◆4
王子の婚約者は美人ではあった。
艶やかな茶髪で、顔立ち以上に立ち居振る舞いの美しさが素材を何倍にも良く見せているように思う。
王と王妃、姫――王族の姿も垣間見た。それから、意外だったのはヴァート皇国から聖女が祝辞を述べに来ていたことだろうか。国ではなく、ベルナ教を代表してなのかもしれない。
二十代半ばくらいか。線の細い儚げな女性だったが、正直に言って魔力はそれほどない。絹糸のようなまっすぐな髪をしていて、風貌が神秘的と言えなくはないので、それっぽいから選ばれたのかもしれない。
皆、幸せそうな二人に賛辞を送りつつも、明らかにルシィとクリフのことを気にしていた。ルシィが麗しすぎるせいだと自負しているが、多分それだけではない。クリフが社交場に女性同伴で来たことなどないのだろう。誰もが興味をそそられている。
王子は婚約者にクリフを紹介したそうに何度もこちらを見ていた。クリフも王子には敬意を持っていて、気がつかないふりをするわけにはいかないようだ。
「私はここで待っているわ。行ってきたら?」
王子たちの方を見遣ったままルシィが水を向けると、クリフは身じろぎした。
「……すぐ戻る」
だから、大人しくしていてくれと続けたかったのが痛いほど伝わった。
壁際で白ワインのグラスを傾けた。飲むつもりはない。酔っぱらったら転ぶからだ。
ルシィは一人で暮らしていた時も特にアルコールは必要としていなかった。頭がぼうっとするのは好きではない。ハンナやセイディも飲まないので、あの家には料理用のワインしかない。
ちなみに、トリスは自警団の人と飲んで帰ってきたことがある。いつも、グラス一杯飲み終わる前に寝るそうだ。それを自警団の仲間が引きずって連れて帰ってきてくれるという。
外見ばかりかそんなところまでお子様だが、トリスはそれでいい。あのままでいてほしい。
ワインの香りだけ楽しんでいると、見知らぬ男たちが寄ってきた。
「あなたはノックスとはどういったご関係なのでしょう? いえ、彼が女性を連れてくるのは初めてで。それも、こんなに美しい方を……」
この男たちも学友というヤツだろうか。同じような年頃に見える。
そのうちの数人は既婚者のようだ。それでも、恍惚とした眼差しで吐息を漏らしている。
ルシィはその賞賛に満足し、微笑んだ。
「ごめんなさい。他の男性とは話すなと言われているの」
それを言うと、男たちがざわついた。
「独占欲丸出しじゃないか。あのノックスがな……」
「まあ、わからなくもないけど」
ちょっと違う方向に納得されたが、まあいい。
――と、ルシィは思ったのだが、クリフはよくなかったらしい。戻ってきて早々、顔が怖い。
「君は彼らに何を言ったんだ?」
「何って、あなたに言われた通り、喋らないようにしていただけよ?」
約束通りにしたのに、クリフは疑わしそうに半眼になっていた。ひどい話だ。
この時、クリフが何か言い返すよりも先に別の人物が声をかけてきた。
「おや、珍しい男がいるな」
クリフの顔がぎくりとしていた。多分、この人のことが嫌いなのだとルシィはすぐに感じた。クリフの肩越しに相手を見遣り、ルシィは目を疑った。
年の頃は四十代前半。橙色に近い明るい髪色の癖毛を逆立てているが、頭頂はうっすらと透けて見える。顔は丸く脂ぎっており、寝ているのかと思うほど目が細かった。
何より、こんな気の張る場所なのに、着ているベストのボタンの三番目がはち切れんばかりだ。
どうしてもっと自分に合ったサイズを用意しなかったのだろう。もしくは、痩せておかなかったのだろう。
ルシィは、今まで出会った人間の中でも五本の指に入る醜さに呆然としたが、そんなことは相手には伝わらない。
その中年男はむしろ、ルシィの美貌に少し見惚れていた。それが嬉しくないと初めて思った。
しかし、男は我に返るとクリフを見上げた。背が低いのだ。
「君の婚約者か何かかね?」
甲高くて耳障りな声だ。ルシィは彼の第三ボタンが気になって仕方がなかった。顔よりもそちらを見てしまう。
「いえ、違いますが。……お久しぶりです、グレシャム殿」
グレシャムというらしい。彼はフン、と鼻を鳴らした。
「結婚はしないと言い張っていた君だ。どういう風の吹き回しかと思ったが、やはり違うのか」
ねっとりと嫌な視線で舐めまわされた。あの人の半分以下しか開いていない糸目から、よくそんな視線が送れるものだ。とにかく気持ち悪い。
顔を見たくなくて視線を下げると、彼の呼吸に合わせて腹のボタンが揺れる。
