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狂気の証明

作者: たこぼうず

民間病棟の日常に潜むホラーサスペンスを書きました。霊や悪魔の類は出てきませんが、ホラーが苦手な人はご注意下さい。

 1980年、6月7日。

 病室の南側に取り付けられた窓から暖かな陽光が差し込んでいる。

 窓の端に折り曲げられた清潔な白いカーテンの横に、白く細長い花弁が三枚咲いたスノードロップが飾られていた。茎が柔らかいのか、花冠(かかん)の土台である(がく)の付け根から先が重力に負けて垂れ下がり、その姿は腰が曲がった老人のような弱々しい印象を受けた。

 少し開いた窓の隙間から入った風が、白いカーテンとスノードロップの小さな花弁を静かに揺らした。

 妻の贈った『希望』の花言葉を持つスノードロップは、病気の前には何の効果も無かった。

 

 神田(かんだ) 明久(あきひさ)は死の間際にいた。42歳という若さで大病を患い、その僅か一年後にして余命半年という死の宣告を受けた。そして余命を告げられてから半年と一ヶ月が経った今日、小さくなった彼の生命の灯火が完全に消えようとしていた。筋骨隆々だった身体は見る影もなく痩せ細り、機械の助けを借りなければ呼吸もままならない程に衰弱していた。


 病室の白いベッドに力無く横たわる彼は口に装着した人工呼吸器を曇らせながら、自身の右手をそっと握り締める妻――神田 美和子(みわこ)の姿を見つめた。彼女の口元は僅かな笑みを貼り付けたように端が上がっていたが、明久を眺める目はどこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。

 明久は妻が贈ってくれたスノードロップを横目に流し、天井に視界を移す。白を基調とした清潔感溢れるこの病室は、天井ですら例外では無かった。彼はシミ一つない白い天井を眺めていると、やがて眠るように意識を失った。


 ベッドサイドモニターから異常を示す電子音が、一定間隔で鳴り響いた。看護師がやって来てベッドサイドモニターが正常に作動していることを確認すると、辛そうに顔を歪めて「担当の先生を呼んできます」と一言告げ、足早にその場を立ち去った。およそ一分ほどで白衣を身に纏った、美和子の見慣れた医師がやって来た。その二歩後ろの位置で、先ほどの看護師がカルテを胸に抱えて立っている。

 美和子は握っていた明久の手をそっと置いて立ち上がると、軽く一礼をした。医師も僅かに遅れて頭を下げると、美和子はそのまま小さな丸椅子に座り、明久の右手を自身の両手で包み込んだ。医師はその足で、ベッドを挟んで美和子の反対側の場所に移動した。

 医師が鋭い目つきで明久やモニターの様子を確認すると、重く、底に溜まるような息を吐き、口角を下げた。ちらりと美和子の顔を見た。不安な色を浮かべて医師の様子を注視していた美和子と目が合うと、医師は静かに目を下ろした。美和子は全てを悟ったように、無言で俯いた。


 重い沈黙が支配する病室に、規則的な電子音が鳴り響いている。

 徐々に心電図の起伏が小さなものへと変わっていく。

 やがて心電図の波形が直線になると、それまで心電図の起伏に合わせてリズム的に鳴り響いていた電子音が、ピタリと鳴りやんだ。

 はい、と医師が小声で告げた。医師は腕時計をチラリと覗き、


 「10時45分、ご臨終です」


 と、落ち着いた口調で神田明久の死を告げた。美和子の顔は伏せている為、表情は窺い知ることが出来なかった。


 「少し……二人きりにしてください」


 相当な疲れを感じさせる声色で美和子が言った。顔を伏せたまま言ったので、聞き取りづらいこもった声になっていた。医師が美和子に軽く一礼するとその場を離れ、助手の看護師が遅れてその背中を追って出て行った。


 廊下で反響している足音が、徐々に病室から離れていったのを確認すると、美和子はゆっくりと顔をあげた。


 ――ガシャッ。


 病室の入口の方で、硬質な何かが落ちた音がした。美和子は音の発生源に向かって凄まじい速度で顔を向けた。

 先ほどの看護師が、カルテを綴じたファイルを拾っているところだった。

 看護師は落としたファイルを拾い上げると、病室に背を向けるように立ち上がり、足早に去っていった。

 しばらく美和子は、感情の無い能面のような表情で、病室の入口に残る看護師の残像を凝視していた。

 


