黎 明
空はまだ暗い。
僕は彼女の手を引きながら、急勾配の坂を登っていた。いや、坂なんて生やさしいものじゃない。道など存在しない崖の斜面だ。落ち葉に埋もれかかった足下に気をつけないと、滑り落ちてしまいそうである。僕は右手では彼女の手をしっかりと握りながら、反対の手は細い木の幹をつかんで、二人の体重を引き上げていった。
これだけ体力的にキツいことしていれば、体中から汗が噴き出てもよさそうなものだが、冬の夜明け前の寒さはアッという間に体温を奪ってゆく。すべてを凍てつかせる冷気がつま先から這いのぼり、僕の動きを少しでも阻害しようとしているかのようだ。僕はそれに負けじと、口から白い息を蒸気機関車のように吐きながら、ひたすら上を目指す。
僕の手につかまっている彼女も、息は切らせているものの、無言で斜面を登り続けていた。男の僕でさえキツい行程なのだから、女の子である彼女にとっては、なおさら過酷な登攀であるに違いない。にもかかわらず、彼女は一切、音を上げはしなかった。今にも泣きそうな顔をしながらも、必死に僕のあとを付いて来る。
「大丈夫?」
「ええ」
「もう少しだから、頑張って」
「うん」
僕は彼女を励ました。また、彼女の返事が僕を奮い立たせる。あと少し。そうすれば頂上のはずだ。
もうどれくらい、そうやって登っていただろうか。ひと息ついたところで、僕は腕時計を確認した。六時四十二分。もう何分かすれば夜が明ける。
二〇××年の初日の出。
僕らがこんなにも大変な思いをしながら、この急斜面を登っているのは、その初日の出を拝むためであった。
太陽は東から昇る。だから、なるべく東の方角へ行けば、早く日の出が見られるはず。そんな理由から正規の登頂コースを外れ、わざわざ、こんな場所を選んだのだった。
苦心惨憺した末、ようやく僕らは斜面を登りきった。お互いに疲れ切った顔を見合わせながら、ゼェゼェ、ハァハァと息を切らせる。しばらく苦しくて、頂上へ到達した喜びなど、すぐには込み上げてこなかった。
崖の東側は防護柵もない絶壁だった。その下には暗い海が広がっており、寒風に煽られた波が打ち寄せている。水平線へ目を移すと、仄かに空が明るくなり始め、まるで水墨画で描かれた景色のようだ。しかし、生憎と東の空には雲が多い。待望の初日の出がちゃんと顔を出すところを見られるのか、僕は不安になった。
「ねえ、まだなの?」
寒さを紛らわせようとしてか、僕に抱きついて来た彼女が尋ねた。声も表情も不安そうだ。
「もうすぐだよ」
実のところ、正確な日の出の時間は知らなかったが、僕は自分に言い聞かせるように言った。初日の出は必ず見られるとも。絶対に。
僕の腕の中で彼女が震えている。歯の根が合わないのか、ガチガチという音まで聞こえるくらいに。多分、影響しているのは寒さだけではないはずだ。僕はそんな彼女の身体を引き寄せるように、腰と背中に腕を回した。そして、しっかりと抱きしめる。
そのとき、僕たちの時間の感覚は麻痺していたのかもしれない。腕時計の針が刻む一分一秒が、このときばかりは十倍にも二十倍にも遅く感じられた。なかなか昇ろうとしない初日の出にジリジリする。ひょっとしたら、もう二度と太陽は昇らないのではないか。そんなバカバカしいことを思ったりもした。
二人で初日の出の瞬間を待っていると、かすかに背後の斜面の方で物音が聞こえた。サクサクという落ち葉を踏みしめる足音。僕らと同じく、誰かがここへ登って来ているようだ。それも一人ではない。聞こえてくる感じからすると大勢だ。
こんな場所、普段なら自殺志願者でもない限り、誰も訪れやしないだろうに。僕は歯噛みした。けど、だからってどうしようもない。
「お願い。早く昇って」
彼女は呟くようにして、一心に祈っていた。未だ水平線の彼方にある太陽に。確かに、今、僕らに出来ることといったら、それくらいしかない。僕も彼女と一緒に祈った。一刻も早く初日の出が昇りますように、と。
そうこうしている間に、後ろの気配は間近まで迫っていた。敢えて振り返って確認したりはしなかったが、多分、頂上のすぐそこまで来ているに違いない。何てことだ。ここなら大丈夫だと踏んだのに失敗だった。
「あっ!」
突然、彼女が声を上げた。そして、東の空を指差す。
ぼんやりとした光の輪郭が水平線の上に顔を出した。それは見る見るうちに昇り始め、暖かみのある眩さを放ちながら、海から空へ浮かび上がろうとする。と同時に、夜の帳が取り払われ、瞬く間に白んだ空が僕らの頭上に広がっていった。
御来光だ。
このときほど、僕は太陽という存在に感謝したことはなかっただろう。これほどにも太陽の光が暖かく、こんなにも安らぎをもたらしてくれるものだとは。
「ギャアアアアアアアッ!」
おぞましい断末魔が僕たちの背後から聞こえたのは、次の瞬間だった。振り向くと、崖の頂上へ辿り着いた人々が次から次へと灰になっていく。僕らは身を寄せ合いながら、その光景を声も上げずに見守った。
昨夜、突如として僕らの街に出現した化け物――吸血鬼たちは、手当たり次第に人間を襲い、犠牲者を己の仲間にしていった。不死身の化け物である吸血鬼の襲撃に街はパニックと化し、もう誰が噛まれて、誰が助かったかなど分からない。とにかく、一晩中、逃げ惑った僕と彼女は、命からがら何とかこの山まで逃げ込み、生き延びることが出来た。
そして今、銃火器も通用しなかった吸血鬼たちは、フィクションの世界でも弱点として知られる太陽の光を浴びたことにより、一瞬にして滅ぼされた。あと少し、日の出のタイミングが遅れていれば、僕たちも吸血鬼にされていたに違いない。
しかし、あの化け物たちによって、どれだけの被害が出ただろう。家族や友人たちは無事だろうか。それとも――
西側に広がる街を見下ろすと、火事の煙があちこちから上がっていた。吸血鬼のせいで消火活動が間に合っていないようだ。ひどい延焼にならなければいいが。
「行こう」
これから直面する現実に恐れを抱きつつも、僕らは新年の朝を迎えた街へと降り始めた。