呉秀三博士、『潔癖』を解説する。
潔癖症が古文書に出てくることは少なくない。
宋炳之という人は清潔を好み、お客が来たときなど、その人が帰ろうとして戸口を出るころにはもう椅子を拭いて床掃除を始めていた。王思徴はそばにいる人の着物に触ってしまったときは必ず紙で手を拭いたという。この人はあるとき家の梁が汚れているので門下生に洗わせたが気が済まず、削らせてもダメで、ついに材木ごと入れ替えたという人である。河修之も潔癖のあまり一日のうち十数回も体を洗ってもまだ満足しなかったので、水遙と呼ばれた。(『世説補』)
唐の有名な書家であった王維も潔癖症で、輞川に住んでいたとき、チリを嫌って毎日ハタキ十数個を使い捨てて掃除をし、そのためにハタキを作る人を2人も雇っていたが、それでも追いつかない時もあったという。宋の米元章も、家中の道具類をしょっちゅう洗い、衣類は少しでも汚れていればすぐ選択し、お客があれば立ち去るやいなや椅子を洗いはじめるという具合。また、自分の手を洗うのに専用の銀の桶と長いひしゃくを用意し、召使いに命じては柄杓で手に水をかけさせ、布では拭かず両手を叩くだけであとは自然乾燥を待つのが常であった。ある時など、礼装用の靴を他人に持たれたのを気持ち悪がって、あまりにも何度も洗わせたので壊れて使い物にならなくなったらしい。
山水画の元末四大家のひとり、倪雲林もまた好潔家であった。洗顔のたび何十回も水を替え、家の前に飾っていたアオギリの樹と庭石を、毎日掃除させていた。鄧蔚の山中に住んでいた頃、泉から7回も水を汲んで来させ、先に汲んだ桶の水でお茶を煎れ、後で汲んだもので足を洗ったりしたという。なんでも先に汲んだものよりも、後から汲んできた水の方が、その間に汚れているかもしれないからなのだそうな。趙買兒という芸妓の女性を愛し、別邸に泊まらせたが、彼女が身体を不潔にしているように思えて入浴させた。さらにベッドに入ってからも彼女の全身を触っては嗅ぎ触っては嗅ぎし、陰部がまだ汚いとまた入浴させ……と、再三繰り返して、ついに想いを遂げないまま朝が来てしまった。けっきょく倪雲林は金だけ払って帰った……という話が『軽畊録』にある。彼は倪「迂」とあだ名をつけられていたが、この病癖のためだったらしい。