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俺と裏野ハイツ

「家賃が五万以下で大学に近く、それでいてセパレートタイプの物件ですか? うーん、難しいですね……私の知る限り、今現在そういった物件は……少々お待ちください」

 

 目の前にいる不動産屋、浜口さんは困った表情を見せた。


 見た目通り若く、多分新人の社員なのだろう。こうした俺の無茶振りとも思える要求に応えようと、必死になってタブレットを操作している。

 

 俺、松原たかしはその光景を他人事のように見ていた。自分から譲歩しようという気にもなっていなかった。


 なぜなら、既に他の物件に決めているからだ。


 要するに冷やかしで来たのだ。


 俺が決めているマンションは家賃が六万二千円でセパレートタイプのワンルームだ。


 いくら地方都市と言えども、ここまでの安値はないだろう。


 だから――冷やかしで来ているのだ。


 まあ自分でも性格が悪いと思うけど、最近嫌なことばかりだったのでストレスのはけ口がほしかったのだ。


 嫌なこととは一年間付き合った彼女に振られたり、バイト代を引き出したばかりの財布を落としたり。


 まあ前者は俺の浮気が原因だし、後者は俺の不注意から招いたことだから、八つ当たりに過ぎないけど。


 それに加えて、キャンパスが変更になるという面倒くさいことが起きたのだ。


 いや、入学する前から分かっていたけどな。


 俺の通う大学の法学部は三回生になると、キャンパスが変わるのだ。


 せっかく実家を離れて大学近くのマンションに引っ越したと言うのに、また引越しするのかと思うと嫌になる。


 元々億劫な性格な人間である俺はこういった煩雑なやりとりは面倒で苛々している。


 だからわざと無理難題を言って、不動産屋さんを困らせるという性悪なことをしている。


 それも友人に紹介してもらった不動産屋さんで。

 

 俺は真剣に困っている人の顔を見るのが大好きなのだ。


 ……こういう性格だから、浮気したぐらいで彼女に振られるんだろうと思ったり。


「無いならいんですよ。無理言っているのは、分かっていますから」


 一歩引いたことを言うと、浜口さんはますます焦ったように「し、少々お待ちください!」とタブレットを操作する指を倍速に動かす。


 多分、新人だという俺の見立ては間違っていなかったようだ。


 あー、超楽しいなあ!


 しかし、その楽しみはいつまでも続かなかった。


「浜口くん。いつまでお客様を待たせているの?」


 後ろからキツイ声が聞こえてきた。


 声の主を見てみると、三十代ぐらいのお姉さんがそこに居た。声と同じでキツイ印象を与える容貌をしている。


「ああ、相沢さん。なかなかお客様の物件が見つからなくて……」


 相沢さんと呼ばれたお姉さんは、浜口さんの隣に座った。


「とりあえず、お客様の希望物件を私に言いなさい」


 聞いていなかったのではなく、他の客の対応していたらしい。


 隣で契約していた客は、もうとっくに帰ったみたいだった。


 浜口さんは相沢さんに俺の希望する物件の詳細を述べた。


「そう……お客様、もう少々お待ちください。お客様の希望する物件をご用意しますので」


 キツイ印象を裏返すようなにこやかな笑顔を俺に見せて、相沢さんは店の奥のほうへ歩いて行って、言葉通りすぐに戻ってきた。


「お客様。こちらの集合住宅――『裏野ハイツ』などはいかがでしょうか?」


 うらのはいつ? 浦野ハイツだろうか?


「いえ、裏野ハイツでございます。おもてうらの裏です。まあ珍しい名前ですけど」


 営業スマイルをにこやかに見せながら、相沢さんは俺に物件の詳細を書いた紙を見せた。


 なになに? ……家賃4万9千円!?


