◆11
領主館の客室のベッドは豪華だった。押してみると手が埋もれる。
ルシィが魔法で作り上げた自前のお気に入りのベッドより柔らかい。
しかも、セイディには別の部屋を用意してくれたので、広い部屋に一人だ。これはよく眠れそうだと、ルシィはワンピースを脱いでベッドに潜り込んだ。
そして、朝になっても目覚めなかった。
「ルシィ、そろそろ起きられる?」
自分で起きられなかったら、セイディが起こしに来た。ここには寝に来たわけではなかったが、結果としてはよく眠れた。体が軽い。
「ぅうん、おはよう?」
目を擦っていると、セイディに苦笑された。
「クリフ様がお呼びなの。一緒に来て?」
面倒くさいな、と思った。眠たい。家にいられたら、好きなだけ眠っているのに。
ふあ、とあくびをして、渋々ベッドから抜け出す。すると、セイディがぎょっとしていた。
服を着ていないからだ。とはいっても、下着は着けている。
椅子の上にかけてあったワンピースを頭から被り、靴を履いた。髪は手櫛でササッと整える。
「顔くらい洗った方がいいかしら」
「そうね」
呆気に取られているセイディの近くに水差しがあったので、リネンを湿らせて顔を拭いた。これでいいだろう。
「ルシィって、美人なのに大雑把ね」
「大雑把? どうして?」
大雑把とはどこを指して言うのだろう。違う気がする。
そんなやり取りが済むと、セイディはルシィをクリフの寝室へ連れていった。けれど、中には入らない。
「ルシィだけ呼んでくるようにって言われたの。多分クリフ様はルシィにお礼を言いたいだけだと思うわ。あたしがいると照れ臭いのでしょうね」
くすりとセイディは可愛らしいことを言った。
「そうね」
と返したが、本心ではない。
ルシィは気を引き締め直して扉を叩いた。
「来たわよ」
「入ってくれ」
短いやり取りだった。ルシィは言われた通り部屋に入った。隙間を残さずにパタン、と扉を閉める。相手が病人だからではない。別に、恐ろしくはない相手だからだ。
扉の前に立っていると、安楽長椅子に座っているクリフがいた。
もともと顔の青白い男だから血色がいいとは思わないが、昨日よりは随分楽そうだ。髪は結わず肩に流している。
ルシィは彼に歩み寄った。
「加減はいかがかしら?」
問いかけると、クリフはキッとルシィを睨んだ。少なくとも単純に感謝しているという態度ではない。だが、その険しい顔つきは長く続かなかった。
「いつもならもっと長引く。たったひと晩でここまで回復したのは初めてだ」
戸惑いが強く表れていた。ルシィが何をしたのかがわからないからだろう。
「それはよかったわね」
心の籠らない声で返すと、クリフは嘆息した。
「君が私に薬を飲ませたと聞いた。その薬はなんだ?」
「私が作った薬よ。なんにでもよく効くの」
「……製法を教えてもらうことはできないか?」
クリフの態度から険が弱まる。ルシィは笑うしかなかった。
「教えたところで作れないと思うわ。かなり高等技術なの。同じように作ったところで効力が出るかしら」
「君にしか作れないと言いたいのか?」
「そうね。そうなるわね」
なんといっても魔女の薬だから、普通の薬師が作るようなものとは違う。
大体、薬よりも重要なのは、ルシィが魔力を吸い取ったということなのだ。薬の効果だけではない。
クリフはこれをルシィの駆け引きだと思ったらしい。眉根を軽く寄せた。
「だから、この町に滞在させろと?」
「そんなことは言っていないけれど。私にいてほしいのはあなたでしょう?」
ぐうの音も出ないらしい。クリフは歯噛みしている。
「しかし、君は得体が知れない。記憶喪失なんて嘘だろう?」
「さあ、どうかしら。犯罪歴はないから安心して?」
