俺と昔話
「たかし! たかし! しっかりしろ!」
誰かが俺の名前を呼んで、身体を揺する。
「たかし! 大丈夫か!?」
その声に導かれるまま、俺は意識を取り戻す。
「あ、ああ、うん?」
俺の視界が徐々にクリアになっていく。
俺を心配そうに見つめているのは、あたるだった。
「気がついたか? たかし」
俺は安心して、そして今までの出来事を思い出して、ハッとして上半身を起こす。
「あ、あの、腕は――」
「ああ、良かった。たかし、大丈夫だ。腕はもう現れない」
あたるがホッとした表情を見せた。
「ど、どうやって、あの腕を……」
「この水だよ」
あたるは傍らに置いてあった二リットルサイズのペットボトルを見せる。中身が三分の一ぐらい、水のような液体が入っている。
「なんだその水は?」
「うーん、なんていえばいいのか分からないけど、とにかく清浄な水だ。聖水みたいなものだな。悪霊や疫魔を退散させる力がある。僕の神社では清涼水と呼んでいる」
「清涼飲料水をはしょった言い方だな」
そんな感想を述べると、あたるは嫌な顔をした。何故だろう?
俺の思考は次第に周りの状況を考えられる状態になってきた。
俺は今も裸だ。だけど、毛布に包まれている。あたるが掛けてくれたんだろう。
そして寝ているのはベッドの上。
正直、悪夢のせいであまりこの場所に居たくない。
床は水に濡れている。清涼水とやらを床一面に撒いたせいだろう。
電灯は点いていて、眩しいくらいだった。
枕元に置いてある時計を確認すると、現在は午後十一時だった。
「たかし、どうして呪札を持っていないんだ? それさえあれば、あんな腕の塊なんて追い払えただろう?」
そのあたるの質問に、俺は経緯を話すことにした。
化け物を霊鏡に封じたこと。
風呂に入ったら、黒い血のようなものに水が変わったこと。
それに動転して、呪札を忘れたこと。
俺が見た悪夢のこと。
そして、腕に襲われたこと。
正直、説明上手な人間ではないけど、あたるは根気良く俺の説明を聞いてくれた。
「そうか。酷い目にあったね」
同情するようなことをあたるは言ってくれた。
「今度は俺が質問する番だ。どうしてあたるはここに居るんだ? なんで清涼水を持ってここに来たんだ? 何か知っているのか?」
俺の矢継ぎ早の質問にあたるは頬をぽりぽり掻いて、そして言った。
「言っただろう? この裏野ハイツについて、僕も調べてみるって。そしたらとんでもないことが分かったんだ」
「とんでもないことってなんだ?」
「後で説明する。一応妹に話したら、清涼水を持っていくように言われたから、持ってきたんだ」
ナイスな考えだ。もし真由美のアドバイスが無ければ、俺が死ぬどころか、あたるまで危なかっただろう。
あたるは――見えるだけの人間だから。
「それでこの部屋まで来たんだけど、呼び鈴鳴らしても出ないから、これはやばいと思って、ドアノブ捻ったら開いたから、中に入ってみると、たかしが腕に襲われていたから、清涼水を咄嗟に撒いたんだ」
そういえば、鍵を閉めた記憶がなかった。
「そうか……ありがとうな、あたる」
お礼を言うと、あたるは「気にすんなよ」と答えた。
「まあ、裏野ハイツのことを調べたら、霊鏡だけじゃやばいと思って、ここに駆けつけたわけだ」
そんなにやばい物件だったのか? 裏野ハイツは。
「それで? どうやばいんだ?」
俺がそう聞くと、家鳴りがバチバチ鳴った。
いや、これはもう家鳴りじゃないだろう。
「そうだな。とりあえず、ここを出よう。ほら、いつまで裸に居るんだ。さっさと着替えて、どっかで話そう」
あたるの言葉はもっともだったので、俺は素直に従った。
こんなところに、いつまでも居られるか!
