俺と最期
夕方まで神社で待機した後、俺たち三人は裏野ハイツに向かった。
三人とは俺とあたると真由美のことだ。
「普通の霊とは違っていますね」
裏野ハイツに着くなり、真由美はそう言った。
真由美はやや大きめのダッフルコートを着ている。中に着物を着ていて、目立たないためにコートを羽織っているのだ。
あたるは普通の格好をしているけど、一メートルくらいの細長い筒を持っている。
俺は用心のために呪札を持たされていた。前のとは違う、黒い文字だった。
「先輩、幽霊と聞いてどんなものを想像できますか?」
俺はちょっと考えて「柳の下に現れる女の幽霊を想像するな」と答えた。
「そう。幽霊と聞いたら全身があるモノを想像しますよね」
「まあそうだな」
「足の無い幽霊も想像できますよね」
「……何が言いたいのか、いまいち分からないが」
この兄妹は回りくどい言い方を好んで使う。こういうところが似ていて苦手だ。
「腕だけの幽霊は珍しいって言いたいんです。幽霊って未練とか怨念とかあるから、幽霊になるんですよ。だから厳密に言うと、幽霊ではなく、残留思念のようなものかもしれません」
残留思念か……しかし専門家ではない俺としては幽霊と何も変わらないと思うけど。
「大違いですよ。幽霊は未練を無くせば居なくなりますが、残留思念はそうはいきません。強制的に祓うことになるんです」
俺としては居なくなればいいから、どちらでも同じだけどな。
そんな会話をしつつ、階段を上がって203号室に入る。
その際、全員が背筋の震えを感じたが、気にしないことにした。
中に入ると、俺たちは洋室に集まった。
あたるが細長い筒から中身を取り出す。
漆塗りの小ぶりな弓だった。
真由美はコートを脱いだ。
着ていたのは――水干だった。
水干とは平安装束の一つだと以前教えてもらったことがある。昔の貴族の格好をしているのだと理解してくれれば良い。
真由美のような美人が男装すると、言葉にできない格好良さがさりげなくあって、いつまでも見ていたい気がした。
巫女服ではないのは、男女という陰陽を合わせることを目的としているらしい。まあ真由美とあたるからの受け売りだから、確かなことは言えないけど。
あたるは手馴れた手つきで弓に弦を張った。
その作業の間、ずっと家鳴りがバチバチ鳴っていた。
まるで『祓い』をやめさそうとするように。
あたるは弦を張り終えた弓を真由美に渡す。
渡された真由美は、弦を弾いて高音を鳴らす。
これを鳴弦の儀という。
平安時代からある、退魔儀礼と事前に聞かされていた。
ぴいぃん、ぴいぃんと音が鳴る。
すると、バチバチ鳴っていた家鳴りがすっと静かになっていく。
「これは裏野ハイツに寄ってきた、低級霊の仕業です」
真由美が弦を鳴らしながら言う。
「まずは余計な要素を無くしましょう。先輩の言う化け物や腕と対峙――いや退治と言いましょうか、そのために不確定要素は取り除きましょう」
そう言って、部屋を歩きながら弦を鳴らし続ける。
その儀礼が終わる頃には、もう陽が落ちてきていた。
窓を見ると、黄昏色から暗闇へと変わっていた。
「さあ。二人とも。ベッドの上に居てください。座っててもいいですよ」
「うん? どうしてベッドの上なんだ?」
「床から腕が生えてきたのでしょう? だったら高いところに居た方が安全です」
確かにそうだ。俺とあたるはベッドの上に体育座りで座った。
日が暮れてから、十分、二十分くらい経った。
部屋の明かりは点けていない。電灯でも光を嫌うであろうとの判断だ。
待っている間、俺たちに会話はなかった。
なんともいえない緊張感の中――
そいつらは、現れた。
最初は理解できなかったけど、そいつらは徐々に自らの気配を顕現していく。
暗闇から、何かが、這い寄って来る。
暗闇に蠢く何かが、俺たちに迫ってくる。
ぐちゃぐちゃと肉と粘液がこすれる音。
生理的嫌悪感が増す気持ちの悪い音。
そいつらは、まるで一個の生物のように、俺たちを狙っている。
そいつらの姿を見たとき、卒倒してしまいそうなグロテスクさに吐き気を催した。
腕が大量に重なり合い、指先を俺たちに向けて、這い寄ってくる。
さながらヤマタノオロチのように頭が複数ある蛇のようだった。
しかし――ヤマタノオロチの比ではない腕の本数に俺はゾッとする。
五十、いや百近くあるだろう。
部屋の床から天井まで、腕がひしめきあっている。
その中には七十代くらいの老女の腕があった。
三人家族の腕があった。
妻帯者のサラリーマンの腕があった。
引きこもりの腕があった。
ああ、ここの住人と思い込んでいた人間の腕がその中にあった。
普通は見分けがつかないはずだ。だけど分かってしまう。何故だか分からないけど、俺には分かってしまう。
そして、腕が俺たちに襲い掛かってくる。
まるで津波のように。
まるで雪崩のように。
俺たちに――襲い掛かってくる!
「真由美!」
あたるが叫ぶように言う。
「分かってます!」
真由美も叫ぶように言うと、弓の弦を引き、矢もないのに化け物に向けて放つ。
「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」
化け物の一部が弾け飛んだ。
それでも――化け物は止まらない。
真由美は休むことなく、弦を引いた。
何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――
化け物が霧散するまで、真由美は引き続けた。
真由美。魔を打つ弓の使い手。
「真由美、左の腕が迫ってきている!」
それを補佐する、あたる。
兄妹特有のコンビネーションの良さによって、どんどん化け物を削り取っていく。
俺はそれを見ているだけだった。
ただ、見ているだけ。
「ああああ、あああ、ああ……」
化け物は、次第に小さくなり、とうとう消え去ってしまった。
空気が軽くなった気がした。
「……終わりました」
真由美はこちらを見た。額に汗を滲ませていた。
「本当か? もう居なくなったのか?」
「ええ。被害者は五十四人。腕の総数は百八本。しかし霊鏡で四本の腕を封じたので、差し引き百四本の腕を祓いました」
弓を引きながら数も数えていたのか?
「よーし。これで一安心だな」
俺はベッドの上から床に飛び降りた。
「ふん。死人のクセにいつまでも成仏できないから祓われることになるんだ」
憎まれ口を叩きながら、俺は電気を点けようとスイッチの元へ行こうとする。
「ざまあみろ。馬鹿野郎め」
その瞬間だった。
真っ赤に染まった二本の腕が俺の身体に巻きつく!
「なあ!? 何が――」
俺の身体に巻きついた腕は、焼け付くように熱く、自由を奪うには十分な力を持っていた。
何だ? どうして――
腕は祓ったはずなのに――
呪札もあるのに――
どうして二本の腕が――
腕が俺の身体の中に入っていく――
凄まじい痛みが俺を苛む。
「が、はあ……ま、真由美……」
真由美に助けを求める。
手を、腕を、真由美に差し出した。
意識が何とか保たれている内に――
後ろを振り返る。
俺の眼に写ったものは――
笑っている、真由美の顔だった。
いつもの爽やかな笑顔ではなく。
嘲るような下卑た笑顔だった。
「あ、あああ、ああああああ」
俺は苦痛に喘ぐ。
途絶えつつある意識の中で、俺は思う。
こんなところに、引っ越さなければ良かった。
そして、意識がなくなると同時に――
俺は死んでしまった。