3土壁の家
夜逃げ先は古い長屋の家だった。1番奥の角が私達の家で、玄関をあけてすぐ目の前右手の壁にシンクがあって台所のようなスペース、玄関正面奥にはトイレとお風呂場、玄関左手には6畳くらいの部屋があり廊下もなくワンルームのような作りだった、部屋の壁は土壁で古い家だからなのかその土壁を爪で引っ掻くと簡単にボロボロと削れた。そしてこの家には狭いけど2階があって、玄関の横に2階へと続く階段があった。階段のある家に初めて住んだ私は2階があるというだけでなんだか嬉しくて何度も階段を登り降りして遊んだのを覚えている。2階には4畳程の部屋がひと部屋あり夜はそこで私達親子とトミタのおばちゃんの3人で布団を並べて眠っていた。私はその部屋がとてもお気に入りで勝手に自分の部屋だと言っていた。その長屋は長い坂の上に建っていたので2階の窓から外を覗くと田舎の風景が眼下に広がっていた。家の裏には一応庭のようなスペースがあるのだがそのすぐ先は5メートルくらいの絶壁で下は駐車場になっており母の赤い軽自動車はいつもそこに停まっていた。不思議なことにこんなに家の間取りなどは覚えているくせに、この家でどのように暮らしたかやどれくらいの期間この土地にいたのかなどの記憶が私にはほとんどないのだ。覚えていることといえば、台所の窓に毎晩ヤモリが何匹もくっついていて気持ち悪かったこと、庭に食べた後のスイカの種を植えたが庭のど真ん中に植えてしまったがために母に邪魔だと言われたこと、長屋の横の長い坂を下ったところに大きい道路があり、そこでよく野良猫が車に轢かれていてその死骸を近所に住んでいた子供達と度々見に行っていたこと。それだけだ。昔のことだから忘れてしまった訳ではない、実はそれには明確な理由が存在している。この数ヶ月後に起こる出来事によって私は夜逃げからその出来事までの期間の記憶をほとんど失ってしまった。いや、自分で消し去ったのかもしれない。幼い私にとってその出来事は人生で初めての衝撃だった。