犯罪ではない。ルシィのして来たことは合法である。人間の国家は魔女には不干渉なのだから。
それで納得したのかどうかはわからない。けれど、クリフは立ち上がってルシィの前に来た。ルシィは臆することなくクリフの赤い目をじっと見上げる。
ルビーのような目だ。赤く、美しくて、どこか悲しい。
「……わかった。滞在を許可する。ただし、騒ぎを起こした時はこの限りではない」
ルシィは静かに過ごしたいが、どうなるかはわからない。約束はできなかった。
「そう。ありがとう」
とりあえず微笑しておいた。普通の男ならこれで気をよくするはずだが、クリフは渋面のままだ。
「この館に滞在するように。私の目の届くところにいてもらう」
一瞬、フカフカのベッドの寝心地を思い浮かべてうなずきかけたが、それではいけない。
ルシィは魔力こそ失ったものの、魔女だ。少なくとも自分はそのつもりでいる。この自負がある限り、誇りは捨てない。人に飼い馴らされるなんてまっぴらだ。
小さく笑い声を立て、ルシィは長い髪を掻き上げる。そして、クリフに冷ややかな目を向けた。
「あら、ごめんなさい。私、ハンナのご飯が食べたいの。だからご遠慮させてもらうわ」
「…………」
「あの家はあなたの目の届く範囲ではないの? 構わないでしょう?」
クリフの返答を待たず、ルシィは背を向け、一歩進んでから振り返る。
こんな扱いを受けたことはないのか、クリフは唖然として見えた。
「それから、私は誰のことも崇めていないの。だからあなたのことも〈様〉なんてつけて呼ばないわ。私に何か命じてもいいのは私だけなのよ」
はっきりと目で挑みかけた。
クリフにもルシィと同様の自尊心があるはずだ。力で押さえつけてでも、自分に従わない女を屈服させようとするか。それでも、ルシィに屈するつもりはない。
この時、クリフがルシィに向けた目の奥に怒りはなかった。あるのは戸惑いだろうか。初めて接する奔放さに扱いあぐねている。
ルシィは、今後クリフがルシィにどう接するのかが見物だと思った。
背を向け、絨毯の上を歩む。そして――。
転んだ。
絨毯は柔らかいから、それほど痛くはない。痛くはないが、偉そうにした手前、恥ずかしいだけだ。手で庇うこともできずにこめかみをぶつけた。
声を上げずに済んだのは、自分でも何が起こったのかわからなかったからだ。
――どうしようか。
寝ころんだまま考えたが、起きないことには帰れない。
しかし、クリフの方を向きたくない。一体、どんな顔をしているのやら。
仕方なく手を突いて上半身を起こすと、背後で忍び笑いが聞こえた。遠慮なく笑っている。
「い、いや、すまない」
すまないと言いながら、ククク、とまだ笑っていた。
「まさかそこで転ぶと思わなかったから」
捨て台詞の効力が大幅にカットされたのは確かだ。ルシィは屈辱に震えていたが、クリフは膝を突いて助け起こしに来た。しかし、まだ笑っている。
笑い顔が、ルシィの前にあった。造作の美しい顔が優しく綻ぶ。そんな顔で笑うのかと、少し意外に思った。だから、ルシィは差し出されたクリフの手を取った。
取って、魔力を吸ってやった。笑った罰だ。
「ありがとう」
フフッ、と余裕で返すが、逆にクリフの顔から笑みが消えた。さすがに起きている時に吸うと何かを感じ取るようだ。ほどほどにしておかないと。
――魔女の森を飛び出し、アジュール王国へと逃れたルシィは、シェブロンの町へ身を潜める。
ルシィの魔力は何故なくなってしまったのか。もとに戻るのか、戻らないのか。
何もかもわからないままだが、とりあえずは生きている。
これからも、生きていく。
【 Chapter Ⅰ「魔女-魔=??」 ―了― 】




