表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 柴犬



この街を歩くのは久しぶりだ。

特に目的があるわけじゃなく、流行の物も好みの服も買いに来たわけじゃない。

ただ、こんないい天気に家に篭る気になれなかっただけ。


街に着いた時、久しぶりなんだなぁと実感する。

駅の構内にあった本屋も、チェーン店だけど好きなカレーSHOPも、別の店に変わってしまっていたから。


なんだか、それだけで嬉しくもなるし、ちょっとだけ寂しくもなった。


―――本当に久しぶりなんだなぁ


実感の籠った感慨でキョロキョロと周囲を見渡しながら、あの店はない、あの店はある。

いや、そもそも道が変わってるわ……。なんて思いめぐらしながら、一人ブラブラと街を歩く。

待ち合わせをしている訳もない暇つぶし観光は、所々知らないビルが建っていたり、入り浸った店が無くなっていることを確かめながらの、それなりに有意義で楽しい時間。

偶には一人も悪くないと、そんなことを思う。


「この先って、確か…」


昔、と言ってもそんな昔じゃないけど、よく来た店。

古い洋風の雰囲気の珈琲店。

わたしはそれほど珈琲は好きじゃなかったけど、それでもここは好きだった。


懐かしさを感じて、店のドアを押し開く。

強い珈琲の香りが体に纏わりついてくる。


「いらっしゃい」


口髭を携えた、私的に渋いと感じる店長の声。


「こちらへ、どうぞ」


一人のためか、カウンターへと案内される。

音量を押さえたジャズの音。

珈琲メーカーの音。

外の明るさは遮光の窓で消え、春の陽気はこの店の雰囲気に消えた。


「何にしますか?」

「モカで」


昔から変わらないこの店。

だから昔と同じ物を頼む。

頷いて、珈琲を入れる準備に入る店長さん。

珈琲が出来上がるまでの間、ふと、窓の外を見る。

知らない大勢の人が歩いているのが、わたしの目に映った。





「どうぞ、モカになります」

「あっ、どうも」


つい、ぼーっと外を見ていた所から引き戻される。

出来立てのモカの香り、味。

懐かしい風味に、笑みが浮かんでしまう。


カランと、ドアの開く音が聴こえる。


「いらっしゃい」


わたしの時と同じ声。それもなんだか可笑しい。

ソーサーにカップを置いてちらりと入り口を見る。



「「あっ」」



狭い店内に、声が重なった。









私は一瞬だけ驚き、そしてことの推移を見守ることにした。

時間にして数秒の間があったろうか?

