◆1
ここはアジュール王国の港町、シェブロン。
嵐や魔族の襲撃があった後だとは思えない、のどかな昼下がり。ルシィは二階の窓辺から路地裏を見下ろしていた。
昔は暇つぶしに最寄りの町まで出かけて空から人間観察をすることもあったのだが、こんなに近くで人間同士のやり取りを眺めたことはなかった。なかなかに興味深い展開が繰り広げられている。
「――お母さんの面倒はちゃんと見るよ。トリスとだって上手くやれる。だから、僕と……」
「ごめんなさい。あたし、今はまだ誰ともつき合ったりとか考えられないの」
「い、いや、でも、僕は本気で君のことが……」
「本当にごめんなさい!」
セイディは勢いよく頭を下げた。縄のような三つ編みが背中でぺこん、と跳ねる。
相手の男はパッとしない。目と鼻と口がついていることだけはわかるが、覚えられない顔だ。セイディに断られ、ショックで仰け反っているが、仰け反ったくらいでどうにかなるわけがない。
セイディは青年を残し、裏路地を駆け去る。
――と、ルシィがこの食堂〈カラスとオリーブの枝亭〉に居候を始めてから、何度この光景を目にしたことだろうか。
可愛くて気立てのよいセイディは、町の男たちに大層な人気だった。
ルシィがこの港町に到着してから半月ほど経った。
持ち物は宝石と貴重な薬。ただし、それだけでは今後生活していけない。
まず、大粒の宝石を換金できるところがなかった。むやみに持ち出すと、こんなものをどこで手に入れたと怪しまれるから、これは使わない方がいいとセイディとトリスの母親のハンナに諭されてもいる。
――あれは、シェブロンの滞在許可をクリフにもらってからすぐのことだ。
宝石を売れないとなると、ルシィはどうしていいのかわからなくなった。
「でも、それじゃあ私は何も買えないわ」
服も下着も着たきり雀。黒いロングワンピースが一着だけだ。
さすがにそれは困る。けれど、ルシィに金儲けの経験はなかった。
何をしたらいいのだろうかと首を捻っていると、セイディが小さな麻袋を手の平に載せて微笑んでいた。
「これ、クリフ様からよ。ルシィの身の回りの物をそろえるといいって」
硬質な音がする。硬貨がいくらか入っているらしい。
「施しなら要らないわ」
必要なくせに、ついそんなことを言ってしまうのがルシィである。
「お礼だそうよ?」
クリフ――クリフォード・ノックスは、この町の領主代理という立場にある青年だ。
誰も気づいていないが、魔族の血を受け継いでいるらしい。そのため、強大な魔力を持つ。ただし、それを使いこなすには体が保てず、使いすぎると寝込むから難儀なのだが。
以前、ルシィがその回復の手助けをした。
だから、その礼だと言う。それなら受け取ってやらなくもない。
「ねえ、ルシィ。お店が片づいたら買い物に行きましょう」
「何を買うの?」
「服とか、下着とか」
ルシィは、記憶を失って町のそばに倒れていたということになっている。
しかし、ルシィはただの人間ではない。魔女だ。
魔力を失ってもなお、魔女と呼べるのならば。
以前は、すべてのものは魔法で作り上げていた。人間のように買ったり、地道に作ったりしたことはない。よって、買い物などしたことがなかった。
「下着ねぇ」
服はともかく、下着を買うとは。
そんな日が来るとは想像もしていなかった。
――そうなのだが、町のランジェリーショップを訪れたルシィは、棚にずらりと並んだランジェリーの数々に目を奪われた。繊細なレースがたくさんついたものや、花のモチーフで飾られたもの、水玉やチェックといった柄のもの、ルシィが知る下着とはかけ離れて装飾的だったのだ。
下着とは、体型を美しく見せるためのものであって、それがこんなに綺麗に飾られる必要はない。それなのに、まるで洋服のように綺麗だ。
「ルシィは何色が好み? 店員さんにサイズを見てもらう?」
ランジェリーに見惚れていたルシィに、セイディが声をかけてくる。ルシィはぼんやりと振り向いた。
「綺麗なのばっかりね。セイディもこんなの着けてるの?」
「あたし? うん、いつもここで買うけど」
思えば、服は人が着ているものが見えるから、それを想像して具現化すればよかった。
ただし、下着は見えない。今の時代の女性がどんな下着を着けているのかなんて考えたこともなかった。母が着けていた下着しか知らなかった。
目から鱗が落ちる。こんなにも下着は進化していたのかと。
「何をお求めでしょうか?」
中年で細身の女性が声をかけてきた。腰が尋常ではなく細い。腰だけが。
相当な努力が腰に見える。それでも笑顔だった。
「サイズを見てもらえますか? あたしじゃなくて、こちらの」
と、ルシィの背を押す。折れそうな腰の店員は、首に下げていた紐でルシィの胸部を一周し、うなずいた。
「お客様、とてもスタイルがよくて羨ましいですわ。サイズは、五番――あちらの棚の商品からお選び頂けましたら丁度いいかと」