    ✩



 「10時45分、ご臨終です」


 落ち着いた口調で西村医師が言った。

 看護師という仕事を何年も続けているが、この瞬間に立ち会うのは何度経験しても慣れそうになかった。

 眼下で横たわっている神田明久を見る。

 初めてこの病院に来た頃の、筋骨隆々だった彼の面影は無くなっていた。浴衣のように羽織った病衣から枯れ枝のような細い腕が露出し、肌の色は痛々しいほどに白くなっている。大きく窪んだ眼窩の周辺は黒く変色し、人工呼吸器越しに見える萎んだ唇は土気色に染まっていた。

 入院中に彼が見せた喜怒哀楽の表情が走馬灯のように頭の中を流れた瞬間、胸から熱い鉛がせりあがるような感覚がした。

 そして私の中で荒れ狂う哀惜の激流は、いとも簡単に心の堤防にヒビを入れ、一筋の涙となって外の世界に漏れた。


 「少し……二人きりにしてください」

 

 神田美和子の発した小さな声は、必死に泣くまいと取り繕う私にとって助け舟のように思えた。頭を伏せたままの彼女に向かって西村医師が頭を下げて廊下に出ると、私も続いて病室を出た。

 私の全身が病室から見えない死角に入った瞬間、西村医師は振り返って私を呼び止めた。


 「しばらく彼女の様子を見てあげてくれないか? 10分ほど経ったら話しかけて、まだ辛そうならそのままナース・ステーションに戻ってくれて構わない」


 と、(ささや)きかけるような声で言った。

 臨終後の処理として遺体を綺麗にする作業があるのだが、家族の申し出があれば一緒に行う事がある。その申し出があるかを確かめないといけないので、家族の方が落ち着くまで待つ必要があるのだ。

 私は頷いて了承の意を示すと、西村医師は私に背を向けて歩き出した。

 離れていく足音を背中で聞きながら病室の入口の脇に立ち、こっそりと神田美和子の様子を伺った。未だに顔を伏せたままの彼女を見ると、胸が張り裂けそうな気分になった。収まりかけてた心の中の激流が再び暴れだそうとしたその瞬間、彼女はゆっくりとした挙動で顔を上げた。


 ――その豹変した神田美和子の顔を見た瞬間、戦慄が稲妻のように全身を駆け抜けた。


 怨霊が乗り移ったかのような三白眼で神田明久を見下ろし、横いっぱいに裂けた真っ赤な唇の隙間からは、(よだれ)で濡れた鋭い犬歯がその先端を光らせていた。

 狂った殺人鬼のようなその顔は、決して愛した人の亡骸に見せるものでは無かった。

 あまりの恐怖で身体が一瞬硬直し、手に持っていたファイルを落としてしまった。

 あっ、と思ったのも束の間で、落下したファイルはその衝撃で『ガシャッ』と音を立てた。

 その瞬間、彼女は針で刺突されたかのようにこちらを振り向いた。目が合うその前に落としたファイルを拾い上げると、病室の方を見ないように立ち上がり、逃げるようにその場から離れた。


 ――勘付かれただろうか。


 自分の心臓が激しく鼓動しているのを感じる。とても振り返る勇気など無かった。

 ドクンドクンと心臓が波打つ音が、一向に収まる気配がしなかった。

   



 昨日は結局、体調不良を理由に早退させてもらった。自宅に帰ってからも、神田美和子のあの表情が頭にこびり付いて離れなかった。今日出院するのも億劫だったが、いつまでも引きずる訳には行かないので無理やり気持ちを切り替えた。同僚を掴まえて話を聞くと、神田美和子はあの後、遺体の身体を拭いたり耳鼻や肛門などに綿を詰める作業も自ら進んで行って、時折感極まったように涙を見せる事もあったという。彼女は遺体を病院指定の葬儀社に預けると、その日は自宅に戻ったらしい。

 

