第三十話 イルミナの過去
自室に戻った後、椅子に座って、ポケットからぺちゃんこになったパンを取り出して齧る。味もそっけもない、実に侘しい晩飯になった。量も足りない、食い始めたと思ったら、あっという間になくなってしまった。
――今日はもうやめだ。
差しあたっての空腹だけは満たしたが、起きていればすぐにまた腹が減る、こんな時はさっさと寝てしまうに限る。
さすがにこれ以上は働く気になれなかった。というか、あれだけのことがあって、その後まだ普通に働ける奴がいるというなら、その顔が見てみたい。
残してしまった仕事は、明日に回す。クソどもが抜けた穴を手の空いている人員で埋める、裏庭に放り出したジョエルズの死体を、共同墓地に送る、そんなくだらない仕事まで増えた。
――それにしても、イルミナの奴。
結果オーライ、と言ってしまえばそれまでだが、今日のはいくらなんでも独断専行が過ぎた。
怒るべきか、といえば、これも微妙なところだった。今回のこの行動は俺自身、誰にも了解を得ない独断専行であったわけで、それを察知したイルミナに先にやられてしまったに過ぎない。
ならば言いたいことは、あんま心配させんな、それだけということになる。改めて口にすべきかどうかは、疑問だ。
――どういうつもりだ。
いや、その原因もはっきりしている。あいつは、ジョエルズらが俺を害そうとしたことに対して、俺以上に怒ったのだ。
「ウィラード様のことは、守ります」
ヴェルルクスからこちらに来る前、あいつは俺に向かってそう宣言した。
「女に守られるつもりはねえ」
俺より弱いくせに、生意気言うな、と冗談交じりに返したが、それが本気の誓いだということは、わかっていた。パンジャリーの戦いでも、その約束は果たされている。
少なくとも事務長でいる間は、あいつは俺を守ることを、自らに課していた。だから、許せなかったのだ。
あいつがそう思うようになった、その大本は、ガキの時分にまで遡るのだろう。
イルミナと初めて会ったのは、俺が中等学校に上がる前の冬だった。
伯父貴が仕事の途中で拾ったという、暗くて貧相なガキは、挨拶ひとつまともにできなかった。というより、話すことができなかった。
「喋んねえんだよ、こいつ」
一月ほど山猫傭兵団で面倒を見ていたが、誰とも会話できないのは、さすがに持て余す、そういうことで、ビムラから少し離れた、ワラセアの町にある俺の実家に預けられてきたのだ。
「よろしく頼む」
伯父貴のその言葉は、俺の両親よりも、むしろ俺に向けられていた。
うちの母親は、伯父貴のことはあまり良く思ってはいなかったが、どうやら娘は欲しかったようで、俺の両親ともに否やはなかった。伯父貴が渡そうとした礼金も、受け取ろうとはしなかったぐらいだ。結局その金は無理やり受け取らされたが、そのほとんどはイルミナの身の周りのものに化けた。
伯父貴に連れてこられた時には、浮浪児寸前だったその姿は、身ぎれいにすると、そこそこのお嬢様ぐらいには見えるようになった。
それでも家に預けられた後も、しばらくは、誰とも話そうとはしなかった。いや、時おり何かを語りかけようとはするが、言葉が出ない、それを恥じて、さらに心を閉ざす、そんな振る舞いをずっと続けていた。
――喋れないなら、字を書けばいい。
伯父貴に頼まれたことを、自分なりに果たそうとした俺は、そう考え、イルミナに文字を教えることにした。
あいつ自身も、何とかしたい、孤独からは逃れたい、とは思っていたのだろう。どうやらその方法は正解だった。傭兵団で暮らしていれば、おそらく出てこなかった知恵だ。
生まれ育ったところは、それほど悪くはなかったようで、初歩だけはできていた。ペンを握らせると、それで懸命に何かを伝えようとし、俺もできるだけは、その内容を理解しようと努めた。
幾日もしないうちに、俺との意思疎通はできるようになった。
父親とは離れて暮らしていたこと、母親や家人と一緒に父親に会いに行き、そこで盗賊に襲われたこと、家族が皆殺しに遭った後、自分は奴隷商人に売られようとするところを伯父貴に救われたこと、そして、気づいたら声が出なくなっていたこと、彼女の境遇は、その途中で何度も涙ぐんだり、泣いたり叫んだりしながら行われた、たどたどしい筆談でのやり取りの中で、だんだんと知ることになった。
山猫傭兵団は怖かった、とも教えられた。
それはその通りだったのだろう、小さなイルミナにしてみれば、家族を襲った盗賊も、傭兵も、持っている雰囲気は同じで、等しく恐ろしい大人にしか見えなかったはずだ。団内では、特別に悪意は向けられなかったとはいえ、口もきけない面倒なガキと、邪険には扱われていたに違いなかった。そこでの暮らしは、頭では違うとはわかっていても、心情的には、盗賊に襲われたときの恐怖が、延々と続いているようなものだったのかもしれない。