「ありがとうございます」
店員が指した方へ、セイディはルシィの腕を引いていく。
「ルシィはなんでも似合うから、好きなものを選んだらいいわ」
「そうねぇ」
ためしにひとつ手に取ってみると、柔らかかった。こんなに柔らかくて形が保てるのかと不安になる。
「試着できるからね」
「そうなの?」
それならいくつか試してみよう。
魔女には黒が似合う。ひとつは黒に白いレースがついたもの、もうひとつは薄紫にライラックの柄、あとひとつ――。
「ピンクが透けにくいからおすすめかな。濃い色は服を着ても透けるから」
「なるほどね。セイディもピンクなの?」
「う、うん」
どんな下着を着けているのか見たい。なんてことを考えてセイディの胸元をじっと見たせいか、セイディは一歩下がった。
「し、試着室はそっちよ」
三点のランジェリーを持って試着室へ向かうと、縦長の箱に押し込まれた。中には大きな鏡がある。セイディはそこにルシィを残し、カーテンを閉めようとした。それをルシィが止める。
「セイディはどうして外なの?」
「どうしてって、人が見ていると着けにくいでしょ?」
「構わないわ。中にいて」
セイディは少し戸惑いつつも一緒に入った。ルシィはワンピースを下ろし、着けていた下着を外し、胸元に黒いランジェリーを当てた。
「これ、どうやって留めるの?」
「後ろのここを引っかけて……」
と、セイディが手伝ってくれたが、見てはいけないものを見ているかのように鏡から目を逸らす。
「似合う?」
少なくともルシィは、今まで着けていた地味な下着よりも見た目が綺麗なだけで嬉しくなった。ただの下着なのに、選ぶのが楽しい。こういうものを着けていたら、それだけでウキウキする。
「うん、とっても」
同性でも下着を見せるのは気まずいことなのだろうか。じっとは見ないでセイディはうなずいた。
「近頃の下着ってすごいのね」
「近頃のって……?」
――おかしなことを言ってしまったらしい。ルシィは話を逸らすことにした。
「ねえ、セイディ」
「うん?」
「これって、クリフに買ってもらうことになるのよね?」
「まあ、そうとも言えるけど……」
「こんなの買ったって、見せた方がいい?」
「やめて? ね、お願い」
真剣に止められた。
こんなに装飾的なのだから、服の一部だろうに。どうしてそんなに過敏になるのだろう。
しかし、いけないらしい。
結局、ランジェリーショップでは三セットの下着を買った。これだけでルシィは上機嫌だ。
石畳の通りを並んで歩きながら、セイディは言う。
「後は服ね」
「服は黒。黒いワンピースでいいわ」
「それじゃあ今のと同じじゃない。いつも同じ格好に見えるわ」
実際、同じ格好で毎日過ごしていたのだが。
「じゃあ、服はセイディが選んで。私に似合いそうなのを」
「動きやすい方がいい? 見た目重視?」
それを問われた時、ルシィはようやく今後のことを少し考えた。これから何をしようかと。
クリフのための薬を作るのは、正直に言うと材料がそろわないと無理だ。それなら、薬草を採取しなくてはならない。すると、動きやすい服という結論になる。
「動きやすい服ね」
「うん、わかったわ」
セイディはエプロンドレスが多い。よく似合っているが、あれが動きやすいのかもしれない。ハンナは足が悪いので、食堂で厨房のことはするけれど、料理を運ぶのはもっぱらセイディだ。時折トリスが手伝う。トリスがいない時は、セイディが忙しい。
「ねえ、食堂の仕事を私が手伝うと言ったら嬉しい?」
「えっ? でも、ルシィにそんなことをさせるために引き留めたわけじゃないのよ」
驚いたように振り向く。セイディはいい子だ。
「やってみないと、できるかわからないわ。できなかったらごめんなさいね。でも、あなたたちにはよくしてもらっているから、何か手伝えたらと思って」
これは本心だ。そんなことを考えるようになったこと自体、おかしい。
ルシィは魔女なのだ。人間と同格ではない。感謝なんて、どこから湧いて出たのかもわからない。それなのに、シェルヴィー家の親子のことは好きだ。宝石と同じくらいには好ましい。大事にしたいと思える。
セイディは、嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえただけでも嬉しいわ。ありがとう、ルシィ」
セイディがルシィのために選んでくれた服は、セパレートになった海のように青いスカートと白いブラウス。それと、クリームイエローとグリーンのチェックの入ったワンピース。もう一枚のワンピースはハイウェストになっていて、これはルシィが好きな黒にした。
その他に寝間着を洗い替えに二枚。靴もフラットなものを一足。
服と靴はクリフに披露してもいいと言われたが、別にどうでもよかった。