「うわっ! すげえ安いじゃあないですか!? どうしてこんなに安いんですか?」


 思わず大声が出てしまう。


「それは後ほど説明させていただきます。まずは物件の紹介から。こちらの物件は、お客様の通われる大学のすぐ近くでございます。さらに最寄り駅から徒歩七分。そしてお客様が最も希望されているセパレートタイプの物になっております」


 俺がセパレートタイプを希望しているのは、今の下宿先がユニットバスで不便に感じていたからだ。


「こちらの間取りをご覧ください。洋室六帖にLDKが九帖。物入が二部屋に、ベランダも付いております」


「それで、四万九千円ですか? どうしてそんなに安いんですか?」


 同じ質問を繰り返す俺に、相沢さんは少し言葉を止めた後、すぐに話し出す。


「資料をご覧ください。築三十年の木造立てなので老朽化が激しく、また洗濯機を置くスペースと設備が整っていないことが、理由として挙げられますね」


 よくよく資料を見ると、確かにそのとおりだった。


「しかし、徒歩十分圏内にコインランドリーがございますので、洗濯は問題ないと思われます」


 まあそれなら大きなマイナスにはならないだろう。


「近くにコンビニはありますか?」


「ございます。それも徒歩十分圏内に。また郵便局もありますよ」


 一人暮らしの身としては、近くにコンビニがあることはかなりのプラスだ。


 プラスマイナスを考えると、プラスの面が大きい。


「敷金はありますか?」


「いえ、ございません」


「裏野ハイツの部屋数は……六部屋ですか。空いているのは何部屋あるんですか?」


「今紹介できるのは一部屋ですね。203号室です」


「……ちょっと物件を拝見してもよろしいですか?」


 俄然興味が湧いた俺は、実際に物件を見てみたい気持ちになったので提案してみる。


「もちろん構いませんよ。浜口くん、車の準備を。こちらのお客様は、私が担当します」


 相沢さんの言葉に浜口さんは「は、はい」と慌てたように立ち上がり、店の外に出て行く。


 そして、五分後。車の準備と裏野ハイツの鍵の準備が整ったので、俺と相沢さんは浜口さんが運転する車で裏野ハイツへと向かった。


「今空いている203号室は、結構人気があったりするんですか?」


 道中の俺の質問に、相沢さんは少し考えた後に「そうですね、結構人気ですね」と答えた。


「先日解約されたばかりですね。ああ、クリーニングは済んでおりますので、そこは問題ありません」


 まあ実際見てみないと良いのか悪いのか分からないし、結論を出すのはまだ早いな。


 駅前の不動産屋から車で十五分くらいの場所に、裏野ハイツはあった。


「あれ? 最寄り駅から七分じゃないんですか?」


「最寄り駅は当店の真逆のほうにあります。そちらからは徒歩七分で行けますよ」


 俺はスマホで調べてみた。ああ、確かに相沢さんの言うとおりだった。


「浜口くん。路中に停めるのは良くないから、近くの駐車場に停めておいてくれる? 物件の紹介は私がやっておくから」


「分かりました。すぐに戻りますので」


 浜口さんが車で行ってから、俺たちは裏野ハイツの敷地内に足を踏み入れた。


「へえ。結構外観は――」


何かを言いかけたそのとき。


 背筋がぶるりと震えた。


「……?」


「? どうかいたしましたか?」


 先を行っていた相沢さんが俺のほうを振り返る。


「いや……なんでもないです」


 何か寒気のようなものを感じたけど……気のせいだろうか?