俺たちは裏野ハイツから大分離れた、二十四時間営業のファミレスへ移動した。
あたるはハンバーグを、俺はナポリタンを注文して、各々食べながらこれからのことを話し合う。
「とにかく、もう裏野ハイツに住むのはやめたほうがいいよ」
ハンバーグを一口サイズに刻んで、それを口に運ぶあたる。
「ああ、そうだな。明日不動産屋に行ってくる」
俺もナポリタンをすする。あんな怖い目に遭っても食欲はあるみたいだ。我ながら食い意地張っているというか。
「それでだ。ようやく裏野ハイツについて、話せるな」
まあ霊現象のあった部屋で、その原因を話すほど危険なことは無い。それくらい俺でも分かる。
怖い話をすると霊が寄ってくる理論だ。
「結論から言うと、裏野ハイツ自体には、霊的な現象の原因はなかったんだ」
「……もっと分かりやすく言ってくれないか?」
回りくどい言い方はあまり好きじゃない。
「つまり、裏野ハイツ自体に問題があるわけじゃないんだ」
なんだか前提を覆すようなことを言うあたる。
「じゃあ、なんで俺は腕とか化け物とかに襲われたんだ? てっきり、何か因縁とか怨念とかがあると思っていたんだが。『リング』みたいなさ」
「裏野ハイツは名前がいかにもそれっぽいけど、原因があるわけじゃないよ。人も殺されていないし。まあ不自然死や気が狂った人も居ないわけじゃないけど」
「いや、それが原因だろう? ていうかなんだよ不自然死って」
「だから、その原因は裏野ハイツにはないんだよ。別に擁護するつもりはないけどさ、裏野ハイツは昔起こった事件に関係していないんだ」
昔起こった事件?
「だから、どういう意味なんだ?」
俺の質問の前に、あたるはハンバーグの最後の一切れを食べた。そして言う。
「裏野ハイツができる以前の話になるんだけど」
「裏野ハイツになる以前? 三十年以上前の話になるのか?」
築三十年だったから、そういう計算になる。
「事件は今年で四十二年前になる。まだ僕たちが産まれる前の話さ」
「待て。どうやってその情報を調べたんだ?時間的にそこまで調べられないだろ」
いくら何でも、四十二年前の出来事を調べるだなんてスキルは、あたるにはなかったはずだ。
初めから四十二年前について知っていたなら、話は別だけど、それを知らなかったら、何を調べればいいのか分からないだろう。
「僕が出入りしている、オカルトサイトで情報を仕入れたんだ」
「……信用できるのかそれ?」
顔も名前も知らない人間なんて信用できるわけが無いと俺なんかは思うけど。
猜疑心が強いわけでもないが。
「たかし、顔も名前も知らなくても、信用できる人間はいくらでもいるさ。ネットでも善意で忠告してくれる人だって居るさ」
「いや、忠告されるようなことをするなよ。まあいいや、それで? どんな情報なんだ?」
俺が先を促すと、あたるは真剣な表情をして、俺に囁くように言う。
「裏野ハイツができる前、そこには一人の芸術家が居たんだ」
芸術家と聞いて、俺はさっきの夢を思い出した。
まさか……
「男の名前は流石に分からなかった。当時の新聞を見られれば、分かるかもしれなかったけど」
「いいよ。知りたくないし。で、その男がどうしたんだ?」
「……なんで男だって分かったんだ?」
あたるが不思議そうな顔をした。
「……なんとなくだよ。気にすんな」
俺は憂鬱な気持ちになった。夢に出てきた男が現実世界の住人だと知って、嫌な気分になった。
だって、そうだろう? 殺された女も現実のものだって証拠だから。
「で? その芸術家は何をしたんだ?」
あたるは俺の質問に、こう答えた。
「その芸術家は狂っていたんだ。周囲の住人を殺して、自分の家で腕を切り落としたんだ。それを写生したりして絵画にしたんだ」
