◆5
このシェブロンは港町で、そばには港がある。住民のいる町は丘の上にあって、波止場や魚市場は坂を下っていったところになるのだ。魔族が出没し始めてから、ここの港に着く船は国内船ばかりになったと聞く。
どちらにせよ、港には今のところ用もなく、ルシィは赴いたことがない。
ルシィにとって重要なのは海ではない。森だ。
この町には植物が少なく感じられた。それを言えるほどルシィがシェブロンの町を熟知しているわけではないのだが、森で暮らしていたルシィには物足りない。
公園には木や芝生が生えていたが、ルシィが薬にできるような薬草はほとんど見当たらなかった。
「ねえ、この町の地理を知りたいの。教えてくれるかしら」
ルシィは夕食の後でまだ席に残っていたトリスに頼んでみた。トリスは少し考え、教えておいた方がいいと判断したようだ。
「そうだな、迷子になったらいけないし」
迷子になるような年齢のつもりはないが、ならないとも言えない。二人が話しているとセイディが戻ってきた。
「どうしたの?」
「うん、ルシィが町のことを知りたいみたいでさ」
トリスは、机の上を指先でトントン、と叩く。
「ここがうちの食堂だとする」
「ええ」
「この正面の通りがメインストリート〈モーティマー通り〉。まっすぐクリフ様のいる領主館まで行ける。反対側に進むと町の入り口、大門だ。その両脇にそれぞれ自警団の詰め所と検問所がある」
ここはしょっちゅう通ったからわかる。ルシィはうなずいた。
「うちの食堂はハイアット三丁目な。ハイアットは六丁目まである。モーティマー通りを挟んだ東側はオクリーヴ、ここも六丁目までだ。オクリーヴの方から港へ下りられる道が伸びていて、ハイアット側は教会と墓地に続いてる」
トリスの指が忙しく机の上を行き交う。紙に書いて残さずとも、ルシィにはそれで十分だった。
このシェブロンの町の住人はハイアットかオクリーヴ、どちらかに属しているということだ。領主館を別とすれば。
「教会は、ベルナ教の教会でしょう?」
この問いかけの答えは聞くまでもなかった。
「ええ、そうよ。といっても、熱心に通っているのはお年寄りばかりね。若い人ほど無関心になりつつあるって嘆いているもの。私たちだって、生誕祭の時くらいしか行かないし」
と、セイディが苦笑する。
アジュール王国の隣国であるヴァート皇国発祥の宗派であるベルナ教は、信仰が奇跡を起こすとされ、世界中に広まったものの今ではかなり軽んじられている。
ベルナ教が力を持っていた頃は、神の現身、ベルナ教の聖女の名であるベルナデットが大流行し、十人に一人はベルナデットだったと聞いたが、趨勢が虚しい。
それでも、この町の人々も冠婚葬祭の時には世話になっているようだ。
「よくわかったわ。ありがとう」
ルシィが二人に礼を言った時、すでに決めていた。明日、町を散策してみようと。
◆
その日の食堂の仕事が終わってから、ルシィは出かける。
どこへ行くのかと問われる前に抜け出した。
ルシィが行きたいのは墓地だ。
何故かというと、墓地には面白い植物が植えられていることが多いからだ。
土葬された遺体を護るため、獣が嫌う植物を植える。その多くがルシィにとって役立つ植物だったりする。
何があるかしら、と期待に胸を膨らませながら歩いた。
トリスの口調からすぐ近くなのかと勝手に思っていたのだが、歩くと遠く感じられた。靴擦れしそうだ。片道で疲れたが、なんとか辿り着くことができた。
墓地とはいえ、蒼天の下、爽やかな風が吹いている。
小さな青い鳥が木の枝に停まったから、ルシィは注意してあげた。
「その木の実は食べてもいいけれど、種の中身は食べちゃ駄目よ。あなたたちには毒だから」
すると、小鳥は忙しなく首をかしげた。
『そうなの? いつか食べてみようと思ってからザンネン』
「食べる前に知れてよかったわね」
他愛のない会話を終え、ルシィは墓地を歩く。知り合いの墓があるわけではないと思ったけれど、もしかするとあるのかもしれない。
トリスの父親の墓だ。それが目的ではなかったが、綺麗に並べられた墓石をザッと見て回った時に見つけた。
――〈ユージーン・シェルヴィーここに眠る〉
きっと、これがハンナの夫なのだろう。
ルシィは顔も知らない男のために手を合わせた。随分と人間臭いことをしているなと自嘲しながら。
生憎と、供える花はないが。
ルシィが顔を上げた時、ふたつ向こうの墓に参っている女がいた。
暗い女だった。世界中の不幸を背負ったような顔をして、喪服に身を包んでいる。墓に白い花を手向け、熱心に祈っていた。
誰かを喪ったのだとして、まだ日が浅いのだろう。
ルシィは声をかけるつもりもなかったのだが、そばを飛んでいた小鳥がユージーンの墓石に停まり、ルシィに教える。
『三回目だよ』
「えっ?」
『あの女が未亡人になるのは三回目さ。少なくとも、この町ではね!』
小鳥は楽しげに、歌うようにそれを言って飛び立った。ルシィは空の青に溶け込んだ小鳥を眩しく見上げた。
三回はさすがに多いのではないのか。
急にあの喪服が死神の衣のように見えた。魔女にそんなことを言われる筋合いはないかもしれないが。
ハンナよりは若いとしても、精々が四十歳前後だろう。美しくも醜くもない、平凡な顔立ちをしているけれど、喪服の魔力か浮世離れして感じられる。
ルシィがじっと不躾に見たせいか、女はルシィに気づいて悲しげに口の端を痙攣させるように笑った。
「わたしの噂をお聞きになったのかしら?」
ええ、さっきそこの小鳥から――とは言わない。
「私はここへ来て日が浅いのよ」
ルシィが肩をすくめると、明らかに女はほっとしていた。
「そうでしたの。突っかかるようなことを言ってごめんなさい。少し、神経が過敏になっていて」
「いいのよ。こんな時世だものね」
適当に話を合わせておいた。すると、ルシィには詮索する気がないのだと安堵したのか、女は饒舌になった。
「ここはいい町だわ。領主様はお優しいし、海は綺麗だし。できることなら長く住んでいたいけれど、どうかしら」
領主様というのは、クリフのことか。お優しいらしい。
他の領主に比べると、お優しいということだろう。
「いいところかもしれないわね。まだよく知らないけれど」
ルシィにとっての一番は、あの森の中だ。美しい幻獣たちと、豊富な薬草に囲まれていて幸せだった。離れてみてそれを強く思う。
あそこと比べてしまえば、どこも見劣りする。それでも、女の言うことが的外れでないこともわかっていた。
町の人は、ルシィを訪ねてきた王の使いよりも性根がまっすぐだし、シェルヴィー家は皆、可愛い。幻獣たちに対するほどの愛着はある。
「じゃあ、私はこれで」
と、女は喪服の裾を翻して去っていった。
「――さ、薬草採取しなくちゃ」
ルシィは墓地を歩き回り、イチイとニガヨモギとクマツヅラ、ヤマアイとを採取した。傷薬くらいはできそうだ。