「どこか不審なところは無かった?」


 と私が聞くと、その同僚は少し考える素振りをして顔を傾けた後


「無かったと思いますけど……」


 と不思議そうに答えた。

 あの時、神田美和子から感じた黒い波動は、私の思い過ごしだったのか? そういえば、神田明久が入院していた時は何度もあの女は病室に運んでいたが、特に不審な点も無かった。煮え切らない思いが(もや)のように胸の中を埋め尽くしていた。


 神田美和子が病室に残してある遺品の処分を病院側に頼んでいたので、私は今日、その整理をすることになっていた。その病室は昨日と変わらず、窓から差し込んだ陽光がベッドの上に日だまりを作っていた。違うのは、ここにはもう神田夫妻はいないという事だけだった。

 ベッドの頭の横に並べる様にして置かれた小さなタンスを見る。その上には、神田美和子がお見舞い品として持ってきたフルーツバスケットの、空になった容器だけが置かれていた。

 

 タンスの中身を整理していると、太い字で『79年度版 植物大図鑑』と表紙に書かれた分厚い図鑑が目に飛び込んできた。図鑑の淵から、赤や黄色の付箋がいくつか伸びている。


 そう言えば、と、窓辺に飾られた花を見た。


神田美和子が自らの夫に贈った花だった。この花が贈られて来たのを知った神田明久が、心底嬉しそうな笑顔を見せたのを覚えている。たしか、『希望』の花言葉があると神田美和子は言っていた。そして、こっそり恩返しをしようと考えた神田明久が、この植物図鑑を取り寄せて花を贈り返そうとしていたのだ。

 私も何度か相談を持ちかけられたが、花には疎いので、あまり良いアドバイスは出来なかった。結局、程なくして果てた神田明久は、ついに恩返しをする事は叶わなった。


 つるつるとした触り心地の表紙を開き、指を切らないように気を付けながら、慎重に図鑑のページを捲っていった。

 載っている写真を見ていると、とあるページで目が止まった。花冠が重いのか、茎が柔らかいのか、萼の付け根から先が下向きに垂れ下がっているのが印象的なその花は、控えめな白い外花被が三枚ついていた。外花被の一枚一枚が細長い形をしており、花びら同士の隙間から、小さな内花被三枚で雌しべを包み込んでいる姿が見て取れた。

 名をスノードロップというらしい。載っているものとは多少形や大きさが違うが、確かにこの病室の窓辺に飾られている花だった。生息分布域や栽培方法等を軽く読み流すと、最後に花言葉の欄があった。


 一目見て、雲を掴むように曖昧だった神田美和子への疑念が、急速に確信へと変わっていくのを自覚した。重たいため息を一つ吐き、震える指先で分厚い図鑑を閉じた。窓際で揺れるスノードロップを横目に流し、天井の向こう側にある空を仰いだ。


 神田美和子の狂気の証明は、確かにここにあったのだ。




 ○スノードロップ(学名:Galanthus L.)

【花言葉】

   ・『希望』、『慰め』、『逆境のなかの希望』、『恋の最初のまなざし』。

   ・ただし、人への贈り物にすると『死』を『希望』することとなり、『あなたの死を望みます』という意味に取られることがあるので注意が必要である。

          ――《79年度版 植物大図鑑/パートナーズ社》より抜粋。


 (了)

ありがとうございました。

初投稿です。感想やご指摘など、感想欄から送って頂けるとありがたいです。

なお、本作に登場する人物名や出版社名は全て架空のものです。最後のスノードロップの引用は、ウィキペディアからの引用となります。ご了承ください。

※2015/05/16 誤字修正 三百眼→三白眼

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― 新着の感想 ―
[一言] ホラーは大好きなので楽しめました。 感心するほど文章力が高いですね。 他の作品も見てみたいです。
2015/06/28 00:19 退会済み
管理
[良い点] 描写が丁寧で、きらりと光るような比喩も素敵です。 ストーリーに緊迫感があるのも良いです。 [気になる点] 長所は短所ともなり得るもので、細かい描写はストーリーの脚を止めるので、使いどころが…
2015/05/17 18:39 退会済み
管理
[気になる点] 全体的に台詞が少なく、読むのに根気がいる。 落ちが若干弱い。 [一言] 次回作に期待
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