◆5
ハミルトンが先に馬車から降り、ルシィをエスコートして降ろす。
とりあえず隙を見て隠れようかと思ったのだが、馬車を降りた先にモリンズがいた。落ち着き払っているこの執事が驚きのあまり片眼鏡を落とすところを初めて見た。ひびが入ったらしく、拾ってポケットにしまっている。
「ハ、ハミルトン様……っ」
ハミルトンに驚いたわけではなく、もちろん一緒に降りてきたルシィに驚いたのだ。ハミルトンはルシィをそっと隣に誘導する。
帰りたいな、とルシィはバスケットを抱えながら思った。
「モリンズ、兄さんは?」
「……書斎におられます」
「そうか、通してくれ。こちらのご婦人は――」
言いかけて、ハミルトンはルシィの名前を知らないことに気づいた。まだ名乗っていなかった。
モリンズはわざとらしく息をついた。
「こちらへどうぞ、ハミルトン様。ルシィさんも」
今度はハミルトンの方が驚いてモリンズを見たが、モリンズはすでに背を向けていた。
「ルシィさんと言うのか。モリンズと知り合いだとは……」
「ええ、まあ」
行きたくないのに、ハミルトンがルシィの後ろに立つから逃げ場がない。悪気がないのは伝わるが、ルシィにとって非常に厄介な青年だ。
「クリフ様、ハミルトン様がご到着なさいました。お通し致しますが」
モリンズが書斎の扉の前で言うと、中からクリフの声が返る。
「ああ、入れ」
カチリ、と音を立てて扉が開かれる。ルシィはいい加減に腹をくくった。
もう仕方がない。喧嘩をしよう。
「ハミルトン、こんな時間になるなんて、どこで――」
と、歩み寄りながら言いかけたクリフの言葉が切れたのはルシィのせいだろう。自覚はある。
赤い宝石のような目が零れんばかりに見開かれていた。ルシィの姿を上から下まで見て、それでもクリフは言葉が出ないらしい。
ハミルトンはそんな兄に言った。
「町の手前で男たちが女性に乱暴しようとしているのを見つけて助けに走った。そいつらは木にくくりつけてきてあるが、さっき入り口で自警団に事情を説明して捕らえに行かせた。三人いる」
「その女性というのは、もしやそこの……」
クリフの顔が見たこともないくらいに引き攣っていて、語尾が震えていた。
ハミルトンは機微を読めないらしい。そのまま続けた。
「そうだ。ひどい目に遭ったが、無事だ。なあ、兄さん、町の外とはいえ、すぐ近くだ。治安に問題があるんじゃないのか?」
「町の外にいたのか? 一人で?」
クリフの咎めるような声に、ハミルトンはムッとした。
「一人でいた方が悪いなんて言うんじゃないだろうな? 恐ろしい思いをしたのは彼女なんだぞ」
庇ってくれるのはありがたいと思うべきなのかもしれないが、これでは話が長引くだけである。さっさと終わらせないと帰れない。
ルシィは深々とため息をついた。
「だって、町の外まで行かないと採れる薬草は限られているんだから、仕方ないじゃない」
怯えもせず、畏まりもしないルシィの態度にハミルトンが目を剥いて振り返る。そして、ルシィとクリフを交互に見遣った。
「……その薬草は私に使うものか?」
クリフは怒ったように見えた。事実、怒っているのかもしれない。
その怒りは、不用心にも問題を起こすルシィに対する苛立ちなのだろうか。別に、好きで問題を起こしたわけではない。
ルシィもクリフの苛立ちを受けて、それでも余裕を見せるように微笑してみせた。ただし、目は笑っていなかったかもしれない。
「そうね。それもあるわ」
すると、クリフの表情は余計に厳しさを増した。
「じゃあ、そんなものは作るな」
「どうして?」
クリフが怒るほどにルシィは冷めた。火と水ほどに相容れない。
怒られる筋合いはないという気がしてならないのだ。
「君は、助けが来なかったらどうした? そんな目に遭ってまで作る薬なら要らない」
ずっと握り締めている拳が開かれることもなく、感情に揺れている。ルシィはそれに目を留めたが、すぐに逸らした。
クリフはあの握り締めた手の中に本音を隠し、ルシィの行動を非難する。ルシィにはそれが不快だ。
だから、どうしても手厳しくなる。
「気が咎めるの? そんなこと、あなたが気にするものじゃないわ」
「君は――」
怒りからか、いつも以上に顔が青白い。それでも、ルシィは言い放った。
「あのね、私があなたに詫びなくてはいけないことがあるとしたら、せっかく買ってもらった服を一着駄目にしたことくらいよ」
