よりも堅いというが、この宝石も相当に堅いらしい。
よく見ると小さなひびが入ったようだが、それくらいだ。
「……魔術で宝石を割った経験はないのでなんとも言えないが、堅いな。物理的な手段の方がいいのかもしれない」
割れなかったので、クリフは少しばかり自尊心を傷つけられたのだろうか。大きすぎる力を持て余してきたからこそ、できないことにただ驚いている。
そんなクリフを見て、ルシィは苦笑した。
「まあいいわ。これはまた追々で」
そうとでも言わなければ、クリフはムキになって宝石を割ろうとする気がした。こんなことで疲れさせたくない。
とりあえず宝石を受け取り、カバンへ仕舞う。
「ねえ、どうしようもなくなったら、この森に家を建てて住みましょうか」
「それもひとつの選択肢だな」
本気かどうかはわからない返事をくれた。できることならそれは避けたいと思っている気がした。




