シロツメクサ
御題発生冊子【白版】による「押し花」「アキレス腱」から、いろいろこねくり回してこうなりました。
押し花→シロツメクサとかで。
イェニチェリ(新しい兵士)シリーズ2
春靄の中で羊が草を食んでいた。日が高くなるにつれ、霞んでいた色が鮮やかになり、遠くの峰々が薄い青空とともに浮かび上がってくる。丘陵を吹き抜ける風は、肌を刺す刃から羊毛の優しさに変わり、かすかな花の香りと草笛の音色を運んでいた。
ユンの奏でる旋律。
僕の幼馴染みは、唇にあてた草葉をふるわせ、高く低く、素朴な音で緩やかな時間をとつとつと追う。立て膝をしたその足下に僕が寝ころぶと、ユンのか細い脚の腱の周りにシロツメクサが揺れていた。身体の弱いユンは走ることもままならなかったが、僕はシロツメクサを踏むこの足が好きだった。
気づいたときには、口と鼻の中は鉄と土埃の臭いでいっぱいだった。と思う間に身体の節々が痛みだしたが、動きには支障はなく骨折はなさそうだ。崩れた瓦礫の狭い隙間。首を巡らして、薄い光りの漏れる方へ這い上る。慎重に頭を出し周囲を見回すと、僕のいた建物はすっかり破壊され、崩れ残った壁が、灰色の世界で亡霊のように立ちすくんでいた。
秋の冷え込む濃い霧の中、敵戦車隊が河を渡ってこの街に侵攻してきたのは今朝のことだ。情報によって僕らはすでに配備されていたが、天候のため航空支援が望めない中、守りは苦戦を強いられた。班長の命の元、迫撃砲を打ちまくった僕らは場所を移動する直前、敵砲撃をくらって建物の下敷きになったのだ。
そして僕だけが運良く生き残っていた。
運が――いいのだろうか。戦闘はどうなったのか。わずかな視界であっても、街はことごとく破壊されたように見え、とても防戦が成功したとは思えない。砲撃の音は聞こえず、小銃音が散発的に上がっている。あれはきっと残兵狩りだ。
指揮官たちが、降伏したか撤退したかわからない。いずれにせよ、自分は街を脱出するほかない。兵卒で投降しても、奴隷か砂漠の強制収容所送りだし(去勢されるって本当だろうか)、なにより相手は十数年前僕らの村を破壊した異法徒だ。
濃霧のせいで夕暮れもわからぬままに闇が降りてきた。頭にたたきこんだ街の地図と人一倍利く夜目で方角の見当はつくものの、明かりのない夜中の移動はかたつむりより遅い。ただ残兵の探索は明るい内に終わったようで、コースさえよければ敵の歩哨に当たらなくてすむ。途中、小銃とステルスケープを拾ったのも心強かった。これがあれば、まるまる姿を見せない限り、歩兵はもちろん戦車の暗視装置にも捕まらない。
黒い町並みの向こう、司令部のあった中央広場から捕虫誘導灯のような光が染み出していた。偵察がてらに窺うと、案の定官舎に掲げられた旗はすでに敵軍のものだ。集結した敵戦闘車両の影が思ったより少なく、これが駐屯部隊だとすると、これから向かう退却先も本隊によって制圧されているかもしれない。にわかに不安が大きくなった。
街外れに来ると建物はまばらになり、低い石垣を伝った先は、どう目を凝らしても闇ばかりだ。河を臨む街の反対側は、草地と林の続く緩い丘が広がっているはずだが、方向の見当がつかない。明るくなるまで待つか、とにかく前進するか石垣の陰で考えあぐねていると。
近づいてくる唸り。エンジンとキャタピラの軋み音。
虚空で霊魂のように点った光はたちまち広がって、ささやかな農場と納屋を照らし出した。僕が身を隠しているのは、どうやら羊囲いのようだ。戦車のセンサーに捕まらないよう、まとったステルスケープを握る手に力が入り、思い切り身を縮込ませる。なんとかこのまま過ぎてしまえと願っていると、急にキャタピラ音が止まった。
