俺と怪奇
異変が起きたのは、次の日の夜だった。
その日、俺は新しいバイトの面接を終えて、裏野ハイツに戻ってきた。
今、働こうとしているのは、徒歩圏内にあるコンビニだ。結構バイト代が良いので、何としても受かりたいと思っている。
面接の結果は翌日に知らされるそうだ。手ごたえは自分の中にあったので、多分大丈夫だろう。
俺は家に帰って何を食べようか悩んでいた。
あたるが協力してくれたおかげで、引越し代は大分浮いて余裕はあるけど、これからの生活を考えると節約しなければいけない。
冷蔵庫の中には豚肉ともやしがあったはずなので、もやし炒めにしようと決めた。
階段を上がって自分の部屋に戻る。金属製の階段なので、カンカンカンと小気味良い音が響く。
部屋の前に着いて、俺は鍵を開けて中に入る。
三月はまだまだ寒い。俺は扉を閉めた後、部屋に置いてある電気ストーブの電源を入れようと部屋の中を歩こうとした。
そのとき、また家鳴りがした。
バチバチっと放電するような音。
「うわ……また鳴ってるよ……」
うっとおしいなあと思いつつ、俺は「そんなことしても怖くねえよ」と呟く。
本当は少しだけ怖かったけど、気にしてたらキリが無い。
「幽霊とかオバケとか居るんだったらな、もう少し分かりやすく脅かしてみろや」
一人っきりの空間で、大きな独り言を言ってみる。なんだか寂しくて危ないヤツだな俺。
しばらく待っていたけど、何の反応もなかった。
ふん。やっぱりそうだ。
「あたるや真由美には悪いけどな。幽霊とかオバケとか、そんなものは人間の想像や妄想に過ぎないんだ。そんなもの気にしてたら、日常生活なんてできねえよ」
そう言って俺は冷蔵庫の中を開けた。
その中には、生首が入っていた――なんてことはなく、備蓄が少ない、はっきり言ってしまえばほとんど何も入っていない中身だった。
「とりあえず、飯を作って風呂入って寝るか……」
独り言を呟きつつ、俺はもやしと豚肉を持って流し台の前に立った。
そして包丁を握って、豚肉を刻もうとしたときだった。
ガタガタガタガタ――
四回、音が鳴った。
俺は驚きのあまり、動きを止めた。
思考も停止してしまった。
天井から何かが歩いた音。
上から何かが這いつくばった音。
額に汗が溜まる。
――何か居るのか?
俺は包丁をまな板の上に置いて、ゆっくりと後ろを振り返る。
もちろん、誰もいない。
天井を見上げても、変わった様子は見られない。
天井、いや屋根の上に何か居るのか?
野良猫か何かが、屋根の上をドタドタ歩いたのか?
考えられるのはそれだけど、しかしあんな大きな音がする大きい野良猫や動物が居るだろうか?
それに、屋根の上からではなく、天井の中から音が聞こえた気もする。
つまり、屋根と天井の間に、何かが居るのか?
「あ、あはは……まさかな……」
笑えない展開なのに、自然と笑みが零れる。
人間、恐怖したときでも笑いが生まれる。
「天井の中が見られるのは……できないな」
もしも天井裏を見られたとしても、見る勇気が俺にはない。
小心者なのだ。
「気のせいでもないし……まあおばあさんに話を聞いてみるか明日」
俺の部屋だけ音がしたわけでもないだろう。あんな大きい音は確実に二階の住人が聞いているに違いない。
もしかしたら――よくあることなのかもしれない。
案外、おばあさんに聞いたら「ネズミが天井裏に居るのよ。やあねえ」とか言ったりして。
裏野ハイツだけに、天井裏に何か住んでいるのかもしれない。
そんな寒いギャグのせいで、少しだけ面白くなってきた。
「そうだ。ただのネズミに決まっているさ」
声に出して言うと、それが真実に思えてくる。
そして散々怖がっていたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
普通の家鳴りとは違うだけで、これも生活音の一部かもしれないし。
気にすること無い。ただのネズミだ。
しかし、霊的なものではないのなら、ネズミ対策しなければいけない。
「えっと、明日ネズミ駆除の道具や餌とか買いに行くか。いや、不動産屋に相談して――」
そう呟くと天井からまた、ガタガタガタガタとまたも四回這いつくばる音が聞こえた。
しかも、今度は俺の真上だ。
さっきのは洋室のほうから聞こえてきたのに、今度はどんどん俺のほうへ近づいてくる。
……俺の方へ近づいてくる?