そして先ほど入店した目を惹く髪をした女性のほうから、いま入店した男性に声が掛かった。


「えっと……どうしたの?随分久しぶりじゃない」

「…あーいやいや、偶々近くに来たから」


細身の男性のほうは、ここ数年よく来てくれている方だ。

好んで飲む種類にばらつきはあるものの、総じて、香味の濃い味の物を好む方だ。


「そっちこそ、どう――」

「別に、こっちも偶々」

「――そうか」


今の遣り取りで思い出したのが、確かこの二人は以前に一緒に……


「マスター、ケニア」

「はい、ケニアですね」


男性はすでに席へと付き、注文をしてきた。

条件反射で応対してしまったことは、ある意味プロ失格だ。

席に案内することも無く、注文も取らずとは、常連客とはいえ、私は多少なりとあった矜持を崩された感覚を覚えた。

幾分か眉間に眉が寄ってしまっただろうが、頼まれた注文を煎れ始めた。


眉間のことでふと気が付いたのが、眉と言えば、男性の方のお客は割と印象深い眉をしていることだった。

私などは先ほどのように何かあるたび、眉間に眉を寄せる癖がついているため、家に帰るたびに娘にそこを揉み解される。

実に私の娘はかわいらしい。愛らしい、素晴らしい。

疲れたでしょう?なんてどこで覚えたのか知らないが、胡坐をかいた私の上に座り、体だけこちらに向けて額へと手を伸ばしてくるのだ。

そう、まだまだ幼い我が子が、いじらしくも、仕事での疲れを癒してくれようと懸命に楽しそうに、こちらに向けて手を伸ばすのだ。

さすが私の娘だ。なんとも……。おっとっと湯の時間が来たか。


男性の付いた席は、女性とは椅子二つ離れている。

女性の方は、やはりあの時の方だろう。


沸かせた湯を火を止めて10秒待つ。

これが私の自慢の一手。

いや、誰でも気が付くようなところかもしれないがと内心いつも可笑しくなる。


そうしてゆっくりとケニア独特の強い香りが店内に染み込んでいく。

長い間、珈琲店をやっていても、この瞬間だけはいつも忘れず、いつも新しい。

この香りに包まれる、何とも言えない幸せの時間だけは。





珈琲の土地を感じさせる匂いと僅かに彼女の香りを感じる。

じっと、テーブルを見つめることでしか、身の置き場の無さも感じる。

彼女に話し掛けるべきか…いや今更だ。

そんな堂々廻りをしながら、ただ、黙ってテーブルを見つめていた。


「どうぞ、ケニアになります」

「あっ、どうもです」


「――っ」


考え込み過ぎて、マスターの声で我に返る。

この店のケニアは最近のお気に入りだ。人によっては、この匂いが駄目というが、俺にとってはこれこそ珈琲だ。

アメリカンなんて飲む奴は、珈琲を舐めているとしか思えない。

ビールで言えば、バドやハイネケンを好む奴だ。間違いない、そうに違いない、たぶん。

きっと味を知らんね、そいつらは……。


「―んっ――ふぅ」


一口目はゆっくりと、そして量は僅かだけ飲み込む。

強い香りが鼻腔から抜け、喉越しは一瞬の熱さと苦みで苛立ちを伴う。

そのすぐ後に舌に残った苦みと鼻から抜ける風味、そして腹の底に伝わっていく熱さを感じるのだ。

そう、これが珈琲だ。


「―――ぅ―っ」

「ん?」


ふと彼女の方から、堪えるような呻くような声が漏れ聞こえてきた。


「……何?どうかした」

「――んぅん…なっんでも…な…い」

「何だよ、はっきり言え」

「くっ…もっ駄っ駄目……」


飲み方や動作に変な所でもあったかと、彼女の方を注目していると、急に彼女は笑い始めた。

それも、大笑いだ。

可笑しくて仕方ないという感じで、俺は呆気に取られてしまった。


「―はぇ?あっその顔ぉ―も――」


人の顔を指差しながら、彼女はずっと笑い続けている。

ポカン口を開けていた事に気が付いて、俺はすぐに口を閉ざして締まった顔を作ってみる。



静かな店内は、外の陽気に劣らぬほど、明るい声に満ちていた。









「――はぁ、ふぅ~」


ひとしきり笑い終えた後、バッグから取り出したティッシュで目尻を拭う。

何が可笑しかったかと言えば、彼が注文を受ける際の対応だ。


―――わたしと同じ


たったそれだけが、妙にツボに嵌ってしまった。

その後の顔に追い討ちを掛けられたけど…


「まったく、何なんだ?」

「なんでもないったら」


わたしが勝手にそう思っただけ。

彼は不機嫌そうな顔になったけど、わたしは楽しめた。


「あれ?」


落ち着いて、珈琲を飲もうと手に取るけど中身はカラッポ。いつの間に飲み干したのだろうか?

頭に?マークを立てながら、ぼんやりと考える。


「何かまた、お入れしましょうか」


店長さんからタイミングよく声を掛けられる。

そうですねぇっと相槌を打ちながら次を思案する。


「じゃあ、グァテマラを」

「はい、グァテマラですね」


「あっ、マスター俺にはマンデリンをください」


一拍置いて、ソーサーにカップを置く音と、彼の声が聞こえた。

店長さんも一拍置いてから、「はい、マンデリンですね」とわたしにしたと同じ答えを返していた。

実に渋いいい声だなと、やっぱり懐かしく感じられた。




二つの違う珈琲の種類。

混ざり合うように香りが重なる。

先程までの暖かさから、また、静かな時間に緩やかに戻っていく。


店長は珈琲の準備を整えると、かけっ放しだったレコードを外す。

代わりにかけたレコードからどこかで聞いた音楽が耳に入った。

ピアノソロの落ち着いた曲。

どこで聞いたのか忘れてしまった。

確か前にもこんなことがあったなぁっと頭を捻る。

テーブルに頬杖を付きつつ思い出そうと試みる、けれどどうにも上手くいかない。


歌詞のないインストの曲のようだった。

明るいような、落ち着いたような……あぁ珈琲店に似合うな。

歌に詳しくない私は曲を最後まで聞き終えてそんな感想しか抱けない。

そしてジャズに詳しくないわたしは、これがジャズとしか分らない。


けど、何時だったか聞いたことのある、そんな曲だった。




「お待たせしました、グァテマラです」


コクリと頷き、受け取る。


「お待たせしました、マンデリンです」

「ああ、どうも」


ほぼ同時に受け取り、ほぼ同時に口に含んだ。



「「あっ」」



狭い店内で、再び声が重なった。




流れていた曲は


「Someday My Prince Will Come」


あの時と同じ


「Someday My Prince Will Come」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