第二十九話 貝殻亭に転がる首
ミルキアックをその気にさせるまでには、少しだけ時間を必要とした。
今度のこれは、俺にしたような遊びでは済まない、それは思い知らせた。だからといって、直ちに心の準備ができるようなものではない。
「………………」
急かせるようなことはしない。へたり込んだままのその体に近づき、黙って背中側から、抱きしめる。これは伯父貴がかつて、まだ幼かった俺が泣いていた時に、よくやってくれたことだった。その時の伯父貴は、どういうつもりだったのか、いまとなっては聞けはしない。だが確かに、あの頃の俺は、伯父貴の太い腕の温もりから、無言の慰めと、力と、勇気とを感じ取っていた。
なぜ今、それをやろうと思ったのか。いや、やろうとは思ったわけではなかった、俺が伯父貴からそうして力をもらったように、こいつにも分けてやりたい、そう思ったら、自然に体が動いていた。
この背中は、そうしてもらった時の俺の背中よりは、いくらか大きいのだろう、それでも弱々しい背中だ。自分で自分を背負うこともできない、ガキの背中だった。
こんなことは、男に対しては侮辱だが、男になるまでは、何度かはしてやらなければならないことだった。
こいつらは口減らしの為に、傭兵団なんかに放り込まれちまった、底辺の、さらに底辺だ。これまでの短い人生で、一体どれほどのものを受け取ってこれたのか。それはもう、ごくわずかの恵みであったに違いない。こいつらに比べたら、俺のこれまではどれほど恵まれていたことか。
こっちの都合で、さらにろくでもねえもんまで背負わせちまったが、そんなもんを抱えて、簡単に立てるわけがねえ。足りねえ分は、俺が力を、勇気を分けてやらなきゃいけねえ。
そうして、今でなくていい、いつか男になれ。
いつか男になるために、今だけ、男をやってみろ。
「………………」
「………………」
ミルキアックの震えが、だんだんと治まってくる。後ろからだと顔は見えないが、涙を拭うような動作もしなくなった。
やがて、
「……事務長」
「んん?」
「……事務長を裏切って、ごめんなさい」
「ああ、わかりゃいい」
「僕、もう大丈夫です、やります」
決然とした声が、抱えた腕の中に響いた。こいつは自分が子供であることに、別れを告げようとしていた。
「そうか、じゃあもう、今から『僕』はやめろ。『俺』と言え」
覚悟の決まった男は、自分のことを『僕』なんて言ってちゃいけねえ、堂々と、『俺』と言わなきゃいけねえ。
「俺、やります。あの二人を、殺します」
「よく言った」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でてやりながら、自分と一緒に、ミルキアックを立ち上がらせた。その手に剣を握らせる、いくらかはまだ震えているが、こいつは武者震いだと言いきってしまえ。
「いいか、斬るんじゃねえ、突くんだ。出会い頭にまっすぐ、胴体に狙いをつけて、思いっきり突け。それだけできれば、お前の仕事は終わりだ、あとは絶対守ってやる」
何があっても庇ってやるが、最初の一太刀は、必ずこいつにやらせるつもりで、ミルキアックを先行させ、その後から部屋を出た。
貝殻亭の食堂は、これから戦場になるはずだった。
そこまではわずか二十歩かそこら。
「………………?」
だが雰囲気がおかしい。
俺たちがそこに足を踏み入れる前に、食堂からは騒ぎ声が聞こえてきていた。騒がしいのはいつものことだが、今回のそれは尋常ではない、明らかに非常事態のそれだった。
「何だよ!」
こんな時に喧嘩か! なんと間の悪い!