まさか、もしかして――
「ありえねえ……ちくしょう、こんなこと――」
身体が硬直してしまうのを避けるために、とりあえず、LDKから洋室へ行こうとする。
全力疾走しているわけでもないのに、心臓がバクバクいっている。
呼吸が荒くなり、汗も吹きだしてくる。
なんとかしなくては――
ゆっくりと亀の歩みであるが、あの場所へと向かう。
あの場所さえ行けば――
ガタガタガタガタ――
俺のほうへ近づく。
ガタガタガタガタ――
次第に近づいてくる。
ガタガタガタガタ――
何かが俺の真上から、落ちてくる。
まるで永遠とも言える時間。
ようやく、俺はあの場所に到着した。
「はあ、はあ、はあ……」
安心できない感覚。
そして何かが現れる感覚。
俺はベッドの枕元に置いてある、お札――呪札を取った。
そしてひと際大きい物音。
ガタガタガタガタ!
そして、天井からぬるりと何かが出てくる!
「う、おおおお!」
自然と声が出てしまう。
俺は呪札を天井の上にかざす!
恐怖のあまり、目を瞑ってしまった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
何かの断末魔。
呪札から何かのエネルギーがほとばしる。
感電したように、呪札を持っている手と腕が震える。
「う、ぐうう! ああ!!」
俺は懸命になって、呪札を持つ手を強く握る。
離してしまったら、何かが襲いかかってくるのが、無意識に分かった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
つんざくような声が部屋中に鳴り響く。
「神様、助けてください!!」
無神論者のくせにこういったときだけ、祈ってしまう。
「あああああ、ああああ、あああ、ああ……」
声が徐々に小さくなっていく。
俺は、安心とは言えないけど、気が緩んでしまったせいか、目を開けてしまった。
そこに居たのは、化け物だった。
人間の胴体に手が四本ついている。
手が四本というのは、脚の代わりに手がついているという意味で、ただそれだけなのにグロテスクな感じがする。
胴体と手以外の部位は存在しない。まるで毟り取られたように、頭が存在しなかった。
どこから声を出しているのだろう?
頭がないはずなのに、喉などの声帯があるはずないのに。
今も叫び続けているのはなぜだろう。
そんな疑問を浮かべるのは余裕の証拠だと思われるが、そう考えないと頭がおかしくなりそうになってしまうのだ。
呪札から紫の光が放出されている。
その光に押されるように、化け物は天井に磔にされている。
「ああああああああ!」
最後にそう叫ぶと、化け物の身体は溶けていくように、消えてしまった。
霧散、いや飛散してしまった。
そして訪れる静寂。
「はあ、はあ、はあ」
俺はその場に倒れ込む。
呪札を持つ手が鉛のように重い。
「なんだ、今のは。なんなんだ?」
あたるのヤツ、俺に霊感がないとか言いやがって。
もろに見てしまったじゃないか。
呪札をちらりと見てみる。
少しだけ、焦げているみたいだった。
「やべえ。マジでやばい!」
咄嗟に呪札のことを思い出さなければ、死んでいたのかもしれない。あんな化け物に対応できなかっただろう。
怖くなった俺は、この部屋を出るかどうか迷った。部屋にある時計を見ると、深夜と言ってもいい時間だ。
あたるの家に行くか?
だけど、外に出る勇気が俺にはなかった。
「仕方ない。このまま朝まで待つか……」
俺は呪札を握り締め、ベッドの上に体育座りで壁を背中にした。
しかし、元カノがこんな霊能力を持っていたのは驚きだった。
「やっぱり、本物だったんだな……」
そのあと、俺は一睡もしなかった。
眠気なんて、まったく湧かなかった。
それから俺は、夜が開けて辺りが暗くなるまで待ってから、裏野ハイツを出た。
もちろん、あたると真由美の家に行くのだ。
鍵をかける音が、やけに怖かったのが印象的だった。
裏野ハイツを出て、駅まで着くまでの間、ずっと震えが止まらなかった。