それでも、伯父貴への感謝の気持ちは、繰り返し伝えられた。あの伯父貴が、強くて、優しい人だと思われているのは、誇らしかった。その意味で、俺とイルミナは、同志だった。同士のためには、力になってやりたいと思った。
それから二月ばかり、勉強を教え、あれこれと世話を焼いているうちに、イルミナはゆっくりと喜怒哀楽をあらわにするようになった。あまり感情表現は豊かではなかったが、これはもとからの性格のようだった。
そもそも生まれつき喋れなかったわけではない、何かの拍子に、言葉も取り戻すことができた。
「ウィラード」
俺が初めて聞いた、あいつの声はそれだった。その鈴の鳴るような響きで、俺は自分のしたことが、無駄でなかったことを知った。
「俺のことは、ウィラード様と呼べ」
俺が返した言葉は、ガキっぽい見栄から出たものだった、いや、今にして思えば、照れ隠しの成分の方が強かったようにも思う。それ以来、あいつは俺のことを『ウィラード様』と呼ぶようになった。そう呼ばせることについては、俺の母親が何度か注意をしたが、イルミナ自身がそれを改めようとはしなかった。
初めは俺とだけだったものが、やがて俺の母親、五つ下の弟などと、会話ができるようになっていった。それでも、親父とだけは、いや、親父だけでなく、大人の男とは、誰とも話せるようにはならなかった。
そのまま家で暮らしていれば、いずれは話せるようになったのかもしれない。だが、イルミナと一緒に暮らしたのは、三月ほどの、春になるまでの短い間だけだった。そして俺はその春から、中等学校の寄宿舎に入ることに決まっていた。
俺の進学を目前にして、再びふらりと伯父貴は現れた。
「様子を見に来たぜ」
本当に、ただ様子を見に来ただけたったのだろう、俺の進学祝いのようなものは、物も、言葉も、何ももらえなかったと記憶している。
しかし、そんなことより、はるかに覚えていることがあった。
「……こ、こん……に……ちは」
その伯父貴に向かって、イルミナは挨拶をすることができたのだ。それは絞り出すように、ゆっくりとしたものだったが、伯父貴は遮りもせず、最後まで聞き届けてくれた。
イルミナが、いつか自分の口でお礼を言いたいと、その時のために、俺と一緒に練習してきたのだ。何度も親父を練習台にして、結局は一度も成功しなかったものが、伯父貴を前にして、ぶっつけ本番で、初めてそれは成功した。
「わた……しは……イ、イルミ、ナ、です。……たすけ……て、くださって、あ、あり……が、とう……ござ……います」
「そうかい、お前はイルミナというのか、よろしくな」
それまで話すことができなかったから、仕方がないともいえるのだが、行きずりの、名前も知らない子供の面倒を見る、というのは、いかにも大雑把な伯父貴らしいと思った。そしてその大雑把な手は、イルミナと、俺の頭を、順番に撫でた。
一度話せてしまうとその後は、伯父貴に対してだけは、俺たちと同じように、滑らかに会話ができるようになった。そして伯父貴に向かって、イルミナはこのまま付いていって、恩返しがしたい、と言ったのだ。
去る者は追わず、来る者は拒まず、が伯父貴の流儀だ。それは子供相手でも同じだった。
「喋れるようになったんなら、構わねえ」
うちの両親はさすがに強く引き留めたが、イルミナの決意は変わらなかった。
そうしてイルミナは再び山猫傭兵団に戻り、俺と時をほぼ同じくして、家からはいなくなった。
それからは、たまに会うだけの関係になった。
次にあった時には、長かった髪はばっさりと切り落とされ、まだまだ幼くはあったが、見習いの少年傭兵にしか見えなくなっていた。
現在、俺から見たあいつは、妹のなり損ない、だった。
イルミナがあのまま家に残っていれば、たとえ離れて暮らしていても、いつかは妹になっていたのではないかと思う。
だが俺は、あの時に家を出てしまった、だから、イルミナも家にいる意味がなくなったのだろう。
その頃から、あいつが俺に向ける感情は、他の誰に与えられるものよりも大きい、それは好意に限りなく近い、ということぐらいはわかっている。頑なに『ウィラード様』と呼び続けるのも、その証左だ。
しかし好意そのものではない。その中身は、感謝、敬意、責任、あとは慈しみのようなものもあるだろうか、しかしその中に、愛情が含まれるかと言えば、これはわからない
あいつは誰に対しても心に壁を作っているが、俺との間にもまだ、それは間違いなくあった。それを最後まで崩してしまうには、時間が足りなかった。
