◆9
「ルシィ!」
名を呼ばれた。振り向くよりも先に、ルシィとセシリアの間に割って入ったのはトリスだった。
どうしてここに来たのだろう。いいタイミングだ。褒めてもいい。
トリスが割って入ったことで、セシリアは冷静になったらしい。あの恐ろしかった形相から薄幸の寡婦へと逆戻りだ。
「わたしは夫たちを死に追いやった死神だって詰られて、ついカッとなって手を上げてしまいました。お詫びします」
セシリアは震える手を自分で握り締めている。ルシィはため息をついた。
トリスは善良の見本のような青年だから、セシリアを疑ったりはしないだろう。クリフと同じくらい容易く騙されるのが目に見えている。ルシィはがっかりしている自分を感じていた。
けれど、トリスはルシィとセシリアの間に立ちふさがったまま、淀みのない声で言った。
「詰ったって? ルシィは面白半分でそんなことしないよ。何か理由があるんだ」
これにはルシィの方が首をかしげてしまった。トリスは何を根拠にこれを口にしたのだろう。
未だに立ち上がらないルシィに手を貸し、立たせてくれる。セシリアは、それでも憐れっぽく声をかすれさせていた。
「あなたも、わたしのせいで夫たちが死んだと言いたいのね?」
トリスはまっすぐな目をセシリアに向けた。
疚しい人間には耐えがたい無垢な目だ。セシリアが怯んだのがわかった。
「それを判断する材料がないから、そんなことはわからない。ただ俺は、ルシィがよく知らない他人の悪口を楽しむような人じゃないと思ってる」
思わず目を瞬いた。誰もルシィの味方をしてくれなかったのに、トリスは違うのか。
セイディとハンナがクリフの味方だから、きっとトリスもそうだと決めつけたのはルシィの方かもしれない。
驚くくらい嬉しかった。誰かに信じてもらえるということがこんなにも嬉しいのだと知ったのは、信じてもらえない悲しさを先に知ったからだ。
以前のルシィなら、人間にどう思われようとも構わなかったのに。
「今見たことを領主様に言うの?」
セシリアの目が揺れた。悲しそうに見える。上手だなと感心した。
善良なトリスは、正直だった。
「言うよ。でも、あなたが先にクリフ様に伝えることがあるのなら、先に行けばいい」
すると、セシリアは一筋の涙を零した。それでも、トリスは前言を撤回することはなかった。
無言のまま、セシリアはフラフラと去っていく。逃がしていいのだろうかと思ったが、足首が痛くて追いかけられない。噂好きな青い小鳥がセシリアの上をくるりと飛んだ。
また、あの小鳥に訊けばいいか。
「ルシィ、大丈夫?」
同じ目線で正面に立つトリスに抱きつきたくなった。男性として好みではないけれど。
「ええ、ありがとう。どうしてここに来たの?」
「セイディにルシィを捜してって頼まれて。前にこっちの方面で会ったから、こっちかなって見に来て正解だったな。……セイディ、なんか泣きそうになってたけど、喧嘩でもしたのか?」
泣きそうになっていたと聞き、ルシィは首をかしげた。
「いいえ。クリフとは喧嘩もしたけど」
「そっちか……」
深々とため息をつかれた。
セイディはトリスに捜させるほどルシィのことが気になったらしい。他に行くところはないので、放っておいても戻ったが。
「あなたたちがクリフと同じものを信じるのは仕方がないと思っていたわ。クリフがあの人を無実だと信じている以上、私が何を言っても通じないもの。でも、トリスは私の言い分を聞いてくれるのね」
歩き出すと、また転びそうになった。痛みが引かないと思ったら、足首が腫れていた。
ルシィの傾いた体をすかさず支えたトリスは、ルシィが無言で指さした足首を見て、ああ、とつぶやいた。
そして、いつかのようにまた背を貸してくれる。そのまだ少し頼りない背に乗ると、トリスは言った。
「セイディはクリフ様を信じているから、同じものを信じるなんてことは言わないよ。ただ、セイディにもあの人を疑ってもいいと思えるだけの根拠がなかっただけじゃないのか? でも、上手く言えなかったらルシィが傷ついて見えたって、気にしてた」
傷ついて見えたのだろうか。本当に。
だとしたら、ルシィはもう誇り高い魔女とは言えないかもしれない。
それなのに、トリスの背中は案外心地よかった。
〈カラスとオリーブの枝亭〉の前にはセイディがいて、ルシィを背負ったトリスを見るなり慌てて走ってきた。
「どうしたの、ルシィ!」
「転んだの。足を挫いたみたい」
ああ、と納得された。それからセイディは、ルシィの服の袖をギュッと握り締めた。
「ごめんね、あたし、上手く言えなくて」
「何を?」
トリスは立ち止まっていると疲れるのか、ルシィを下ろした。重たかったと言いたげに手を振っている。失礼な。
セイディは、トリスが言うように少し泣きそうだった。
「クリフ様と口論になって、ルシィが出ていく出て行かない、みたいな話をしていたんでしょう? これ以上クリフ様と喧嘩にならないといいなって思ったのもあって……」
ハンナから聞いたのかもしれないが、あれは売り言葉に買い言葉でしかない。
それなのに、セイディは悲しそうにした。
「行くあてなんかなくったって、ルシィは愛想を尽かしたら出ていくでしょう?」
「そうね」
「あのまま出ていったんじゃないかって心配になったの。私、ルシィの考えをちゃんと聞けていなかったわ。ごめんなさい」
――付き合いの長さや濃さだけでクリフの肩を持っていると、ルシィはセイディのことも見くびっていた。セイディは、ルシィを心配して間を取り持とうとしていただけなのに。
ルシィは、セイディのことをギュッと抱き締めた。柔らかくて、あたたかくて、ほっとする。
人間なんて、愚かで嫌いだった。今でもそんなに好きじゃない。
それでも、嫌いだけでもない。好きなところも、不意に愛しくなることもある。
「黙って行ったりしないわ。ありがとう、セイディ」
うん、とくぐもった声が返った。今日の嫌なことは全部忘れた。
ハンナは余計なことを言わず、美味しい夕食を出してくれた。ローストチキンのオレンジソース添え、キドニービーンズとひき肉のチリコン・カルネ、ラタトゥイユ。
ルシィは誰よりもよく食べた。色々とあっておなかが空いていたのだから。