ミルキアックを追い越し、急いで駆け込むと、そこではすでに戦闘らしきものが行われ、そして、終わっていた。
いつもは雑然とではあっても、それなりには並んでいる机や椅子がなぎ倒され、中央には大きな空間ができている、その床には二人の人間が倒れていた。
一人はジョエルズ、うつぶせになった背中にはナイフが深々と突き刺さり、血だまりに横たわったまま、動いているようには見えない。
もう一人はフーデルケン、うつぶせに押さえつけられているが、こちらは確実に生きている、しかし動けない。その背中にはイルミナが馬乗りになり、喉元にはいつでもその首を掻き切れるように、ナイフを突きつけていた。
そのすぐ側にはティラガとディデューンが、いつでも抜剣できる状態で、イルミナを守るように立ち、それを取り囲むジョエルズらの子飼いの数名と、睨み合うように対峙していた。
さらにその周囲には、あまり関係のない団員たちが遠巻きに野次馬を決め込み、俺たちが食堂に入った時点で、動こうとする者は一人もいない。
――どういう状況だよ。
いや、ジョエルズ、フーデルケン、どちらか一人を倒し、一人を生け捕り、今のこの睨みあいの状態には収拾をつけないといけないが、俺たちが部屋の中でやろうと思っていたことは、この状況を作ることであって、それが何もしないうちに完璧に果たされていた。
どうしてこうなっているのか、把握しきれてはいないが、これは拍子抜けでもしてればいいのか、この上今さら何をすればいい。
ミルキアックにも覚悟のさせ損、となったか、いかにも締まらねえ話だ。
と思ったら、
「うああぁぁぁぁっ!!!」
俺の背後から来たそのミルキアックが抜き身の剣を構え、イルミナに組み敷かれているフーデルケンに向かって突進した。
「おっと」
慌てて襟首を捕まえる。
「んがっ」
その剣がフーデルケンに到達する前に停止させた。こんなわけのわからない場面に遭遇しても、動揺することなく、ミルキアックの覚悟は完全に決まっていたようだ。
「いい覚悟だが、ちょっと待ってくれ」
その心意気は頼もしい限りだが、残念ながらフーデルケンには、もうしばらく生きていてもらわねばならない。こいつにはまだ喋らせなくてはならないことがある。
「イルミナ!」
しかし、こいつのことを、完全に勘定に入れ忘れていた。
スープをぶちまけた廊下がきれいに片づけられていたことで、気づいても良かったかもしれない。どうやら俺たちが部屋の中でしていたやりとりは、聞かれてしまっていたらしい。
それでもここまで先走っているとは、予想外どころではない。
「何があった?」
「………………」
だめだ、周囲の注目がイルミナに集中している、この状況でこいつは喋れない。
「ティラガ」
仕方なくティラガに聞きなおす。
「わからん。そっちから来たイルミナがいきなりジョエルズを後ろから刺した。それからフーデルケンを押さえつけて、いまこうなっている」
ふむ、こっちもよくわからないまま、とりあえずイルミナの味方をしたか。付き合いの長さ、濃さでいえば当然だが、いきなり刺した、の部分だけ見れば心情的にもやりにくかっただろうに、ありがたいことだ。それとも古い仲間は完全に信頼しきっているのか。
「あんたがやらせたんじゃないのか」
逆に尋ねられたが、違う、とは言えなかった。
こうするつもりだったが、先を越された、とも言いにくい。
「……ああ。……そうだ、俺がやらせた」
仕方なく責任をこちらで引き取る。
「ん、……んん?」
まあ混乱もするか、『何があった』って聞いといて『俺がやらせた』だからな、そりゃ辻褄も合ってねえ。だがイルミナに責任を押しつけるようなことを言っても意味はない。
「そっちも助かった」
ディデューンには何も聞かず、礼だけ言っておく。
「うむ、私は女性の味方だからな。特にイルミナ君のような美しい女性にはな」
良かったな、イルミナ。褒めてもらったぞ、こんなの初めてじゃねえのか。
そんなことを嬉しがる様子もないイルミナの尻の下で、フーデルケンから抗議の声が上がった。
「何でえ、俺らが何やったってんだよ」
――さあここからが本題だ。
騒ぎの中心に近づきながら、先程までの覚悟を、もう一度心に取り戻した。フーデルケンの目の前にしゃがんで、その汚い顔を正面から睨みつける。
「反逆だ」
「……一体、何のことだよ」
「ミルキアックを使って、俺を殺そうとした」
ざわっ、と周囲がさざめいた。制裁の理由としては、それは充分なものだ。
「…………知らねえな」
まさか、そうです、とも言えまい。言えばたちまち首が飛ぶ。
「嘘だ! あんたとジョエルズが、俺に事務長を刺せって言った!」
背後からミルキアックが反論する。いい傾向だ、自分のことを俺と呼び、こいつらのことも呼び捨てにしている、教育の効果は出ている。
