◆9
あまり遅くなると日が沈み、町を出て行けなくなる。
クリフは許す限りの時間を使って書類を書き上げた。ただし、その苦労は報われない。
グレシャムがそれをありがたがるわけがない。理解できないことをクリフのせいにするだけだ。
「できた? じゃあ、荷物をまとめて」
「それはモリンズに頼んである」
「そう。じゃあ行きましょう」
ルシィが言うと、クリフは迷いしかない目を向けてきた。
「君は正気か?」
「いきなり失礼ね」
自分といることでルシィがどんな苦労をするのかを考えてしまうのだろう。簡単にルシィの申し出を受けられない人だとはわかっている。
「何よ、嬉しくないの?」
嬉しいくせに。
すると、クリフは渋面を作った。
「嬉しい、嬉しくないの問題じゃない」
「その言い方、すごく卑怯ね」
はっきりと駄目出しをしてやると、クリフは深々とため息をついた。いつも以上に疲れた仕草だ。
「そうだな、すまなかった」
「で?」
「嬉しいけれど、君を巻き込みたくない」
そう言ったところで、モリンズがトランクを持って戻ってきた。
「思い当たるものはお詰めしましたが、改めてください」
ルシィの荷物よりも多いと思う。無駄なものがいっぱい詰まっている気がした。
「ありがとう。モリンズ、君にはとても世話になった」
そういうことを言うから、老執事は今にも泣き出さんばかりになる。
「ずっとクリフォード様にお仕えできたらどんなによかったことか。無念でなりません」
「その言葉だけで報われる。どうか、健やかに」
モリンズは片眼鏡を外して背中を向けた。
少し前のルシィなら、そんな一幕を冷めた目で眺めていたかもしれないが、今は思うところがたくさんあった。それは、ルシィが人の心を学んだということだろう。
ルシィはクリフの腕に自分を腕をしっかりと巻きつけ、歩いた。
「本当に来るのか? 行き先はまだ何も決まっていないのに」
「それも楽しそうね」
行き先が決まっていないというが、魔力を失った直後のルシィの方が突発的だった。あの旅立ちを語ってあげたいくらいだ。
領主館を出る時、グレシャムの私兵は二人を見てヒソヒソと何かをささやいていたが、魔族の血が発覚した後だから恐ろしくて近寄ることもできないようだった。グレシャムも顔を見せないが、どこかから見ているのかもしれない。
坂を二人で歩く間、クリフは無言だった。ルシィは無理に喋らせようともしなかった。
モーティマー通りに行くと、すれ違う人たちがクリフの姿を見て、避けた。あからさまに怯え、家に駆け込んだのだ。
グレシャムのことは嫌いだけれど、彼は人間だ。まだ人間の方がマシだとでも言いたげに。
露骨すぎて、ルシィは何か言ってやろうかと思った。しかし、クリフの方がつぶやいた。
「昔から自分の目が嫌いだった。由来を知ったら、もっと嫌いになった。自分が嫌いなものを他人に好きになってもらえるとは思わない」
それを言った途端、ルシィはクリフの足を勢いよく踏みつけた。
「立ち止まらないの!」
「あ、ああ」
ルシィの剣幕に、クリフは戸惑っていた。痛いと文句も言わない。
クリフの言い方がルシィには気に入らなかった。
恩知らずな人々よりも、普通の人間ではない自分の方が悪いとでも言いたげな口調に腹が立つ。自分のせいではないとふんぞり返ればいいものを。
「ハンナが食べ物を用意してくれているの。寄りましょう」
「わかった」
三人には別れの挨拶くらいしたいのだろう。クリフは素直に従った。
「連れてきたわ」
〈カラスとオリーブの枝亭〉で三人はルシィとクリフを待ち構えていた。保存食はバスケットに入りきらなかったのかテーブルクロスに包まれていて、犬が一匹そのまま包んであるのではないかと疑うほど大きかった。重たそうだからクリフに持たせよう。
「クリフ様……」
ハンナが立ち上がり、その両脇に子供たちがいる。
「こんな別れ方をするとは思わなかったが、今までありがとう。幼い頃からこの家は私にとって唯一の安らぎだった。どこにいても皆の幸せを祈っている」
クリフがこれをどんな気持ちで言っているのか、彼の生い立ちを知る三人が考えられないわけがない。ハンナとセイディは涙を流していて、トリスはグッと我慢していた。
「トリス、お前なら二人を護りきれる。自分を信じて生きろ」
「ありがとうございます、クリフ様。俺……っ」
そんなやり取りの傍らで、ルシィは泣いているセイディを抱き締めた。その耳元でささやく。
「部屋のサイドテーブルに惚れ薬と用法を置いておいたわ。私からのプレゼントよ。色々とありがとう、セイディ。あなたに会えてよかったわ」
セイディはしゃくり上げていて言葉にならない何かを言っていた。
ルシィはセイディから離れると、三人に言った。
「じゃあね、また」
外まで見送ろうとする三人を、クリフが制した。別れはつらい。
外へ出て、ルシィは少し考えた。
「ねえ、何か魔術で障壁のようなものは作れない? この食堂だけでもせめて」
魔力があればルシィにはできたが、今すぐには無理だ。
正直に言って、今、前回のような魔族の群れに襲われた時、グレシャムでは防げない。
あの口ぶりではもう魔族の襲撃はないと高をくくっている。対策が万全ではないのだ。
他の住人のようにクリフを信じない者まで救わなくていい。けれど、この家だけは残ってほしい。
「そうだな、少しくらいなら」
そう言って、クリフは保存食をルシィに手渡し、荷物を地面に置くとささやいた。
「ס'איז דער ווינט. באַשיצן דעם לאַנד――」
軽い魔術ならば無詠唱だったが、ことによっては呪文の力を借りるらしい。
ルシィはその術をじっくりと目に焼きつける。
紫色の淡い光のヴェールが食堂に降り注ぐように見えた。ここに立っているだけで魔力を感じる。
「これでいい」
疲れも見せずに言った。クリフにとってこのくらいの魔術なら倒れるほどではないらしい。
どれくらいの期間有効なのかはわからないが、何もしなよりはずっとマシだろう。
ルシィも三人が無事に生き延びてほしいと思うだけだ。
クリフが門を潜る時、皆が何かを言いたげで、それでも結局何も言わなかった。
本当は、自分たちの態度がどれだけクリフを傷つけるのかをわかっている。わかっているくせに、それでも行かないでほしいとは言えないのだ。
人間は弱いな、とルシィは改めて感じた。
動物たちはもっと賢い。この町にはいい子たちがいっぱいいた。
動物は人間よりも敏感だから、身の危険を感じたら執着なくここを去る。皆、そうしてここから出ていくだろう。
だからこそ、彼らの方が心配要らない気がした。