 今日は暖かな日だというのに。


「外観は綺麗ですね。築三十年とは思えないくらいですね」


 ところどころ古びた部分はあるけど、十分許容範囲内だと俺は思った。


「気に入ってもらえて光栄です。ささ、中に入りましょう」


 相沢さんに促されて、俺は裏野ハイツの階段を上がる。空き部屋の203号室は二階にあるからだ。


 相沢さんは持っていた鍵で部屋の扉を開けた。まず始めにLDKがあって、一人暮らしということを考えると、結構広い。


 その後、洋室やベランダを見て回ってみた。


 クリーニング済みということもあって、築年数にしては結構綺麗になっている。


 俺はこの部屋がかなり気に入ってきていた。スマホで調べたら大学の位置も近いし、駐輪場があるので移動に不便はないし、何より家賃が安い。


 どうして誰も契約していないのか不思議でしょうがなかった。


「お客様、いかがでしょうか?」


 相沢さんの言葉に俺は「気に入りました」と正直な意見を述べた。


「是非、ここを契約したいのですが――」


 そう答えた瞬間だった。


 バチっと何か静電気的な物音が部屋中に広がった。


 驚いて言葉が止まってしまう。


 相沢さんも聞こえたみたいで、少し怖がっている顔を見せた。


「……あはは。今のなんでしょうか?」


 場を明るくしようと、わざと朗らかに言ってみるけど、相沢さんの反応は良くなかった。


「……多分、家鳴りだと思われます」


 ちょっと沈黙した後、相沢さんはそう答えた。


 いや、家鳴りにしては音がおかしかった気がするけど……


「家鳴りですか?」


「ええ。築三十年ですので耐震設計に不安がございます。なので家賃のほうがお安くなっています」


 やけに早口で言う相沢さんに、俺は少し不審に思ったけど、まあ不動産屋さんが言っていることだからと無理矢理納得した。


「あー、そうですか。でも契約したい気持ちは変わりないので――」


 しかし言い切る前にまたも家鳴り――本当に家鳴りだろうか――が鳴った。


 しかも、さっきより、大きい。


「…………」


「…………」


 沈黙が部屋中に広がった。


「もしかして――」


 何か居るんですかと言おうとしたときに玄関のほうから「すみません、遅れてしまいましたー」と浜口さんの声が聞こえた。


「あれ? 二人ともどうしたんですか?」


 不思議そうに俺たちの顔を交互に見る浜口さん。


「……なんでもないです」


 また同じ台詞を繰り返す俺だった。


 そう。なんでもないことなのだ。


 家鳴りがしたのは、この裏野ハイツが古いせいだし、契約のことを口にしたときに鳴ったのは、少し嫌な気持ちになったけど、ただの偶然だ。


 相沢さんが怯えているように見えるのも、あんな家鳴りがあったからだし。


 うん。ただの偶然だ。


 そう思うことにしよう。


 そう決めた俺は一応の用心として契約のことは口に出さずに、203号室を二人と共に出た。


 家鳴りは、もうしなかった。




 不動産屋さんに帰った後、俺は早速契約書にサインした。冷やかしできたのだけれど、一応は印鑑を持っていて良かった。


 これから、引越しの準備や大学の住所変更届を出したりなどやらないといけないことがたくさんある。


 うんざりするほど煩雑なやりとりがあることを考えるとうんざりするけど、良い物件が見つかった喜びでプラスマイナスゼロになってしまうだろう。


「ご契約、ありがとうございます」


 相沢さんと浜口さんに深くお辞儀をされて、俺は良い気持ちになった。


 冷やかしで来たのが申し訳なく思うほど丁寧な対応だったけど、結局は契約したのだから、気に病む必要はないだろう。


 しかし――このとき俺はまだチャンスがあった。


 契約しないという選択肢があったのだ。


 もしも背筋が寒くなったり、家鳴りがあったことを考慮すれば、あの裏野ハイツが怪しい物件だということが分かったのかもしれない。


 しかし、このときの俺はそのチャンスをふいにしてしまったのだ。


 だから――これから起こることは、すべて俺の責任であるのだ。


 家賃や立地の良さに目を奪われてしまった短絡的な考えが間違っていたことに、俺は後悔することになる。


 そうそう。これも相沢さんに聞いておけば良かったと後悔することになったのだ。


 本来、裏野ハイツを訪れる際に聞かねばならないことだった。


 どうして、前の住人は引越しされたのですか? 


 その答えを聞かなかったことを、俺は激しく後悔することになるのだった。


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