オッホン、と変な咳ばらいをし、グレシャムはクリフに言った。
「私もそろそろシェブロンの町に戻ってもいいと考えている。君が赴任してもう六年だ。そろそろ飽きた頃だろう?」
この男が、皆が――動物たちまでもが言っていた無能領主か。
これ以上ないほどに納得してしまった。
「飽きる、飽きないの問題ではありません。あの町はまだ脅威にさらされています。対策が十分なのでしたら、それも可能かと存じ上げますが、いかがするおつもりでしょう?」
クリフは感情を抑えながら話しているけれど、グレシャムは短慮だった。力強く靴底を地面に叩きつけるように踏み締める。腹が、ぷるん、と揺れた。
「脅威と言うが、この六年、なんの問題も起こっていない。年々魔族は力を失っているのだ。この六年、君はそれを正確に報告しようとしなかった。違うかね?」
違うと思う。
ルシィも一度、魔族の襲撃を目の当たりにした。あれは、この無能がどうこうできる軍勢ではない。グレシャムの魔力は、クリフの十分の一にも満たないのがルシィにはわかる。
「魔族はむしろ、年々数を増やし、力を増しています。そう報告させて頂いたことに偽りはございません」
正直に話しているのはクリフの方だ。しかし、グレシャムは頭が悪いらしい。
「まったく! 君は殿下の学友であること、学院を飛び級で魔術師団に引き抜かれたことを鼻にかけ過ぎている。いかに殿下たっての御指名であろうとも、あの町は私の領地で、正式な領主は私だということを君はちっとも理解しておらん!」
顔を真っ赤にしてそんなことを言う。なんて面倒くさい男だ。
ルシィは一度口を開いたらこのグレシャムをけちょんけちょんに言い負かしてしまうだろう。そうしたい衝動に駆られるが、それをするとかえってクリフが場の収集に苦労してしまう。それがわかるから、やはり約束通りに黙っていた。
クリフはグレシャムが言うことは予測できたのか、動じているふうでもない。このままやり過ごそうとしている気がした。だからこそ、グレシャムはとにかく気に入らないのだ。
フゥフゥと荒く息をすると、グレシャムはそれを落ち着けながら言った。
「まあ、いい気になっていられるのも今だけだ。近いうちには返してもらうことになるのだからな」
不吉な捨てゼリフを残していく。足音まで憎らしげで、グレシャムが遠ざかった途端にクリフが脱力したのがわかった。さすがに気の毒になる。
「あなた、敵が多いというか、変なのに恨まれているというか」
「……関わりたくないが、関わらざるを得ないのが苦しいところだ」
グレシャムに絡まれていた間、いくつかの視線が投げかけられていたが、誰も助け船を出すつもりはなさそうだった。どちらかと言うと、いい気味だとか、そういった類の嘲笑が含まれていた。
クリフの持つ強い魔力に対するやっかみではないかと思う。
ほんの少しだけ意味合いが違う視線もあった。
「あと、どこかで見たことがあるような顔をした中年男性が、あなたのこと穴が開くほど見ていたわ」
グレシャムとは違い、無駄な肉はついておらず、長身で骨太な男性だった。こんな場にいるのだから、貴族だろう。
クリフは、ああ、とつぶやいた。
「あの人は絡んでこない」
「どうして言いきれるの?」
素朴な疑問だったが、クリフは苦々しい顔になる。
「あれは私の父で、数えるくらいしか口を利いたことがないからだ。自発的に寄ってこない」
それを聞き、納得した。ノックス卿はハミルトンと似ているのだ。
妻が死ぬ原因となったクリフを未だに許せないという。それにしたって露骨だ。
「ふぅん、あなたの事情も複雑ね」
ルシィには負けるが。
深々とため息をついてるクリフの腕にルシィは自分の腕を絡める。
「帰りましょうか」
「そうだな……」
また面倒くさいことになる前に帰った方がいい。それにはクリフも同感のようだ。王子にはおめでとうと言えたのだから、それで目的は達成されたはず。
ルシィはクリフを見上げて言った。
「やっぱり、私が来てよかったみたい」
「どうして? ……君まで嫌な思いをしたんじゃないか?」
グレシャムの声を聞いているだけで神経を逆撫でされるのは、誰しも同じだろう。クリフはルシィに同伴を頼んだ手前気まずそうだ。
「だから来てよかったでしょう? あなたが一人であんなのに耐えなくて済んだんだから」
それを聞くなり、クリフは素直に笑った。
「ああ、違いないな。ありがとう」
グレシャムとノックス卿の毒がクリフを苛むことはなかった。ルシィが毒を薄めてあげたから。