アイドリングの静寂。
すぐに物音と話し声がして、いきなり僕のいる石垣越しにライトが射した。地におりた足音が、草を踏みながら小走りに近づいてくる。見つかったのか。耳を打ち付ける心臓の爆音。息をつめる。
壁のすぐ向こうで足音がとまり、衣擦れと水音がのどかに響いた。それとともに、ながなが続く安堵のため息。
「仕方ないでしょ。飲めば出るのは道理だし、たまには外でのんびりさせてくださいよ」
敵兵の独り言のようだが車内とのインカム通信らしい。
「勝ち戦なんですから、こっそり祝杯くらい上げたって……はいはい、わかりましたよ、車長殿」
やれやれとした口調だったが、彼のほろ酔いは醒めなかったようで、帰途は上機嫌の鼻歌が漏れていた。
僕の全身から力が抜ける。が、聞き覚えのある旋律に再び体が硬直した。
敵兵の鼻歌。忘れることのない、あれは。
シロツメクサを踏むユンの細い足――その草笛の調べ。
敵軍の急襲で僕の故郷が破壊された日(僕は、たまたま草原の親戚のところにいた)、村人達は敵兵の手に掛かるか、彼の国へ奴隷として連れて行かれた。しかし子供の一部は特別教育を受け、イェニチェリという戦士として育てられると聞いたことがある。
ユンが、敵の戦車兵として従軍しているのか。
しかも、あの。
再びキャタピラが動き出す。ライトが進行方向へ向きを変えると、僕はそっと石垣の端から覗き見た。霧の乱反射で浮かぶ戦車の黒い影。その姿は農場を通り過ぎ、街外へ進む。やがて闇に溶けて見えなくなったが、地を踏みしめる金属音は彼方に続いた。
ユンがあの戦車に乗っているのか。しかし、冷えた思考はそれを否定する。
ユンは兵士どころか、無事な成長さえ危ぶまれるほど弱い子だった。奴隷にもなれないなら、その命はもうこの世にはない。けれど。
草笛の調べ。あの戦車兵が知っているのは、なぜだ。
未明に風が吹き始めた。
時節には珍しい暖かい南風が霧を吹き払っていき、薄明に草地と丘の上から始まる林の木々が見えだした。あそこに入れば退却は楽になる。幸い風に波打つ叢のざわめきが気配を消してくれたが、その群生も丘の途中でつきた。丘まであとわずかな距離。身を隠す障壁はなくとも、遠目のきかない夜明けなら勝算はあると、ステルスケープをまとって匍匐前進を開始した。
地に顔をつけ進む内に、青臭い匂いが鼻をつく。
たちまち丘を渡る風と草笛の音が、脳裏を行き過ぎた。
これは――シロツメクサだ。
少し頭を上げ周囲を見回すと、この南風に起こされたのか、草原のところどころに白い花が揺れていた。
白い花、青い草――それを踏むユンの細い足。
目の先に揺れる一つの花へ、腕を伸ばす。掴んだ瞬間。
唸りを上げた突風がステルスケープを空高く舞い上げた。
とたんに響く銃声。眼前の土塊がぱっと散り、叫び声が降ってきた。
「止まれ! 動くな!」
僕はようやく思い出した。昨夜、闇に消えた戦車が向かった先を。銃口を向けた敵兵二人が下りてくる、まさにその背後。僕が目指した丘の林の中で、彼らは逃げる残兵を待ちかまえていたのだ。
僕を捕らえた敵兵はどちらも異国の顔立ちで、当然ユンの面影はどこにもない。戦車の前まで引き立てられ、身体検査をした一人が、声から昨夜の鼻歌の主とわかったが、握っていた花は嘲笑とともに地に払われた。
手首に電磁錠をはめられ、戦車のカメラアイの監視を受ける。砲塔の自動機銃は、まっすぐ僕を狙い定めて離れない。中にいるのはおそらく車長だろう。AI搭載車は一人でも動かせ、その反応は人間以上なので、他の乗員は僕を車長にまかせて残兵狩りに戻っていった。
