俺と霊鏡
「はあ!? 真由美と親父さん、居ないのか!?」
「あまり大声で驚くなよ……朝っぱらから近所迷惑になるだろ?」
あたるは不機嫌そうな顔で言う。こいつは低血圧なので朝に弱いのだ。
今、俺たちが話しているのは武蔵清涼社という由緒正しい起源を持つ神社の境内だ。
俺はスマホを持っているのを失念して、訪れることを事前に連絡しなかった。
メールもLINEもせずにいきなり家のチャイムを鳴らした友達に対しては、これが普通の対応かもしれない。
こんな非常識な訪問をしたのは、かなり動揺しているのだと分かってほしいけど。
「とにかく、迷惑だから帰ってくれない?」
とんでもないことをさらりと言うあたる。俺は「そんなこと言わないでくれよ」と泣きついた。
「お前たち兄妹だけが頼りなんだ。頼む、なんとかしてくれ!」
「なんとかって……何をすればいいんだ?」
「そりゃあもちろん、あの化け物をなんとかしてほしい――」
「あのなあ。僕は霊能力者じゃないし、ただ見えるだけの一般人だ。たかしと何ら変わらないよ」
そう諭すあたるに俺は食い下がる。
「そう言わずにさ。ほら、真由美がくれた朱墨の呪札みたいな霊的アイテムとかないのか? 手軽に悪霊退散的な」
「お前、馬鹿にしてるのか」
やばい。俺のことを『お前』呼ばわりするときは本当にイラついているときだ。
「わ、悪かったよ。でも、あたるくらいしか頼れる人がいないんだ」
「それはさっき聞いた」
「せめて真由美が帰ってくるまで泊めてくれないか?」
「お前、僕の母さんと仲悪いだろ」
何故だか知らないけど、俺はあたるの母親に蛇蝎の如く嫌われている。真由美のことが関係してあるのかもしれない。
「でもさあ、もしかしたら俺死んじゃうかも……」
「分かったよ。仕方ないなあ。たかしの言う霊的アイテムを持ってきてやるよ。今日はとにかく、それ持って帰ってくれ」
泣き落としが効いたのか、ようやく俺を助けてくれるみたいだった。
「ありがとう! 流石親友!」
「調子乗るな。まあちょっと待て。今持ってくるから」
そう言うと、背を向けておそらく神社の倉庫の方へ歩くあたる。
ほっと一息した直後に、あたるにこう声をかけられる。
「一応、この神社は結界が張られているけど、用心のために呪札を持っていろ」
俺は右手に持っていた呪札を強く握った。
それから十分後。
あたるは白い布切れに包まれた楕円形のモノを持ってきた。
大きさは写生用のスケッチブックぐらいだ。
「それ、なんなんだ?」
「鏡だ。もっと詳しく言うなら、霊鏡と言ってもいいだろう」
れいきょう? ああ、霊鏡か。
「それを使えば、あの化け物を追い払えるのか?」
「いいや。逆だね」
あたるは淡々と言った。
「霊を誘き寄せる霊具だ」
「……はあ?」
何を言っているのか、理解できなかった。
「おいおい。どういうことだ? 俺は化け物を追い払う――」
「追い払ってもまた来るに決まっているだろう? だったら捕まえてしまえばいい」
あたるはたまに言葉足らずなところがある。俺は焦る気持ちを抑えなければいけなかった。
「つまりだ。この鏡は霊を誘き寄せて、封じる霊具なんだ。分かりやすく言うなら、封印する霊具なんだよ」
発想の逆転。追い払うのではなく、誘き寄せて封じることを、あたるは考えていたのだ。
なんだか、こういう問題になれている感じが、頼っている立場でも、薄気味悪く思った。
「使い方は布を取って化け物に向ければいい。ああ、呪札で動きを止めることを忘れるなよ。問題はたかしの度胸だけだけど、こればかりは僕も協力できないな」
「いや、ありがとう。後は自分でなんとかするぜ」
親友がここまでしてくれて、勇気の湧かないヤツは男じゃないだろう。
