◆9
夕日が沈みかけた頃、夕食にはラムシチューが出た。香草でしっかりと臭みが消されていて、トマトの甘みが引き立っている。
それと、バゲットに添えられている白いペーストは、ブランダードというらしい。天日干しにしたタラを柔らかく戻し、茹でた芋と滑らかに混ぜ合わせたもので、ニンニクとオリーブオイルが香る。
ここは港町だから、海産物が比較的手に入りやすいのだ。ルシィは森にいたから、海を見に行くことはあっても、魚を獲ったりしたことがない。海とは無縁で生きてきた。
思えば、ルシィが魔法で作り出していた料理は、ルシィの知っているものでしかないから、変わった料理は出せなかった。こういう素朴な味は初めてかもしれない。
「とっても美味しいわ」
お世辞ではない。本当に美味しいと思えた。
ハンナは目を細めてうなずいた。
「ありがとう。たくさん食べておくれ」
その言葉に甘えてたくさん食べた。多分、トリスより食べたと思う。
魔力がないせいか、おなかが空くのだ。魔力で体力を補えないのだろう。
セイディは、ルシィが食べ過ぎでおなかを壊すのではないかと心配しているふうだった。
四人で食事を終えようかという時になって、食堂のカウンターに置いてあった小箱が嫌な音を立てた。ヴヴ――ッと、箱が振動している。木製の小窓がついた箱で、小窓から光が漏れている。
「何、あれ?」
トリスが子犬のように和やかな顔を引き締めて立ち上がった。セイディとハンナの表情も険しくなる。
「警報よ。……魔族の襲来ね」
「え? 魔族?」
セイディはうなずいた。トリスは壁に立てかけてあったエストックをベルトで腰に固定するが、あんなもので魔族と戦えないことくらい、ルシィはよくわかっている。
「魔族が近づいてくると、あの警報を鳴らすんだ。そうしたら、あれがもう一度鳴るまで、自警団以外の住人は外へ出ちゃいけないって決まってる」
オーアの跡地からこのアジュールまで、海を渡ってやってくる魔族なら、翼を持っている。
トリスは自警団だと言っていたが、剣が届くほど接近されたらおしまいだ。あんな剣は気休めにしかならない。
この時、セイディがルシィの手をギュッと握った。
「でも、大丈夫。この町にはクリフ様がいてくださるから」
あの魔族の血を持つ男が。
とはいえ、クリフは混血だ。それも、両親のどちらかが魔族というのでもない。先祖返りだろう。祖先のどこかに魔族がいて、その血がクリフにだけ強く出たのだ。
きっと、当人もそれを知らない。
「……セイディ、支度をしておいで」
ハンナがそっと言った。セイディは小さくうなずき、ルシィの手を放す。
「支度って?」
遠慮なく訊ねると、セイディは苦笑した。
「うん、ちょっとね」
そうして、二階に上がっていくセイディの後についていくが、誰も止めなかった。ルシィがセイディの部屋の入り口にいると、セイディはせっせと荷造りをし始めた。カバンに服を詰めている。
「出かけるの?」
「うん。少しだけ」
この時、窓が震えた。ルシィは窓に張りつく。
そこから空を見上げると、遠く、薄紫の空に蝙蝠のような翼が見えた。
リドゲートはもうアジュールを離れただろうか。巻き込まれていないといいけれど。
それにしても、結構な数の魔族だ。うじゃうじゃと黒い塊になっている。あれをどうするのだろうと考えていると、稲妻のような閃光が空に上がった。落ちたのではない。下から放たれたのだ。
窓が、ガタガタと音を立てる。家の中にいても聞こえるほどの雷鳴が町の中に轟いた。白い光が魔族を、蛾を焼くようにして撃ち落としている。
アジュールの魔術は、自然の力を借りるというのか、それを増幅するものだ。力が大きければ大きいほど、災害に匹敵するような威力を発揮するとして、今、窓越しに見えるのは、眩しいほどの雷撃だ。
「……あれを、クリフが一人で?」
敬称をつけないで呼ぶルシィを咎める暇もないのか、セイディは顔も向けずに答えた。
「そうよ。あれがクリフ様のお力なの。すごいでしょう?」
セイディたちが言ったことは、誇張でも贔屓目でもなく疑いようもない事実である。ただ、あれほどの力を持つ男をただの領主代理にしているというのがやはりおかしい。いくらアジュール本土に魔族を入れないようにするためとはいえ、勿体ない使い方だ。
数人の魔術師を置いておけば、クリフでなくとも追い払うことができるだろうに。
荷物を詰め終わると、セイディはカバンを持ち上げた。
「じゃあ、出かけるわね。二、三日戻れないけど、その間にルシィが他所へやられる心配はないから、安心して家にいてね」
「セイディはもしかして、クリフのところへ行くの?」
なんとなく、そんな気がした。予感は当たった。
「そうよ。お手伝いをしに行くの」
「トリスも?」
「トリスは途中で帰るけど……」
言いにくそうにしているセイディの様子で、ルシィは察した。それを口に出す。
「あれほどの魔術を放ったら、反動が来るのでしょう。体にガタが来て当然だわ」
セイディは口に手を当てて絶句した。
強力な魔術を放った後、クリフは力尽きてしまうのではないだろうか。あれは、ただの人間には強すぎる力だ。生身で持つはずがない。きっと寝込む。
それで、セイディが看病に行くということになっているのだろう。
そして、そのことは町人たちには秘密なのではないか。
「言わないわ、誰にも」
念のために言っておくと、セイディはほっとしたようだった。
「うん……。三日もすれば回復されるのよ。でも、町の人を不安にするから秘密だって」
クリフが魔族の血を引いているからその程度で済むのだ。本当にただの人間だったら体が魔術に耐えきれない。結構な無茶をして町を護っているらしい。
もしかすると、反動で寝込むから、クリフは魔術師団で通用しなかったのではないだろうか。いくら強力な力でも制御しきれていないのだから。
「私も行こうかしら。役に立てるかもしれないわ」
ルシィは魔女だ。魔力を失いはしたが、知識はある。
サイドテーブルに置きっぱなしだったスカーフの包みを持ち、セイディに笑いかける。
「さあ、行きましょうか」
「え、えぇ?」
いいのかな、とセイディの顔に書いてあったが、いいのだ。ルシィがいいと決めたから。