「って、言ってるが」
「……知らねえもんは、知らねえ」
しかしこいつがシラを切り続ける限り、予想したとおり、言った言わないの水掛け論になる。そんなものにつきあってやるつもりはない。
団内にさほどフーデルケンの信用があるでなし、俺の正当性を観客に訴えかけるには、ミルキアックの必死さだけで事足りる。
「じゃあ知らねえまま、死ね」
俺は剣を抜いて立ち上がり、いつでも首を落とせる体勢になる。
役人や商人相手ならそうもいかないが、傭兵同士なら証拠があろうがなかろうが、最後は力ずくだ。こうなった時点で、お前の負けだ。
「ま、待て! そんな無法があるか!」
暴れようとするが、イルミナのナイフがその首に食いこむと、動きはまた固まった。
「死ぬ前に、文句だけは聞いといてやる」
この衆人環境の中、不満を吐き出させる。これからこいつが言うことは、こいつだけでなく、他の団員たちも多かれ少なかれ感じていることのはずだ、その負の感情は、この場で断ち切ってしまっておきたい。ここで俺が言い負かされるようなことがあれば、俺の立場もさらに悪くなる、しかしこれは、今後の為に必要な儀式だった。
「あ、あんたは俺たちを使って、自分ばっかり得してるじゃねえか!」
こいつも俺を言い負かせることができなければ死ぬ、そう思って噛みついてきた。
「ふざけんな、どこが得だか言ってみろ。俺が得するつもりなら、初めっからこんなとこに来てねえ。それかとっくにパンジャリーの王宮勤めだ」
「こ、この前の戦いだって、俺たちにだけ危ねえことさせやがったくせに!」
「あ? そりゃ聞き捨てならねえな。この前俺は、二十人ばかりは斬ってやったが、怪我なんかひとつもしてねえぜ、それのどこが危ねえ? 逆に手前は何人斬った? まさか一人も斬ってねえのに、危なかったとは言わねえよな」
まあ、詭弁だ。
俺の返答は、こいつの質問に対する返しとしては、少しズレている。
だが傭兵の世界では、論理より、まず感情だ、どちらがより強いかだ。理屈がどれほどねじ曲がっていようと、強い奴の言うことは、弱い奴の言うことより、絶対的に正しい。
先日の俺の暴れっぷりは、ここにいる多くの者が見ているはずだ。圧倒的な戦果を上げた俺よりも、こいつの言葉が他の連中に響くことはない。負け犬の遠吠えに、人の心を打つ力はない。
「う、馬がありゃあ、俺だって」
だから苦し紛れに出たのは、そんな程度でしかなかった。
「じゃあ自分で用意すりゃいいじゃねえか、何でやらなかった。それとも何か? 俺が黙ってお前らのために馬を用意して、わざわざあてがってやんなきゃいけねえのか? この世のどこに、お前のために馬を持ってきてくれる奴がいるんだ? そんなことを俺がやらなかったからって、文句の言われる筋合いはねえ」
「………………」
フーデルケンはそこで口を閉ざす、何かしら言わねば、と考えてはいるようだが、次の言葉は出てこない。
結局のところ、こいつらの不満は、嫉妬以上のものではない。
待たざる者から、持つ者への嫉妬。
そんなものは、どこまでいっても解消させることはできない。
俺がこいつらと同じ質素な生活をしようと、安月給に甘んじようと、引かされた貧乏くじは一時のことに過ぎない。いずれは、そうでない世界に行くことが、約束されている。そのことは誰の目にも明らかなことだ。
俺がこいつらより長い労働をしようと、より危険な任務を果たそうと、あるいはどれだけの責任を負ったところで、嫉妬に目が眩んでいるうちは、それが評価されることはない。
俺のことを評価してくれる者は、もうしてくれている。それだけのことは、やってきた。
それ以外の者に対しては、絶対強者として君臨するしかなかった。
――柄じゃねえ。
柄ではないが、そうしなくてはならない。一定の割合で、人はそういうものを求めるのだ。そいつらのためには、嫉妬しなくてもいいものに、なってやらねばならない。
「手前ら全員の給料は、ちゃんと増やしてある、これは俺にしかできないことだ」
まずは飴。ここにいる全員に聞こえるように、言い放つ。
これは事実だ。就任当月に比べると、団員の手取りは月に銀貨三枚分は、確実に増やしている。自分から恩に着せるのが嫌で、敢えて言っていなかったが、こいつらは何も考えずに、金はあればあるだけ使うような連中だ。もしかすると、そのことに気づいてないのかもしれない。
「マジか」
「増えてるぞ」
「増えてんのか?」
周りでそんなひそひそ声も聞こえた。がくり、と膝を落としそうになったが、やはり気づいてない奴は少なからずいたようだ。こいつらに対して、言わないでもわかれ、というのは少々横着で、自分のためのカッコつけでしかなかった。