「……マジで?」
食事の最中に聞くことじゃなかった。俺は三分の一ほど残っているナポリタンを食べる気が失ってしまった。
「なんでそんなこと――」
「さっき話した夢の出来事で、男が『ミロ』って言ってただろう」
「それがどうしたんだ?」
あたるは躊躇することなく、はっきりと言った。
「たかしも知っていると思うけど、腕の無い芸術作品で一番有名なのは知っているか?」
「えっ? なんだっけ? 確か――」
突然聞かれたので、何も浮かばなかった。
悩む俺に対して、あたるは答えを示す。
「ルーヴル美術館に展示してある、『ミロのヴィーナス』だ」
「あっ! だから――」
ミロって見ろじゃなくて、ミロのヴィーナスのことだったのか。
「芸術家は人間の腕が嫌いだった。爪も指も手首も肘も、そして腕自体が嫌悪の対象になっていたんだ」
その感覚は理解できなかったけど、敢えて口を挟まなかった。
「その芸術家にとって、『ミロのヴィーナス』は至高にして究極の芸術作品だったみたいだ。だからこそ、それに近づくために、人間をモデルに描き続けたんだろう」
「いや、腕を切らなくても描けるだろ?」
「分からないよ。僕にも分からない。芸術家の思考なんて理解できない」
想像もしたくないけど、リアリティを追求するため、だろうか?
「それで、芸術家は人を殺め続けた。その数なんと五十四人だ」
「うげえ。そんなにか?」
当時の警察は何をしていたんだ?
「それで、結局、そいつはどうなったんだ?」
「自殺したみたいだ。自分の両腕を切断して、失血で死んだとコネコさんは言っていた」
誰だよコネコさんって。オカルトサイトの住人か?
「裏野ハイツは芸術家の家の跡地に建てられたんだ。ろくな土地のお祓いをしていないから、今でも死者の怨念が渦巻いているのさ」
だから、裏野ハイツ自体には怨念も因縁もないのか。
「まあそれでも住人たちに悪影響がある時点で、裏野ハイツも関係なくも無いけどね」
そしてあたるはこうも言った。
「僕が参加しているオカルトサイトだと有名だよ。裏野ハイツじゃなくて『恨みのハイツ』だって」
「つまらない駄洒落はやめろよ」
本当に笑えなかった。
「それで、この後どうするんだ?」
「どうするって、何が?」
俺の言葉にきょとんとするあたる。
「お前の家は神社だろう? 祓ったり清めたりするのが仕事じゃないのか?」
「お金がもらえるわけでもないのに、そんなことしないよ」
即物的な考えだった。
「たかしも引き払うんだろう? だったら問題ないよ。引越し作業は昼間にやればいいんだし」
だけど、俺には心残りがあった。
他の住人たちだ。
何故だか分からないけど、他の住人たちは普通に暮らしているけど、いつ何時襲われるか分からない。
正直、俺は性格が良い人間ではない。むしろ性悪なほうだ。拾ったお金はネコババするし、他人の困った表情が大好物だ。
だけど――見てみぬフリなんてできるわけが無い。
「なあ。真由美と親父さんはいつ戻るんだ?」
「明日の朝の八時だよ。それがどうしたんだい?」
「俺がお金を払うから、除霊を依頼したい」
俺がそう言うと、あたるは意外そうな顔をした。
「なんでだ? もう引き払うんだろう?」
「俺の次の住人と今住んでいる人たちの為だ。いくら何でも放置しておけないだろう」
まったく、俺は善人のつもりか?
自分でも笑ってしまいそうだった。
だけど、あたるの一言が俺から笑みを奪う。
文字通り、心から震える、笑えない一言だった。
「はあ? 今住んでいる住人?」
あたるは心底不思議そうに言った。
「たかし以外に住んでいる人なんていないよ。表札も人の気配もなかったじゃないか」