◆2
薬草を煮る場所が他に確保できないなら、せめて消臭効果のある薬草を入れてみよう。
ルシィは煮込み料理に入れていたローズマリーを拝借した。これくらいなら薬の成分を損なわないだろう。
しかし、これだけでは完全に消えなかった。やはり臭いを気にしなくてもいい場所を確保したい。
竈はないが、この際、炭と魔鉱石で熾した火でなんとかしてみよう。
広くて、あまり人がいないところは――町の外しかないかと思ったが、それだと煮るのに何時間もかかって町に帰れない。門が閉まって野宿するはめになりそうだ。それだと、セイディたちに心配をかける。
考えた挙句、思いつくのは領主館であった。
あそこは広いし、人も少ない。クリフが雇っている人員は必要最低限で、そのうちの半数は通いだ。
ルシィは鍋を抱え、炭と魔鉱石を持ち、領主館へ続く坂道を上った。今だけは絶対に転んではいけない。細心の注意を払い、ゆっくりと進んだ。途中、変な目で見られた気はするが、構っていられない。
辿り着いた領主館で呼び鈴を鳴らすと、嫌そうな顔をした老執事が出てきた。
「……その古びた鍋は?」
挨拶もなく、いきなり本題に触れる。まあいいか、とルシィは笑顔で返した。
「少し庭を貸してほしいの。それが駄目なら、灯台に続く裏手のところでいいわ」
「一体何をなさるおつもりで?」
「薬を作りたいの」
何故ここで、とは問い返されなかった。薬というのがクリフのためのものだと思ったのだろう。
モリンズはため息をついて首をゆるゆると振った。
「クリフ様にお伺いして参ります」
「ああ、いいのよ。何も言わなくて。もし叱られたら、私が勝手にしたことだって言えばいいから」
「そういうわけには参りません」
固いな、とルシィは面倒になったが、場所を提供してくれるのなら文句を言う筋合いでもないかと思い直す。
「じゃあ、庭にいるわ」
さっさと玄関から庭へ移動する。
領主館の庭にクリフがどの程度の関心を寄せているのかはわからない。花で溢れ返っているわけではないが、丁寧に整えられている。
今の時季は薔薇が見頃だ。あれも薬に使えそうだからと毟ったら、さすがに怒られるだろうか。
ルシィは庭丁の大柄な老人を捕まえた。
「こんにちは。ねえ、煉瓦を少しわけてほしいの」
「煉瓦?」
「あるかしら?」
庭丁はルシィのことなど知らない。鍋を抱えた女が我が物顔で歩いてるのに遭遇しただけだ。とにかく首をかしげている。
「まあ、あるにはあるが」
「そう。いくつか貸して頂戴」
「あ、ああ」
ルシィが偉そうに言うからか、庭丁の方が呑まれていた。おかげで話が早く進む。
庭の目立たない一角に煉瓦で土台を組んでもらうと、ルシィはその上に鍋を置いた。そして、炭を鍋の下に入れると、火属性を持つ赤い魔鉱石をふたつ、カンカンと打ちつけて炭の中に放り込んだ。すると、炭に熱が移っていく。
赤くなった炭を眺めつつ、どうしてこんな原始的な方法で薬を作らなくてはならないのかと、己の不遇を呪いたくなった。魔法が使えたらすぐなのに。
じっと炭を見つめているルシィに、一緒に炭を眺めていた庭丁はぼそりと言った。
「儂はそろそろ帰らないといけなくてな。婆さんが待ってるから」
「あらそう。ありがとう。使い終わった煉瓦は隅の方に置いておくわね」
淡々と会話をする。庭丁は、うん、と答えた。
なんとなく熊みたいで、いちいち騒ぎ立てないところが好ましい老人だ。老人と言いつつ、ルシィの方が年上かもしれないが。
庭で薬を煮詰めていると、やはり臭い気がする。煮立ってくると、湯気が臭う。ルシィはなんとなく蓋をした。これで少しはマシだろうか。
もう少し強い消臭効果のある薬草を探さないといけない。明日、また外へ出てみよう。
考えたくはないが、魔力のないルシィの作る薬は、以前よりも効果が薄いとも考えられる。
惚れ薬のような高度なものなら、薬効が十分ではない可能性がある。こんなに苦労して作っているのに。
――いつになったら魔力は戻るのだろうか。
今のところ、なんの兆しもない。ルシィの中にあるのは、クリフから搾り取った微量の魔力で、こんな程度では話にならない。
はぁ、とため息をつくと、臭いに誘われ――るわけはないが、呼んでいないのにクリフがやってきた。
怒っているふうではない。ただ、理解不能なものを見る目つきにはなっている。
「……君は一体何をしている?」
「モリンズに聞かなかったのかしら? 薬を作っているの」
ルシィはしゃがみ込んだまま、クリフを見上げた。
白銀の髪が陽に透けてキラキラと輝いている。
美しいものは嫌いではない。眺めているのは好きだ。
けれど、クリフのことは眺めていようとは思わない。その魔力がほしくなるから。
プイッ、とクリフから顔を背けて薬の方を見る。
「その薬は、以前私に飲ませてくれたものか?」
そういうことにしておこう。今決めた。
「そうよ」
答えると、クリフがルシィの横にしゃがんだ。さっき庭丁がいたところに同じようにしている。
無駄なことを訊いてこない庭丁の方がよかった。
「……君はまだ、自分のことを話す気にはなれないのか?」
クリフがそんなことを言ってきた。
「私は記憶喪失なの」
真顔で返したが、それを信じろと言うのが図々しいのもわかっている。
それでもクリフは、そうか、とつぶやいた。
そのまま無言で横にいるから、ルシィは鍋の蓋を開けた。臭いからどこかへ行くかと思った。
ゴボゴボと煮えたぎった鉄色の液体をヘラで混ぜる。ルシィはこういう臭いには慣れているが、クリフは湯気を吸ってやはり、ゴホッとむせていた。
ただ――。
湯気にも微量ながらに薬の成分がある。口元に手を当てたクリフの顔がほんのりと赤らんで、目が潤んだ。
何やらいつもより視線に熱があるような気がして、ルシィは慌てて鍋に蓋をした。
話を逸らしたい一心で、ルシィは深く考えずに口を開く。
「あなただって、人に話したくないことのひとつやふたつあるはずよ」
臭気が弱まると、クリフはハッと我に返ったような様子だった。気まずそうに鍋底の炭に視線を落とす。
「そうかもしれない」
これを口にしたのが諦めからであればいいけれど、多分そうではない。クリフはまた、ほとぼりが冷めた頃に同じ質問をしてくるのだろう。
ルシィが現在、この町の住人であったとしても、それは長く続くことではないはずだ。無理をして理解しようとしてくれなくていい。
自分のことは放っておいて仕事をしてほしい、とルシィはクリフを追い払った。
その邪険な扱いにモリンズが遠くから射るような視線を放ってきたけれど、ルシィは受け止めなかった。
煮詰めた薬の入った鍋が少し冷めるのを待って家に帰る。
程よい瓶がなかったので、ジャムの空き瓶をもらった。移し替えると、貴重な薬の有難みが消え失せた。