「手前らの誰でもいい、事務長をやりたいんなら、いつでも代わってやる」
少しだけ反応を待ったが、もちろんやりたがる奴は誰もいない。
「今後一切、団内で俺の陰口を叩くことは許さん。文句のある奴は、直接言ってこい」
それから鞭。これまでのやり方は、生温かったと反省しなくてはならない。断乎としたものは、必要なのだ。
「これが反逆者の最期だ!」
俺は剣を高々と構えた。フーデルケンが驚愕して固まる。
「見ておけ!!!」
そのまま振り下ろした。
その軌跡は綺麗な弧を描き、そして、ごろり、と首が胴から離れた。それはいくらか転がり、断面を下にして、苦悶の表情のまま床から生えるようにして立った。
ただし斬ったのは、もはや生きているのか死んでいたのかわからない、ジョエルズの首。血はすでに多くが流れてしまっている、今新たに身体から出た血の量は、それほど激しいものではなかった。
「なかなか上手だな」
ディデューンがそんな感想を漏らした。言うな、こんな据物切りは初めてだ。自分でも上手くいきすぎて驚いてるぐらいだ。
しかしこれは、神意に適う、という状態なのだろう。すっぱりと、まるで芝居の小道具のように見事に落ちたその首は、この場での俺の正しさを何よりも証明するものとなった。
「ふぁ……ふわ……うわああああ!」
自らの命が、まだあったことに驚いているのか、何を言っているのかわからないフーデルケンの髪を掴み、頭突きをかます勢いで顔を近づけた。
「子分どもを連れて出ていけ、二度と戻ってくるな、それで許してやる」
ここで命二つ、は多すぎる。いかに血の気の多い傭兵たちとはいえ、これ以上の惨劇は見たくもないだろう。反逆を企んだ首謀者を処断、あとは追放、落とし所としてはこれぐらいで充分だ。
それにフーデルケンの命にはまだ使い道があった。
イルミナに身柄の解放を命じると、何も言わずにナイフを懐に収め、ゆっくりとその体から立ち上がる。
拘束が解けたフーデルケンは、腰を抜かしたまま、必死で這いずるように仲間たちの元へ近づいた。しかし彼らも、戸惑っている。このままフーデルケンと運命を共にするのか、それとも詫びを入れた方がいいのか。
「早くしろ」
お前たちにもう居場所はない、そう告げたつもりだ。
彼らは弾かれたように、何名かでフーデルケンを抱えあげるようにすると、ばたばたと逃げるように貝殻亭を後にした。
――七名、都合八人か。
出ていった人間を数え、それに死んだ奴を加えた、思ったよりは少ない。仕事に穴が開いた分の調整は必要だが、明日からの運営に支障をきたすほどではない。半月分の給料を払う必要がなくなった、と考えれば少し浮きだ。
威儀を示すことはできたはずだ。万が一連中の息がかかった者が残っていたとしても、今後は何もできはしないだろう。今日のことを恨みに思うよりは、逆にこっちの機嫌を取りにくる可能性の方が高いぐらいだ。
この場でフーデルケンらの背後にいる連中を吐かせる。
それは当然考えたが、吐かせたところで、そのことは相手を攻撃するための、何の証拠にもならない。たった今、ミルキアックの証言が大した証拠にもならなかったのと同じだ。
こいつらのように、証拠がなくても力ずくで何とかできる相手ならいい、だがそうでないなら、相手の落ち度を作らねばならない。
出ていった連中は、これからおそらくその相手のところに身を寄せることになるだろう。いきなりのことだ、一旦傭兵ギルドを挟んで、という知恵までは回るまい。そうなれば、直接的な団員の引き抜きと見なすことができる。それはこちらから攻撃を仕掛けるための口実とするには弱いが、敵対行動としての実績とはなるし、あくまで防衛、と済ませられるぐらいの反撃はできよう。
「悪いが、どこに行くか、尾けてくれ」
誰にも気づかれないよう、こっそりとイルミナに耳打ちをした。
「無理はしなくていい、見失ったら戻ってこい。それからこいつも連れてってくれ」
今日必ずフーデルケンらの行先を突き止める必要はない。それは早いに越したことはないが、そこで働き始めれば、いずれわかることだ。どこの誰ともわからない相手に対し、危険を冒してまでする必要は感じられない。
だからミルキアックも同行させる。これは、無理をするなと言ってもする可能性があるからだ。足手まといを付ければ、無理をしようにもできなくなる。それから、男になり損ねたミルキアック自身の贖罪のためでもあった。
「かしこまりました」
「い、行ってきます」
小声でそう言って、二人は夜の町に出ていく。
あいつらにだけ働かせるようで申し訳ないが、俺が今から、食いそこなった晩飯を摂ることにまで文句がある奴がいるなら、それこそ今すぐにでも辞めてやる。