「昨日は何時くらいに出てきたんだ?」
「出てきた? ああ、化け物か。夜中の七時くらいかな」
バイトの面接が六時半に終わって、徒歩十分だから、だいたいそのぐらいだ。
「つまり日が暮れてから、その化け物が現れたわけだ。じゃあ今日も夜になったら現れるな」
嫌なこと言うなよと思ったけど、言葉に出さなかった。
「あのさ、封じた鏡はどうすればいいんだ? ここにまた持ってくればいいのか?」
「ああ、勝手に処分していいよ。封じた時点で、もう出て来れないし。割ってしまっても大丈夫だ。でも封じている最中に割ったら効力がなくなるから、扱いに気をつけてくれよ」
「漫画だと割ったら出てきそうだけどな」
「そんなデリケートな霊具は駄目だろう」
うーん、基準が分からない。
「そうそう。その化け物が現れたのは、下宿先を変えてからか?」
「えっ? そうだけど――」
「下宿先の名前はなんだ?」
「裏野ハイツだけど……関係あるのか?」
俺の理解の遅さと勘の鈍さに呆れた表情を見せるあたる。
「あるに決まっているだろう。むしろ無かったらどうかしているよ。裏野ハイツか。僕も調べてみるよ。何か霊的な事件がないか調べてやる」
それを聞いて、知りたいという好奇心と知りたくないという恐怖心を同時に抱いた。
「分かった。とにかく、あの化け物を何とかする」
俺はそう言って、下宿先の裏野ハイツに戻りたくないけど帰ることにした。
「おい、たかし!」
大分離れてから、あたるは大声で言った。
「危なくなったら逃げろよ! 死んだら僕も真由美も悲しむからな!」
まったく、大声は近所迷惑じゃないのか?
俺は振り返ることなく、右手をふらふら挙げてそれに応えた。
そういえば、俺はまたも大事なことを訊くのを忘れていた。
どうして霊感のない俺に、化け物が見えたんだ?
それから俺は近くの漫画喫茶で時間を潰した。日暮れまで待つつもりだった。
寝ようにも興奮と緊張で眠れなかった。
漫画の内容も頭に入ってこなかった。
悶々としていると、恐怖とは別に怒りも湧いてきた。
なんで俺がこんな目に遭わなければいけないんだ? 潔白精錬とまでは言えないけど、人の道を外れたことなんてしたことはない。
真面目に生きてたつもりだ。
「絶対封じてやるからな……化け物め」
そう呟いた、そのときだった。
スマホの着信音が、鳴った。
あまりのタイミングの悪さに俺は飛び上がらんばかりに驚いた。
驚き過ぎて、声もあげられない。
恐る恐る、スマホ見てみる。
登録されていない番号だった。
「な、なんなんだよ……ふざけんなよ……」
俺は動揺を隠し切れなかった。
このまま、無視するか。
それとも――
「化け物め。ふざけんなよ……!」
俺は覚悟を決めて、スマホを取った。
「もしもし――」
「ああ、松原くん? 店長だけど――」
うん? 店長?
……ああ! コンビニの面接の結果だ!
緊張感が一気に無くなって、弛緩してしまう。
はああっと息が漏れる。
「うん? どうかしたのかい?」
「いえ、なんでもないです……」
結果として、俺はバイトの面接に受かった。
来週からシフトに入れるそうだ。
俺は早々に店長との会話を打ち切った。
後は裏野ハイツの件をなんとかするだけだ。
時間になったので、俺は漫画喫茶を出た。
歩きながら、考える。
どうしてあんな化け物が部屋に現れるのか。
他の住人は知っているのか。
不動産屋は? 前の住人は?
その辺は、あたるが調べてくれるだろう。
まずは目先のことを考えなければ。
黄昏の空が紫色の帳へ変わっていく。
俺は覚悟を決めた。
逃げるのではなく、戦う覚悟を。
正直ビビッているけど。
下宿を変える決断をするべきだろうけど。
それでも逃げることだけは嫌だった。
それだけは、嫌だった。