掌編「約束」
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ステンドグラスからは眩く光が透過され、教会内で男は目を覚ました。彼は自分がどうやってここに来たのか覚えていなかった。辺りを見回して入り口に振り向くと豹が一頭歩いてきた。
「気が付いたか」と豹は男に聞こえるように言語を巧みに話した。
「ここは」目の前に豹がいたのに驚きはしたが、なぜか恐れは抱いていなかった。豹の胴体が滑らかでその美しさに魅了され恐怖や怯えを塗り替えていた。
「大陸北西の孤島にある教会だ」
「なぜ、そんなところにいるんだ」
「俺が咥えて連れて来た」
男はこの豹が話したことに疑いはしなかったが、連れてこられた理由は釈然としなかった。
「なぜ、連れて来たのだ」
「それより、なぜ倒れていた」
間髪を入れず、豹は問い詰めたので、男は威圧感を感じた。
「痺れ草で死ねると思ったか」
男の考えは豹に見抜かれていた。彼はこの豹に嘘をついてもしょうがないと思った。
「おまえが治したのか」
「俺には魔女から貰った薬瓶がある。単に死なせたくなかっただけだ」
「なぜ、生かす。死にたいものがどう思おうと勝手だろう」
右手を大きく振り、男の口調は荒くなった。
「だったら、死なせたくないものがどう思おうとも勝手だ」
くっと男は歯を食いしばった。彼の手のひらは汗ばんできた。
「俺が昔から人を生かそうとしているわけではない。事実、俺は腹が減って襲ったことだってある」
「じゃあなぜ」
「この薬瓶を貰った魔女に泣かれた。彼女は人の役に立とうとする。その当人を俺が殺してしまっては虚しいということだ」
豹は教会の入り口から歩き進み、男の脇を横切った。再度、男と豹は身体を向かい合わせた。
「ところがお前のように自ら死のうとするものがいる。奇妙なものだな。殺せば、殺すなと言われ、助ければ、助けるなとも言われる」
「私はおまえの知っている人達とは関係ない。魔女になど会ったことない。・・・いや、どうでもいか。これといった理由もないさ、生きているから死ぬことだってできる。それだけさ」
と男の語気は収まり、やや弱々しくなった。
「お前は本は読まないのか」
「読むが・・なんの意味があるという」
「人間だけだ。いや、魔女だってあるかもしれないが、時間という出来事の連続で起きうることを記録し、それをまとめ上げ、断片的な出来事に関連を持たそうとする。お前だってその一部に過ぎないだろ」
「まさか、豹に諭されるとは思わなかったな、驚くことばかり。いやいや、そうさ、生きているとその出来事の連続には驚くことばかり。私たちの行動の一つ一つがその次の人に何かしらの影響を及ぼす。よくもわるくも影響とはそのようなもの」
「ではどうしてなのだ」
「おまえのように私だって誰かを助けたこともある。しかし、今はもう気分が湧かない」
「精神的な部分を変えればよいということか」
「そうかもしれない。私が誰かに没頭しようとこの肉体は一つだ。幼い頃があった。ならば、幼いままでいることも、既にしたことを考えつかなかった頃に還ることもできるだろう」
「俺がその精神を鍛えなおすか」
「だが、経験は積み重なっていく。私の気分が仮に嘗ての頃に還ったとしよう。次にくたばる気にはならないかもしれない、しかし、私自身の行為を忘れたりはしない」
「ここに連れて来たのは、お前の考えをおとなしく聞くため、それだけだ」
男は笑った。
「そうすれば、私がまた死に向かう事を放棄すると思ったのだろう。はっ、大したもんだ。恐らくそうさ、身体は生かすようにできている。一時の意思はまた身体の意思に吊り上げられる。では、おまえは思う事はないのか、なぜ死ぬまで生き続ければならないのかと」
「動物には安全がない。死からは考えていない。ある動物が生きるには別の動物が死なねばならない。人間はその安全の代わりに死までの長さを見据えるようになった。動物だって衰えて老いて死ぬ者も少なからずいる。本当は生き続けることに悩んでいるのではないのだろ、隣り合わせの死に見合った生き方が探せないのだろう」
「おまえたちはそのように考えるのか、そうか、私達は連続した時間のなかで死までの間に行う事を考えている気がするな。ただ、大陸全ての人間が安全ではない。野生動物のように十分な食料の確保を約束できない国だってある」
「だから国によって、死への捉え方が違う。生きている温度が違う。丁度いい、お前を殺してやろうか」
豹は口をガーっと開けて鈍く吠えた。男にはこの滑らかな美しさを見せた豹がその美しさとは対照的な鈍い声に象徴された煩雑さを併せ持っていることを不思議に思えた。そして、豹への怖れが背中から溢れて来た。
「動物と同じような環境に置き、私の心にある生きる火を強めようとするわけか。よく、わかった。しかし、私の考えをおとなしく聞くのだろう」
「俺を怖れても別に構わない」
「確かに人間は安全を得た。恐らくそれが」
「魔女はその安全地に俺が侵入してはいけないと言いたいらしいな」
「では、私が動物のように置かれるのであるなら、一旦死んでみることもおまえは別に反対しないだろう」
「論理的には、しかし、道徳的に反対する」
「もう、おまえがどんな本性を秘めようと私は気にしない。少なからず、私や私のような人はおまえのようにありたい。気力が萎えたらくたばるしかないのだよ」
豹は沈黙した。人間は人間で、自分たちの身に着けたものによって自らが責められることに苦悩を感じているのを理解したからだ。
「文化的であろうとすることはまた一つの課題か。ならば、文化的な場で俺のようにあろうとするのを試してはどうだ」
「それはきっと対立する。私自身が人間のなかにいて逸脱することはできないと思う。自然と私はまた文化的な時間に染まっていく」
「でいいではないか、それが退屈か、文化的な場のなかで積み重なる出来事の絡まりを修整するのは退屈か」
「私自身はおまえに魅了されたように何かに魅了される方がよっぽどいい」
「本当か」
「本当のところはわからない」
男はうなだれた。
「ここからお前が倒れたところまで戻るにはお前ではきっと10日以上はかかるだろう。丁度、帰る時には色々と見たものに魅了されるのではないか」
「しかし魅了されてどうなるのかよくわからない」
「景観や事物がそのままであることは完成されている。その法則の整合性によって人は一旦自我を忘れる。数学は人間の得意なものだろう」
「だからどうなるかわからないと言っている」
「飢えだとか魅惑とか動物らしくていいじゃないか、お前はそうありたいんじゃないのか」
「つまりは、美しいものを創り出すことも文化的な場で許された非文化的だと」
「まあ・・色々と歩いて行けばいい。俺は魔女に唆されたに過ぎない」
そう言うと豹は男を教会の門まで先導し、案内した。
「私はもう自ら死ぬことはないというのか」
男は豹に真剣な表情で尋ねた。
「考えることだ。また、考えぬことだ。そして人間の枠で考えぬことだ。宇宙の法則にそっぽ向かないことだ。それなりに掴んだものは・・いや、あとはお前に委ねる、じゃあな」
豹は教会の中に戻っていった。男は豹の去っていく後姿をしばらく見つめたあと、自分の住む町へと歩き出した。
この話は、次に作成予定の掌編小説集にシリーズものとして載せる予定です。