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呉秀三博士、『佯狂』を例示する。

 佯狂とは狂人のふりをすることである。

 箕子が殷の紂王をいさめて聞く耳を持たれなかったので、狂人のふりをして奴隷に身をやつした話は歴史に名高い。

 秦漢の時代に、韓信に提案を容れられなかった荊通はそれが取り上げられなかったので、佯狂して巫覡シャーマンを装い、韓信のもとを去った(『史記』)。漢の丁鴻は弟に国を譲り、友人の鮑駿に会っても佯狂して鮑駿に気付かない振りをしたという(『東観漢記』)。後漢の時代には雷義が役人に推薦されたくなかったために佯狂した(『後漢書』)。晋の王衍が佯狂したのは結婚を逃れるため、王長文の場合は役人を辞職するためだった(『晋書』)。費昭という人も公孫述の部下になるのを逃れるために同じことをし(『華陽国志』)、これを真似たのか石偉という人も爵位を贈られたがそれを受けないために気が触れた振りをしたという(『楚国先賢伝』)

 これらは中国の事例だが、日本にも同じような話はある。

 増賀上人は橘恒平の子で、10歳のときに比叡山にのぼり慈慧大師に学んだ。才智にあふれ品行もよく、顕教密教の知識を総合し、瞑想でも極めて深い境地に達したという。名声や世俗の利益というようなものに対しては常日頃から嫌っており、世間的な交流はしなかった。冷泉天皇の詔勅で内供奉(天皇の安穏を祈祷する高僧の役職)に取りたてられそうになったときに狂気を装って逃れたという。

 興福寺の僧である仁賀は、英才の名高い人物であったが、人を嫌って有名になるのを好まなかった。高貴な人に招かれたり、お客が彼を慕って来ることがあっても、狂人をいつわったり、未亡人と姦通していると自称したりして人を避け、多武峯の寺院に入って増賀上人の弟子になった。『摩訶止観』巻七の安忍篇に「名声や利益という網・罠にかかりそうになったら、徳性を抑えて欠点を露わにし、狂気を装い実力は隠せ。それでもし逃れられなければ遥か遠方へと逃げろ」とあるのを、そのまま実行していたわけである。


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