俺との間にあるものは、それは壁ではなく、ひょっとすると薄い膜のようなものなのかも知れないが、それでも、あいつの本心に触れた、そう思える瞬間には出会えていない。そしてその壁は、向こう側から破られることはないように感じている。
ならばこちら側からなら破れるのか、それが形の上だけのことならば、簡単に破れるような気はする。わざわざ俺の方で愛情など用意しなくても、単なる欲望だけで、強引にそうしようと思えば、最終的にあいつは拒みはしないだろう。
あいつは未だに、伯父貴に対しては命を救ってくれた恩義を、俺に対しては、その後に落とされた、周囲から隔絶された世界より救われた恩義を、それぞれに感じている。
しかしそんなものを媒介して、自分に傅かせるようなことは、したくもない。周りの連中が、俺がイルミナを自分の女にしたと思っているのは、どこまでいっても下衆の勘繰りでしかなく、あいつを妹のように思う気持ちは、まだ残っているのだ。
――そんな昔のことは、忘れてしまえ。
と思う。そんなものはもはや呪いに過ぎない。あいつは恩を返そうとしているのではない、恩を返すことに縋って、繋がりを求めているのだ。あいつはその重さを感じていないのかもしれないが、俺にとっては重荷だった。
今後再び兄妹に戻るにせよ、上司と部下のままであるにせよ、万が一、ありえないとは思うが男女の関係になるにせよ、一方的に与えられるような献身や、庇護の気持ちは不要だ。ただあたりまえに、互いを大事に思えばいいのだ。
そのことを、口で言うことはできる、だがその呪いを本当に解くための方法は、俺の手元には、まだなかった。
――自分を大切にしろ。
やはりそれだけは、早く伝えておこうと思いながら、この日は眠りについた。
「事務長、お客さんです」
夕方に、部屋にミルキアックが呼びに来た。昨晩は遅くまで尾行を続けていたので、こいつには今日は休みを与えていた。
「誰だよ」
「芋洗傭兵団の方、とか言ってます」
「芋洗! そりゃお前!」
「はい、昨日アタリをつけてきた所です」
山猫傭兵団に対してちょっかいをかけてきている所、もともといくつかの目星はつけていた。
ビムラに活動拠点を置いている馬借系の傭兵団、その中でもそれなりの規模となると、せいぜい三つか四つ、そう多くはない。朝に聞いた尾行の報告では、フーデルケンらが入っていったのは、ビムラの北側にある小さな酒場、ということだった。そこを根城にしているのが、まさしくその芋洗傭兵団だった。
これからその詳細を調べよう、そう思った矢先の訪問だった。
「団長は?」
「いません」
また例によって例の如く、か。
それなら俺が出て応対するしかない。
何の用事で来たのかはわからないが、殴り込みでもあるまい。ただ昨日のことで状況が動いた、それは間違いないだろう。
部屋を出て食堂に入る、そこには、初めて見る顔が十人ばかり、おとなしく座って待っていた。一見して強そうな奴らを選んできているようだが、喧嘩をしにきた、という風ではない。双方水面下での思惑はあるとはいえ、表だっての敵対はしていない。そこにはまだ、一触即発の空気は流れていない。
ただ何があるかはわからない、ミルキアックには、その辺にいて暇をしている連中を、集めてくるように命じてある。今、この場所に居合わせた山猫傭兵団の団員は六名、そいつらに何をさせるわけでもないが、これから何らかの交渉に入るなら、そこにいるだけで力だ。それでも話を有利に進めようとするなら、全然足りない。いつでも喧嘩になって構わない人数は揃えておきたい。向こうもそのつもりで、人数を揃えて乗り込んできているのだから。
「山猫傭兵団、事務長のウィラードだ」
「芋洗傭兵団、支部長のバイルゾンだ」
表面上は、どちらも友好的な挨拶をした。ただお互い舐められぬよう、必要以上にへりくだりはしない。
代表の男は、眼光も鋭い二十代後半の浅黒い男だった。後ろの面々にはそれより年長の者も多くいる、ということは、こいつはそれなりに腕が立つか、やり手だということだ。
「今日は大勢で、一体何の御用だい」
「ちょっと届け物があってな、寄らせてもらった」
バイルゾンがそう言いながら、後ろの男に合図を送ると、太った男がどさり、と机の上に大きくて重そうなズダ袋を置いた。
いやな予感がした。と言うより、その袋の質感で、中身の正体はほぼ予想がついた。
バイルゾンが勿体ぶりもせず、袋の口を開ける。
昨晩団を割って出ていった連中は、全員が早くも戻ってきていた。ただし、その体重は、出ていったときの十分の一程度にまで、少なくなっている。それが、袋の中に、全員詰め込まれていた。