ハミルトンが、え? え? と戸惑っているが、今の彼はこの部屋の中では脇役だ。口を挟めもしない。
「私が勝手な行動でどんな目に遭ったとしても、それは自業自得でしょう? あなたのせいではないし、お説教はかえって迷惑なの」
「……私が君の心配するのは迷惑だと?」
わかっている。心配をして、だから怒るのは。
これがトリスやセイディなら、ルシィは素直に受け入れた。少々の反省も見せた。
けれど、クリフに頭ごなしに言われるのは腹が立つ。
手助けが必要な弱い女と見られるのが我慢ならない。今のルシィが事実それなのだとしても。
「じゃあ、心配してくれてありがとうと言ってほしいの? 私は頼んでいないわ」
声が冷ややかになる。
ただ、ここまで言うつもりではなかった。話を長引かせたのがいけなかったのだとしても、引けない。
クリフはいい加減に愛想を尽かし、今後ルシィとは口も利きたくないと考えるかもしれないが、もういい。ルシィもクリフのことは頼りたくない。
毛を逆立てた猫のようなルシィからクリフは目を背けた。やはり、恩知らずなルシィに限界近くまで怒りが溜まったのだろう。
「モリンズ、メイドの仕着せでいい。何か服はないか?」
「え、ええ、ございます」
「出してくれ」
硬い声で指示を出したクリフを見遣り、モリンズはこの場を離れてもいいものか困惑しているようだった。それでも一礼すると急いで出ていった。
三人の空気が重たい。
クリフはルシィの方を見ずにつぶやく。
「君のためじゃない。その恰好で帰ったらトリスたちが驚くからだ」
本当に、セイディ辺りに知られたくはない。あの家族を気遣うのは、二人にとって共通する唯一のことではある。
どうしてこんなにもクリフが気に入らないのだろうかと、ルシィは自分に問いたいほどだ。なのに、態度を改める気はない。どこまでも。
「そうね。お気遣いありがとう。こう言えば満足?」
「……それから、薬は要らないと言った通りだ。私の顔も見たくないだろうから、これでここに来る用事もなくなるはずだ」
町から出て行けとは言わない。ルシィには行くあてがないと知っているから、それを言うのは卑怯だと思っているのだろう。
それでも、気に食わないのは確かだ。
「じゃあ、帰るわ。さようなら」
早く帰ろう。
顔を背けているクリスの背に言い放ち、ルシィは部屋を出た。ハミルトンが追いかけてきそうだったが、クリフが何かを言って止めていた。扉を閉めると、声が低すぎて聞こえない。
廊下でブラウスを持ってきていたモリンズと鉢合わせた。目が、クリフ以上に怒っている。
「あなたの主であって、私のではないの。そこは履き違えないで」
ルシィをただの人間と同じように扱うから。そこに当てはめようとするから、それが嫌だった。
その枠の中に納まらなくてはならないのなら、ルシィはこの町にいたいとは思わない。
モリンズは何かを言いたげにしていたけれど、クリフのためを思うのなら何も言わない方がいいと気づいたらしい。眉間に皺を寄せていただけだった。
「どうぞ。お戻しにならなくて結構です」
返すために顔を出さなくてもいいということだ。ルシィは白いブラウスを受け取った。
「そう。頂くわ。ありがとう」
ブラウスを手に、廊下を歩く。モリンズは追ってこなかった。角を曲がったところでサッと着替える。どうせ誰もいない。
ハミルトンの上着は階段の頂部装飾に引っかけて置いておこうとしたら、この時になってハミルトンが追いついた。
「あ、あの、ルシィさん」
「なぁに?」
先ほどまで自分の兄に暴言を吐いていた女だ。扱いに困るだろう。
「これ、ありがとう。助かったわ。じゃあね」
上着を渡してさっさと帰ろうとしたら、手をつかまれた。
「送っていきます。トリスたちのところでしょう?」
暗くなってきたにしても、あのやり取りを聞いていて、何故それでまだ親切にしようと思うのかがよくわからない。
それでもハミルトンにとっては、ルシィはまだ悲惨な目に遭った可哀想な女性なのだろうか。
「平気よ。そんなに遠くないし」
「でも、今日は色々とありすぎたので」
「あなたがついてきたら、トリスたちにどう説明していいかわからないもの」
「それなら、外まででいいんです。挨拶には明日改めて伺いますから」
急に敬語になったな、と思った。