やがて、再び銃声と叫び声。「止まれ!」
首を伸ばすと、自軍の兵士が三人、丘の斜面を駆け足で横切っている。しかも再度の制止には、銃を向けて撃ち返してきた。が、有利な位置からの射撃はその内の一人を倒し、さらなる獲物を標的とする。
逃げる兵士。逃げるユン。その姿が重なって――
気づいたときには、その敵兵の背に飛びかかっていた。錠でつながれた腕を相手の首に回して抱え込み、体重をかけて倒れ込んだ。
「やめろ! やめないと撃つぞ!」
駆け寄るもう一人の銃口が向けられる。所詮足掻いたところで二射目を阻止するだけで精一杯だ。それでも僕は脚を相手の胴に絡め、腕できめた首を締めあげた。歯を食いしばり渾身の力でひねり続けた。
骨の折れる鈍い音。直後に銃撃音があがる。
荒い息。回した腕を外すと、生気を喪った頭が膝元に落ちた。が、起きあがった僕の身体に変化はない。わけもわからず振り返った先に、もう一人の敵兵もまた地面に伏していた。その背には弾痕。そして。
息が止まる。敵兵に向けられた砲塔の自動機銃。
誰が撃った。何が起こった。戦車の中には車長が――
日の出の光をカメラアイが無機質に反射し、電子錠がかちりと鳴って手首から離れる。僕は震える手を伸ばし、倒れた兵士からインカムをはずした。装着しながら立ち上がり、吸つくようなカメラアイを見つめて、一歩一歩戦車に近づいていく。銃座に動きはない。
丘を駆け抜ける南風が、木々の葉を激しく散らした。空に上った大気の唸りが、はるかに続いている。シロツメクサの上に重なる落ち葉を踏み、ようやく声を絞り出す。
「お前は、だれだ」
インカムからの答えはない。
妙な違和感があった。いくら通信機越しでも、呼吸の気配ぐらいはあるはずだ。
無人なのだろうか。まさか。どんなAI搭載車でも、臨機応変の戦場では人間の手が必要だし、第一AIが自軍の兵士を撃ち殺すなど考えられない。人ならばいくら洗脳されようとも、裏切りはあり得るが。
――人ならば。
風の唸りはやむことなく、むしろ大きくなっていく。僕を見据える、戦車のカメラアイ。
と、いきなりあの旋律が耳に流れ込んできた。しかも故郷の風に乗る草笛の響きそのままに。
ユンしか出せない音色そのままに。それは。
だとしたら。目の前にいるのは。
息があがる。そんな。
一瞬の嫌悪――
突然の爆発音。膨らんだ爆風の中を、吹き飛ぶ木っ端とともに僕は地に投げ出された。朦朧とする意識と激しい耳鳴りを貫いて、轟音が空に響きわたる。
木々の枝の向こうを、いくつもの大きな影が横切るや、途切れることのない爆音が地を震わせた。
あれは、自軍の攻撃機だろうか。
ぼんやり首を巡らすと、顔の側にシロツメクサが揺れていた。
そのシロツメクサを踏む戦車のキャタピラ。
耳には草笛。
不意に起動したエンジンが車体を震わせた。軋み音とともに、僕の横を行き過ぎた金属の塊は、林を出て丘を下っていく。目指す街は爆撃の嵐の中だ。戦車は走りながら砲塔を回し、いっぱいの仰角で主砲を連射した。
爆音が空を駆け降り、そして。
砲塔が火柱をあげる。
激しく上がる煙と炎を南風が翻弄し、シロツメクサの野を霞ませた。草原に伸びるキャタピラの跡。
僕の好きな、あの――
この日、予想外の南風によって我が軍の反攻作戦は成功し、敵軍の前線は大きく後退した。
(了)
お読みいただきまして、ありがとうございました。
ええ、ええ、ガチ(文字通り)な足首フェチの話ですとも。