◆2
「え? ルシィが店を手伝うって?」
夕食時、トリスが目を瞬かせていた。やめておいた方がいいと言いたげな顔だ。
「いけないかしら?」
ルシィはトリスの童顔に微笑みかける。トリスは鶏肉とレンズ豆の煮込みを呑み込んでから言った。
「ルシィって、よくコケるから」
「そんなに頻繁じゃないわ」
そうだろうか、と今度はトリスだけでなくセイディまでもが思ってるように見えた。
確かに、トリスやセイディが転んだところは見たことがないかもしれない。認めたくないけれど。
ハンナは首を捻っている。
「そうだねぇ。水を運ぶことからお願いしてみようかね?」
「ええ、それくらい誰でもできるわ」
よかった。やることができた。
ルシィはその日、明日に向けて張りきりすぎてよく眠れなかった。こんなことは初めてだ。
開店前、セイディがルシィにエプロンを着けてくれた。麻の飾り気のないエプロンは、普段トリスが使っているものらしい。今日はトリスがいないので借りたのだ。髪もセイディがひとつに束ねてくれた。
これだけでもう、仕事をしたような気分になった。開店前だが。
「水は来たお客さんの数だけ運ぶの。おしぼりもね」
小さなコットンのハンカチは、おしぼりと呼ぶらしい。グラスに水を注ぎ、セイディはそれを木目の浮いたのトレイに五つ載せ、ルシィに手渡した。
「トレイはまっすぐにして。零さないように向こうのテーブルまで運んでみて?」
セイディがやっているところを見たことがある。揺れる不安定な水を零すことなくスタスタと歩いて運んでいた。とても簡単そうに見えたが。
「わかったわ」
――と、言って一歩踏み出す前に、トレイを受け取ってすぐに落とした。
ガシャン、ガシャン、と、グラスが割れる音が店内に虚しく響く。床にはガラスの破片が混ざった水たまりが出来上がった。
「……」
「……」
「……」
まっすぐ、の前に、水の入ったグラスはルシィには重たすぎた。セイディはあんなに重たいものを平然と運んでいたのか。
「料理じゃなくてよかったよ」
ぽつり、とハンナが言った。開店が五分遅れたのはルシィのせいである。
自分の足で歩くことすらろくにしてこなかったルシィが、重たいものを持ち慣れているはずがない。いつでも魔法でフワフワと浮かせて運んだ。大の男だろうと浮かせられた。
重たくて持てないとは、まったくの盲点だった。
「机、拭いてね」
それでもルシィに仕事を割り振ってくれる。セイディはいい子だ。
開店すると、外で待ち構えていた男たちがなだれ込んできた。
「ああ、腹減った!」
「今日は随分遅ぇじゃねぇか。仕事に遅れちまうよ」
「セイディちゃん、今日は――」
思い思いのことを口にする男たちが、セイディの隣にいるルシィを見つけ、固まった。騒がしかった店の中が水を打ったように静まり返る。
セイディはフフ、と笑った。
「しばらく手伝ってもらうことになったルシィよ。とっても美人でしょう?」
男たちは見るからに嬉しそうだ。ルシィとしても悪い気はしない。
「うおぉ! この光景が毎日拝めるなんて!」
「セイディちゃんだけでも癒されてるのに、こんなことってっ」
「ルシィちゃん、彼氏は募集中?」
頭が悪そうな連中だな、と思ったが、ルシィは微笑みをひとつくれてやった。それだけで感激しているのだから、楽なものだ。
「さあ、皆さん、席に着いてください。ご注文は?」
セイディが男たちを席に座らせ、水を用意しながらルシィに束ねた紙束とペンとを差し出した。
「これに受けた注文を書いて?」
「どうして書くの?」
「たくさんあるし、覚えきれないでしょう?」
たくさんというが、客は八人ほどだ。どうして覚えられないのだろう。
まあいい、とルシィは注文を受けに行った。
「ご注文は?」
「スモークサーモンとカッテージチーズのトーストサンド。ケッパー多めで。ポタージュも」
二人目。
「ご注文は?」
「バゲットセット。ハチミツとオリーブオイルを添えて。オムレツはこんがり焼いて」
三人目。
「カリカリベーコンと目玉焼きの載ったマフィン。彩りサラダ。ミルク」
四人目。
「スモークサーモンとカッテージチーズのトーストサンド。ベイクドポテトとソーセージ」
五人目――書くのがだるくなってきたので、やめた。
ルシィは八人分の注文を厨房のハンナとセイディに伝える。
「一、スモークサーモンとカッテージチーズのトーストサンド、ケッパー多め。ポタージュ。二、バゲットセット。ハチミツとオリーブオイルを添えて。オムレツはこんがり焼く。三、カリカリベーコンと目玉焼きの載ったマフィン。彩りサラダ。ミルク。四、スモークサーモンとカッテージチーズのトーストサンド。ベイクドポテトとソーセージ。五、カリカリベーコンと目玉焼きの載ったマフィン。ポタージュ。彩りサラダ。六、トースト、ママレードつき。ポリッジ。七、スモークサーモンとカッテージチーズのトーストサンド、彩りサラダのキューカンバー抜き。八、カリカリベーコンと目玉焼きの載ったマフィン。ミルク――以上よ」
ひと息で言い放ったせいか、二人にはポカンと口を開けられた。
「え、ええと……」
「もう一度言う?」
ルシィが首をかしげると、二人は首をブンブンと振ってみせた。要らないらしい。
「聞いても覚えられないわ。注文を書いた伝票を頂戴?」
「手が疲れたから、四人目までしか書いてないわ」
「書いて……」
セイディが困って見えたので、仕方なくルシィは続きを書いた。だるい。
それでも、ハンナはトーストを炙りながら感心してくれた。
「ルシィ、すごい記憶力だねぇ」
「そうかしら?」
褒められて悪い気はしないが、特別なことをした覚えもない。薬の処方などはすべて頭に入っているから、物覚えはいいのかもしれないが。
セイディがトーストサンドを仕上げていき、運ぶ段階になって躊躇した。ルシィの手は空いているが、自分で運んだ。信用がないのは否定できない。
客は皆、朝食を食べに来ている。食べ終えたらすぐに仕事に行くようで、無駄話はしなかった。出ていく客がいれば、入ってくる客もいる。
しばらくは引っきりなしに忙しくなって、ハンナとセイディはクルクルと働き者の妖精のように動き回っていた。いい匂いが常に漂っていて、いい空間だとルシィはのん気に思った。
そして、ルシィには汚れたテーブルを拭くという使命を与えられたが、布巾が絞れず――セイディが絞った布巾を渡された。
目まぐるしく働いた気がしたけれど、休憩と仕込みを終えたらすぐに昼食を求める客でもっと忙しくなるのだという。
こんなに忙しいのに、二人で間に合わせていたのだ。すごい親子だな、とルシィは感心した。
「私にできることは他にある?」
この申し出に、二人は動きを止めた。笑顔だが、笑顔のまま凍りついている。
しばしの沈黙の後、セイディは泥のついた芋を桶に盛ってルシィに手渡した。重いが、落とすほどではない。
「裏の井戸水で洗ってくれる?」
「ええ、わかったわ」
「井戸の中にお芋を放り込んじゃ駄目よ? 井戸から水を汲んで、その水で洗ってね」
芋を井戸に放り込んだら取れないことくらい、ルシィにだってわかる。しかし、警戒されるのは今に始まったことではない。
「これくらい平気よ」
ルシィは張りきって裏手に回った。