◆6
ルシィとクリフがシェブロンの町に戻ってから十日と経たないうちに、その〈余程のこと〉が始まりを迎える。
まず、町の門を物々しい一行が通ったのだ。三台の馬車と四騎の騎馬兵である。
あっさりと検問を潜り抜けたのもそのはずで、一行はこの町の正式な領主だった。
トリスが血相を変えて食堂へ飛び込んできて、事情を報せてくれた。セイディが差し出したグラスの水をトリスは一気に飲み干してから言う。
「……クリフ様、大丈夫かな?」
正式な領主――グレシャムである。こんなにまたすぐに顔を合わせることになるとは、クリフとしても残念極まりないところだろう。
この間のあれでは言い足りなかったのか、またネチネチと罵られているのかもしれない。
「心労で胃がキリキリしているんじゃないかしら? あとで胃薬でも届けてあげるわ」
ルシィが言うと、ハンナも心配そうにしていた。
「何かお力になれるといいんだけどねぇ」
セイディは胸元で手を握り締めている。
「何しに来たのかしら? あんな人、二度と戻ってこなくていいのに。クリフ様の方がいいって皆思ってるんだから」
「私も王都で会ったからわかるわ。何かしらね……」
ルシィはあの時の彼の言動を思い出そうとするが、どうしても、腹の辺りではち切れそうになっているボタンの頑張りしか思い出せない。
「まあ、住人はクリフ様の味方だから」
と、トリスはグラスを見つめながらつぶやいた。
それだけは疑いようのない事実だと思っていた。
◆
しかし、グレシャムはクリフの罷免状を携えていた。
クリフとの話を終えたその足で、グレシャムは領主館へ続く坂の前にある広場にて、その罷免状を高らかに掲げながら演説を始めたのだ。
「ここに国王陛下の御印の入った罷免状がある。クリフォード・ノックスを領主代理から罷免するというものだ。ようやく、正当な領主である私がこの町へ戻ることになる。皆の者、安堵するがよい! この私、コネリー・グレシャムを讃えるがよい!」
ルシィはトリスとセイディと共に広場へ駆けつけたのだが、皆、白けた面持ちでグレシャムを囲んでいた。グレシャムは、私兵を引き連れて得意げに言うのだ。
「私がこの町の主だ。ここ数年、あまりに魔族の襲撃が頻繁で、陛下の御判断により私からノックスへ職務が引き継がれた。しかし、それがそもそもの間違いであったのだ!」
――今日はゆったりとしたライトグレーのローブという、いかにも魔術師らしい恰好をしていたので、腹のボタンはなかった。
妊婦もびっくりするほど腹はせり出しているけれど。
「間違いだったよ、そりゃあ。代理じゃなくて、クリフ様を正式な領主にしたらよかったんだ。それが正解だ」
トリスが珍しく毒のあることをつぶやいた。
そうだ、トリスの父親であるユージーンは、このグレシャムの無能さによって殉職したようなものだった。
しかし、当のグレシャムはそれを自分の責任だとする気はサラサラないのだろう。ユージーンの墓に参るつもりもなければ、詫びるつもりもないと思われる。
ただ気を昂らせ、高らかに吠えた。
「ノックスは今日をもって領主代理を辞す。あんな男をいつまでもこの町にのさばらせたりはしないので、安心するがよい!」
それを聞き、セイディも見たことがないほど険しい顔をした。
「あんな男? 自分が放り出した町をずっと護ってくれていたいクリフ様に、よくそんな扱いができるわね」
多分、町の皆はトリスやセイディと同じ気持ちであった。
だから、誰とも知れない中から声が上がったのだ。
「お言葉ですが、ノックス様がいらっしゃらなくなったら、この町はどのようにして魔族の脅威から護られるのでしょう?」
このグレシャムは、魔術師としてクリフの足元にも及ばない。到底あの魔族を追い払う力はないのだ。何人魔術師を駐屯させるつもりかは知らないが、その費用を賄うために課税されたのではたまったものではないだろう。皆の心配はまず、今まで通りの暮らしが保たれるかどうかなのだ。
その声をグレシャムも予測していたようだ。得意満面で勿体ぶって答える。
「そもそも、ノックスがこの町を護っていたという認識が間違っている」
「そ、それはどういう……?」
群衆がざわついた。ルシィはただ、グレシャムを射るように見ていた。不快な、その顔を。
「私はこの六年、どうにか魔族を滅ぼす手立てはないものかと調べ続けていた。そして、古い文献の中にある記載を見つけたのだ」
古い文献――。
その文献は、ある程度信憑性のあるものだと推測される。そうでなければ、国王もこの男を信じたりはしないはずだ。あの国王の印が偽造でないかぎりは、そこに説得力があったと思われる。
グレシャムは、うぉっほん、と咳払いをした。
「そこには、ノックスがこの町に魔族を引き寄せていたという確たる証拠が記されていた!」
得意げに言ったグレシャムを、住民たちは狂人を見る目つきで見ていた。グレシャムは、己の演説力のなさに気づいたのか、そうでもないのか、慌ててつけ足した。
「あの男には魔族の血が混ざっている。その血が魔族を引き寄せるのだ。文献には、赤い瞳を持つ者は魔族であると書かれていた。赤い瞳など、そうそうあるものではない。強大な魔力の理由もこれで納得がいく。あの男は、人ではない!」
これには、広場が水を打ったように静まり返る。
海鳥と波の音だけが遠くでした。
――馬鹿だ、とルシィは笑い出したくなった。
クリフに魔族の血が混ざっていることは事実だ。それで魔力が人並み外れているのも。
ただ、その血が魔族を引き寄せるなんて、そんなことはあるはずがない。例えば、お前は王都にいる身内の血の匂いを嗅ぎつけて捜し出せるのかと。
そんなことができるはずもないように、いくら魔族だからといって、古い血を仲間だと認識することもなければ、ましてや捜して近づくわけがない。
とにかくこじつけて、クリフを不利な立場に追いやりたかったらしい。なんて愚かな男だろうか。
しかし、悲しいかな、愚かなのはこの場のほとんどの人間であったのだ。
ざわ、ざわ、と騒ぐだけで、誰もそんなはずがあるかと声を上げない。まさか、こんな世迷い事を信じるのか。
ルシィは愕然として口を開きかけた。その口を、セイディが手で塞いだ。
「ルシィ、騒ぎを起こしちゃ駄目! クリフ様のお立場が余計に悪くなるわ!」
むぐむぐとしか言えていないが、これ以上悪くなりようがあるのだろうか。
グレシャムは耳障りな高笑いを振り撒いた。
「あの男さえ追放してしまえば、もう脅威はなくなるのだ! 以前のように他国からの船も受け入れられるようになり、シェブロンの町はもっと栄える! 私がそれを約束しよう!」
『――はあぁ、馬鹿が舞い戻ってきた。最悪だねぇ』
足元でしゃがれた声がした。他の人々にはにゃあとしか聞こえない声だ。
黒猫のリリスが呆れた様子で首を振っている。その意見に激しく同意したいが、声を出せない。
「……とりあえず帰ろう。母さんにも知らせないと」
トリスが言い、ルシィは二人に抱えられるようにして家に連れ帰られた。
クリフは今頃、荷物をまとめているのだろうか。




