⑨バッドエンドルート ~ヤンデレ~
授業が終わり寮の自室で休んでいると、ノックの音が聞こえてサーシャは返事をする。
「サーシャ、僕だけど」
昨日に続いての出来事に既視感を覚えて、一瞬固まるが慌てて扉を開け義兄を招き入れた。まかり間違ってまたアーサーと会うことはないはずなのだが、2日連続訪れる義兄について余計な憶測を立てられたくはなかった。
シモンはそわそわと室内に視線を彷徨わせていたが、サーシャの視線に気づくと丁重に詫びて本題を切り出した。
「アーサー様から謝罪の言葉を伝えに来たよ。迷惑をかけたことと伝言の形で申し訳ないと。だけど、今会いにくると余計に周りがうるさくなるから」
サーシャとしてもほんの二言三言話しただけで、こんな噂が広がると思っていなかったし不可抗力だろう。
「殿下のせいではございませんとお伝えいただけますか?それから私が気にしていないことも。――遅れて申し訳ございませんが、お義兄様もミレーヌ様の誤解を解いてくださってありがとうございます」
シモンの表情が柔らかくなる。
「そんなことぐらいお安い御用だよ。それにサーシャがいい子だと分かって欲しかったから」
「――ですが、お義兄様はもうこちらに来ないでいただけますか?気遣ってくださるのは分かっていますが要らぬ憶測を呼ぶ原因になりかねませんので」
どこか傷ついたような顔のシモンだったが、サーシャとしても譲れなかった。今日だってわざわざ教室に来たのはサーシャのためだろう。過保護すぎることでシモンが攻略対象ではないかという思いがサーシャの中でどんどん強くなってくる。
「……うん、分かったよ。もうサーシャもレディと呼べる年頃だものね。――ところでサーシャはいつセーブル伯爵令息と知り合いになったんだい?」
冗談めいた軽い口調とは裏腹にその瞳は真剣だった。
「入学式の席次がきっかけでお知り合いになったのです」
「そっか。……サーシャ、一応知っておいたほうが良いと思うのだけど、その彼には婚約者が…」
「存じております。お昼をご一緒させていただきました」
シモンの言葉に被せるようにサーシャは即答した。
恐らくはサーシャを傷付けないよう気遣っているのだろうが、サーシャがジョルジュに好意を抱いていることを前提とした話し方に苛立ちを覚える。
サーシャの態度から機嫌を損ねたことを察したシモンは謝りながら、部屋を出て行った。
「はあ、もういい加減にしてほしいわ。誰も彼も恋愛ごとを絡めないと思考ができないのかしら」
行儀悪くベッドに倒れ込んで毒づいた。
(まあ、確かにこのくらいの年齢だとそれが全てみたいなとこあるわよね……)
前世では20代半ばで人生の幕を閉じたサーシャにとって、ある意味2回目の思春期である。この時期特有の自意識や他人からの評価に敏感な心理状態には覚えがあり、それゆえに却って冷静になってしまうのだ。
異世界だろうが貴族だろうがその辺りはあまり変わらないのだろう。
カシャリと金属が擦れるような音が聞こえた。
目を開ければ薄暗い部屋の中だった。
(あのまま眠ってしまったのかしら?)
そんなことを考えたがすぐに室内の様子が変わっていることに気づいた。見覚えのない室内には窓がなく机の上のランプの光が頼りなさそうに揺れている。
身体を起こすとまた金属が擦れるような音と左手に冷たい感触があった。嫌な予感とともに目を凝らせば手首には鈍い光を放つ手錠が嵌められており、そこから鎖が伸びている。
「――っつ!」
右手で口元を押さえ、叫びだしそうになるのを堪えた。
その時鍵が外れる音がして、扉から一人の男性が現れた。
「サーシャ」
逆光で傍に来るまでそれが誰か分からなかったが、その声とようやく慣れた目でその姿を認識してもなお信じられず呆然とそのまま見つめてしまった。
「どうしたの?僕の名前を忘れてしまった?それとももう僕なんかと話すのは嫌になったのかな?」
「……お義兄様?」
その顔に浮かぶのは見慣れた穏やかな笑みだったが、目の奥が笑っていない。
「良かった。サーシャの声が聴けなくなるのは寂しいからね。サーシャは僕がずっと守ってあげるから、もう何も心配しなくていいんだよ」
髪を優しくすくい上げて口づけを落とすシモンに思わず身震いした。
「お義兄様、これを外してください」
声が震えないように必死で落ち着いた声を絞りだしたが、シモンは表情を変えないまま首を振った。
「どうして?ちゃんと調整してあるから痛くはないよね?この部屋で僕だけを見て、僕だけのことを考えて」
そういう問題ではないと叫びたくなるが、狂気を帯びたシモンの様子に悲鳴をこらえるのが精一杯だ。少しでも距離を取るべくサーシャは無意識に後ずさっていた。
「もう逃がさないよ、僕のサーシャ」
シモンの顔が近づいてきて、がくんと落下感を覚えたところで天井が目に入った。
「っは…………夢?」
左手には手枷もなく見渡せばまだよそよそしさの残る寮の自室だ。夢の記憶はまだ鮮明で、サーシャは自分の身体を抱きしめた。
「もしかして、あれはお義兄様ルートのバッドエンド?」
面倒見が良く穏やかな性格のシモンがヤンデレ化していた。
(リアルヤンデレ、怖い!無理無理、絶対無理!)
この世界でない世界の記憶があることで、自分が転生者だということを疑ったことはない。だけど自分がヒロインかどうかはそこまで重要視していなかった。なぜならヒロインになる気もなければ、卒業後は平民として条件の良い職場を見つけて働くことしか考えていなかったからだ。たとえヒロインであってもサーシャにその気がなければ、特に問題ないと何の根拠もなく考えていた。
だけどこの学園に入ってから、今まで接点のなかった攻略対象と一気に関わるようになった。それはサーシャの意思とは関係なく、まるでヒロインの役割を果たさせようとするかのように強制的に状況が整えられていく。
「もしかして、物語の整合性を合わせるために強制力が働いているの?」
ヒロインや悪役令嬢がいなくては物語が成り立たない。そこで登場人物を動かす強制力というものが働いて物語が進んでいくというケースがあった。
もしサーシャにもそれが適用されるとしたら――。
「何て理不尽なの……」
恐れや不安より、怒りが勝った。この6年間将来のために努力し続けていたのに、そんなものに邪魔されてはたまったものではない。
「恋愛をしなければ成り立たないのが乙女ゲームなら、攻略対象が私以外と恋に落ちればいいのよ」
幸いにも攻略対象候補には全員婚約者がいる。婚約者は元々家同士の繋がりのため当人たちの意思なく進められるものだ。だけど婚約者同士で恋愛関係になれば、本人たちも幸せだし、サーシャも幸せな将来を掴むことが出来る。
「強制力なんかに負けないわよ。私の目標は平民として穏やかな暮らしを手に入れることなんだから」
夢の残滓を振り払うように力強く宣言すると、サーシャは机に向かって猛然と計画を立て始めた。




